【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

何もかもが大丈夫(W レッスン50)

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2020.3.21

 

レッスン50

 

私は神の愛によって支えられている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ここには、今日も明日も、あらゆる時を通じて、

あなたの前に立ちふさがるあらゆる問題に対する答えがある。

この世界の中では、

あなたは自分が神以外のあらゆるものに支えられていると信じている。

あなたの信仰は、最もつまらぬ狂った象徴の数々に捧げられている。

錠剤、金銭、「身を護るための」衣服、影響力、名声、人に好かれ、

「適切な」知り合いをもつこと、

そして、あなたの魔力の力を授けている数限りない虚無の形態である。

(1:1~3)

 

こうしたすべては、あなたが神の愛の代替にしているものである。

肉体との一体感を確実に保持しょうとして、大切にされているものである。

それらは自我への讃歌にほかならない。

あなたの信仰を無価値なものに捧げてはならない。

それらはあなたを支えてはくれない。

(2:1~5)

 

神の愛のみが、あらゆる状況においてあなたを保護するだろう。

すべての試練からあなたを引き上げ、

この世界に知覚されるあらゆる危険を超えた高みにまで上昇させ、

完璧な平安と安全の地へと運んでくれるだろう。

それはあなたを、何ものによっても脅かされず乱されることのない心の状態、

何ものも神の子の永遠なる静謐を侵すことのできない場所へと、

運んでくれるだろう。

(2:1~3)

 

幻想に信を置いてはならない。

幻想はあなたを失望させるだろう。

あなたの内なる神の愛に、全幅の信を抱きなさい。

それは永遠にして不変であり、永遠に頼むに足りるものである。

これが、今日、あなたの前に立ちふさがっているあらゆるものに対する答えである。

内なる神の愛を通して、あなたは、一見、困難に見えることのすべてを、

労せずに確かな自信をもって、解決することができる。

今日は、このことをたびたび自分に言い聞かせなさい。

それは、偶像を信じる信念からの解放宣言である。

自分についての真理の確認である。

(4:1~8)

 

今日は、朝と夜の二回、各10分間、

今日の概念を自分の意識の奥深くまで沈潜させる。

主題概念を繰り返し、それについて考え、関連する考えは浮かぶに任せ、

あなたがこの概念の真実性を認識できるように助けてもらいなさい。

平安が流れ込み、あなたを暖かく包み込んで保護するに任せなさい。

意味のない愚かな考えが入り込んできて、

神の子の神聖な心を乱すようなことはさせないようにする。

神の国とはそうしたものである。

それが、あなたの父が永遠にあなたを住まわせた安息の場所である。

(5:1~5)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

安らぎも豊かさも喜び。


じんわりとしたあたたかさや有り難さ。

 

全部、もうすでに私たちの「内」にある。


そして、その湧き出る有り難さが感じられない時は、


それを聖霊のレッスンとして受け入れて、

 

動いて不安定に見える危うい外側の世界からそっと視線を外して、

 

ゆっくり、心に戻ります。

 

もし、

 

恐れがあって、傷ついていて、

 

何をしても怒り、恐れ、悲しみが止まらないと思っていても、


「愛から離れちゃたのね」と氣づいてあげて、氣が済むまで一緒にいてあげたら、

 

それらすべてがすっかり癒されていきます。

 

それが本当の私たちの姿だから。

 

「何の問題もない」。

 

それが本当の私たちの姿だから。

愛の歌が心に流れる (W レッスン49)

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2020.3.20

 

レッスン49

 

神の声は、一日中、私に語りかける。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

日常生活に何の支障もきたさず、

一日を通して神の声を聞くことは充分に可能である。

あなたの心の中の真理がとどまっている部分は、

あなたが自覚していようといまいと、常に神との親交を保っている。

この世界の中で機能し、

この世界の法則に従っているのは、あなたの心のそれ以外の部分である。

常に散漫で秩序がなく、非常に不確かなのは、この部分である。

(1:1~3)

 

神の声を聞いている部分は穏やかで、常に安らいでおり、

完全に確かである。

存在しているのは本当はこの部分のみである。

その他の部分は荒唐無稽な幻想であり、

狂って錯乱した、何の実在性もないものである。

今日は、それに耳を貸さないように努力してみなさい。

心の中の静けさと平安が永遠に君臨している部分と同一化しようとしてみなさい。

あなたに愛を込めて呼びかける神の声を聞こうとしてみなさい。

それは、創造主がわが子を忘れていないということを思い出させようとしている。

(2:1~6)

 

今日は、五分間の練習が少なくとも四回必要であり、

できればさらに回数を増やす。

神とあなたの真の自己のことをあなたに思い出させようとしている神の声を、

私たちは実際に聞こうと努力することになる。

そうすることで自分たちの意志を神の意志に合一させているのだと知りつつ、

私たちはこの最も幸せで神聖な考えに取り組んでいく。

神はあなたが神の声を聞くことを望んでいる。

あなたが聞くようにと、神はそれをあなたに与えた。

(3:1~5)

 

深い静寂の中で耳を傾けよう。

じっと静まり、心を聞きなさい。

あなたの真の想念を覆い隠し、

神とあなたの永遠の絆を曖昧にしてしまう耳障りな叫びや病んだ想像を、

すべて通り越して進みなさい。

この狂った世界の騒々しい考えや情景や音声の向こうであなたが待っている平安の中へと、深く沈んでいきなさい。

あなたはこの世界に生きているのではない。

私たちはあなたの真の故郷に戻ろうとしている。

あなたが真に歓迎される場所に行こうとしている。

神に到達しょうとしている。

(4:1~8)

 

今日の概念を頻繁に繰り返すことを忘れないようにしなさい。

必要であれば、目を開けたままでもよいが、できれば目を閉じて行うとよい。

そして、可能なときはいつでも静かに座り、

世界に対して目を閉じ、

自分は神の声が語りかけてくれるように招いているのだという実感をもって、

今日の概念を繰り返す。

・・・・・

 コースに出会うまでは、

 

この世界での居場所を半狂乱になり必死に探していました。

 

誰かとの関係性の中にも居場所を探していました。

 

世界に存在を知らしめなければ生き残れないと恐れていました。

 

そのためにアイデンティティーを積み上げていかなきゃと思い込んでいました。

 

そのために役割に作り上げ、固執していていました。

 

良い子ちゃんであり完璧な親であり素晴らしい友人でなければならないって。

 

そうしなければ罰されるのでは?と自分を恐れでグルグル巻きにしていました。

 

・・・・・

 

「コース」では、

 

神は一度も怒っていないと述べられています。

 

だけど、なかなか自分の信念を手放せませんでした。

 

何度目かの「コース」のワークにて、

 

「意欲」ってなんなんだろう?

 

「心を開く」どういうこと?

 

そしたら、やはりシンプルに、

 

これまでの自我の主張を全部全部、出てくるまで、真摯に優しく見つめてあげて、

 

安心して静まるのを見届けてあげるだけだなぁ~と。

 

見届けると消えていきます。

 

そうして心が「空っぽ」になることが、

 

「心を開く」という状態で、

 

真実に「意欲」を持つという姿勢なのでした。

 

今日のレッスンは嬉しくて幸せで美しい文章。

 

もうずっと「神の声」の中にいたい、

 

ずっとそうして過ごしたいって思いました。

 

それを自分に認めてあげると、

 

焦燥感が消えさり、

 

あんなにも、

 

去らせるのは難しいと感じていた”自我が主張していた役割”は静かに消えていきました。

全体性に頼ろう (W レッスン48)

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2020.3.19

 

レッスン48

 

恐れるべきものは何もない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今日の主題概念は、単に事実を述べているにすぎない。

幻想を信じる者たちにとっては、このことは事実ではないが、

幻想は事実ではない。

真理においては、恐れるべきものは何もない。

これを認識することはいとも簡単である。

しかし、幻想が事実であってほしいと思っている者にとっては、

これを認識することは非常に難しい。

(1:1~5)

 

今日の練習は、非常に短く簡単なものであり、かなり頻繁に行う。

ただ主題概念をできる限りたびたび繰り返すだけである。

いつでも、どんな状況にあっても、

目を開けたままでこの概念を使ってよい。

けれども、いつでも可能なときには、一~二分を割いて、目を閉じて、

今日の概念をゆっくりと自分に向かって繰り返すようにする。

特に重要なことは、何かがあなたの心の平安を乱すならば、

ただちにこの概念を使うということである。

(2:1~5)

 

怖れがあるということは、

あなたが自分の強さに頼っていることの確かなしるしである。

恐れるべきものは何もないという自覚は、

自分ではその場所をまだ認識していないにしても、

少なくとも心のどこかで、あなたが神を思い出しており、

そこであなたの弱さが神の強さと取り替えられていることを示している。

あなたが自ら進んでそのようにしょうという気持ちになった瞬間に、

恐れるべきものは本当に何もなくなるのである。

(3:1~3)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

恐れがあるときって、


思考が逆転している時なのですね。

 

私がどうにかしなきゃって必死になっています。

 

自分でどうにかできる、

 

自分が見つけることができる、

 

自分が知っている、

 

この世界に答えがある、

 

外のどこかに正解がある、

 

そんなふうにまた外を彷徨います。

 

そんな無駄なジタバタを一切やめて、

 

静かに目を閉じて、

 

私が私を攻撃しているだけ、と氣づき、


その動揺、感情、感覚を、


揺るぎない愛に明け渡す機会にします。


そして、同じ動揺を感じている兄弟と共に癒されますようにと祈りたいです。

 

もう本当にシンプルに生きたいです。

強さに抱きしめられて (W レッスン47)

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2020.3.18

 

レッスン47

 

神は強さであり、その強さを私は信用する。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

もし自分の強さを頼みにしているのならば、

あなたが心配し、不安になり、怖れを抱くのはもっともである。

あなたが予測したり、制御したりできるものが、何かあるだろうか。

あなたの中の何が、さまざまな問題のすべての側面を把握し、

ただ善のみがもたらされるような形でそれを解決する能力を、

あなたにもたらすだろうか。

正しい解決法の認識と、それが達成されるという保障を、

あなたに与えられるようなものが、あなたの中にあるだろうか。

(1:1~5)

 

あなたひとりでは、こうしたことは何一つできない。

それができると信じることは、

信頼すべき理由のない場所にあなたの信頼を預け、

怖れ、不安、憂鬱感、怒り、悲しみを当然のものと見なすことである。

弱さに信を置きながら、安全を感じることができる者などいるだろうか。

だが、強さに信を置きながら、弱さを感じたりする者がいるだろうか。

(2:1~4)

 

あらゆる状況において、神があなたの安全である。

神の声は、あらゆる状況と、

あらゆる状況のすべての側面において神を代弁しており、

神の強さと神の保証を頼みとするには厳密に何をすればよいかをあなたに告げている。

このことに例外はない。

なぜなら、神は例外をもうけないからである。

そして、神を代弁して語る声は、神が考える通りに考える。

(3:1~4)

 

今日は、あなた自身の弱さを通り越して、真の強さの源に到達しようと試みる。

今日は五分間の練習を四回行うことが必要であるが、

それよりも長い練習をもっと頻繁に行うことが奨励される。

いつものように、目を閉じて今日の主題概念を繰り返すことから、練習を始める。

それから、一~二分かけて、

これまでの人生であなたが怖れをつぎ込んできた状況を探し、

次のように自分に言いながら、その一つひとつを念頭から払いのける。

 

神は強さであり、その強さを私は信頼する。

(4:1~5)

 

次に、自分は力不足だという感覚に関連したすべての心配を、

さっと通過していくようにする。

あなたを憂慮させる状況は、

おしなべて自分が力不足だという気持ちと関連していることは明白である。

そうでなければ、

あなたはその状況にうまく対処できると信じているはずだからである。

あなたは、自分を信頼することで自由を得るのではない。

そうではなく、

あなたの中にある神の強さが、すべてのものごとにおいて成功をおさめるのである。

(5:1~4)

 

自らの弱さを認識することは、

自分の誤りを訂正するのに必要な一歩であるが、

あなたに必要であると同時にふさわしい自信をあなたにもたらすには、

充分な一歩とは言えない。

あなたはさらに、あらゆる点から見て、そしてすべての状況において、

自らの真の強さに自信をもつのはまったく当然のことだ、

という自覚を獲得しなければならない。

(6:1.2)

 

練習の後半には、心の奥深くまで入っていき、

真の安全がある場所に到達しょうとする。

どんな束の間の間であっても、深い平安を感じるならば、

自分がその場所に到達したということをあなたは認識するだろう。

心の表面でざわついている諸々のつまらない事柄をすべて手放し、

その奥深くに入っていき、神の国に達しなさい。

あなたの中に、完璧な平安が存在する場所がある。

あなたの中に、不可能なことは何もない場所がある。

あなたの中に、神の強さが宿っている場所がある。

(7:1~6)

 

あらゆる妨害に対するあなたの答えとして、

この概念を用いる。

神の強さを信頼しているのだから、平安は自分の当然の権利だ、

という事を覚えておくようにする。

(8:2.3)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神の強さ、力とは、

 

永遠であり、愛であり、全体であるということ。

 

自我が思っている「力」とは、

 

強い時もあれば、弱い時もあるかもしれない、という不安定なものだ。

 

当然、物質的な力はそういうものであり、

 

「コース」にて、

 

物質的な「力」は本質の「力」とは全く違うと述べられています。

 

私たちにそのことを一瞬でもいいから自覚しましょう、と提案されている。

 

長年の自我の思い込みの自動思考が止むためにも、

 

なるべく心静かなひとときを過ごし、

 

心静かだからこそ際立つ「自動思考」を正面から見つめ、

 

洗いざらい、光へと運んでいきます。

 

朝も昼も夜も・・・・・忘れないように、

 

神の確かさを、

 

内側に見ようと試みることをしていきます。

 

その意欲により、

 

益々意欲が湧きます。

大切にしたい。愛したい。(W レッスン46)

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2020.3.17

 

レッスン46

 

神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

神は一度も咎めたことはないので、赦すことはしない。

そして、赦しが必要になることがあるとすれば、その前に、咎めがあったはずである。

赦しはこの世界が大いに必要としているものであるが、

それはここが幻想の世界だからである。

だから、赦す者たちは、自らを幻想から解放しているのであり、

赦しを与えずにおく者たちは、自分自身を幻想に縛りつけているのである。

そしてあなたが咎める相手はあなた自身だけであり、

あなたが赦す相手もあなた自身だけである。

(1:1~5)

 

神は赦すことはしないとはいえ、赦しの土台は神の愛である。

怖れは咎め、愛は赦す。

そうして赦しは、怖れが生み出したものを取り消し、

心が再び神を自覚できるようにする。

だからこそ、赦しは真に救済だと言えるのである。

それは、幻想が消え去るための手段である。

(2:1~5)

 

それをしながら目を閉じて一~二分間、心の中を探し、

あなたがまだ赦していない相手を見つけ出す。

「どれくらい」赦していないかは問題ではない。

あなたはその人を完全に赦したか、まったく赦していないかのどちらかでしかない。

(3:3~5)

 

演習がうまく行っていれば、

赦していない人々を何人か見つけることは難しくないはずである。

あなたが嫌いな相手なら誰でも、適切な対象であると考えて間違いない。

それぞれの人について名前を呼び、次のように言う。

 

神は愛であり、その愛の中で○○さん、私はあなたを赦します。

(4:1~4)

 

今日の練習の第一段階の目的は、自分自身を赦す立場にあなたを置くことである。

心に浮かんでくるすべての人々に対して今日の概念をあてはめた後、

自分に向かって次のように言う。

 

神は愛であり、その愛の中で、私は私自身を赦す。

 

その後、残りの練習時間を用いて、関連した概念をたとえば次のようにつけ加える。

 

神は愛であり、その愛の中で、私は私自身を愛す。

神は愛であり、その愛の中で、私は祝福されている。

(5:1~6)

 

私は神の子なので、罪があるはずがない。

私はすでに赦されている。

神に愛されている心に恐れはありえない。

愛が私をすでに赦しているのだから、攻撃する必要はない。

(6:3~6)

 

一日のうちに、目の前にいる人でもいない人でも、

誰かに対してなんらかの否定的な反応を自覚したときにはいつでも、

それに具体的に適用することが必要である。

そうした場合には、その人に向かって、声を出さずに次のように言う。

 

神は愛であり、その愛の中で、私はあなたを赦します。

(7:3~5)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このワークを随分はぐらかし、後回ししてきました。

 

どうしても赦せないと思う人や過去にトライする氣になれなかったからです。

 

なんとなく「赦したふり」だけしてきました。

 

やはりどうしても赦したら、

 

あの苦しい時間を体験した私は救われないんじゃないか?と考えているのです。

 

そうじゃないと理屈ではわかりますが、

 

どうしても「赦したくない」のです。

 

ですが、

 

これこそが「自分を赦したくない」「自分は赦されるはずがない」という信念です。

 

どうしても「自分を赦せない」のです。

 

ここにいて、ようやく、

 

「もう赦したいなぁ」という意欲が。

 

大切にされなかった、愛されなかった、無視された、奪われた、脅された、騙された・・・・・・。

 

それは、私が私にしてきたこと。


私が私への攻撃。


私は私を大切にするね。

私は私を愛するね。

私は私を無視しないよ。

私は私を脅かさないよ。

私は私を騙さないよ。

私は私をしないよ。


自分虐めはやめます。

 

赦したい

 

そして、

 

もう大切にしたい。

 

何もかもを。

 

愛したい。

 

すべてを。

 

それしかしたくないです。

 

それだけが生きる目的です。

ひかり (W レッスン45)

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2020.3.16

 

レッスン45

 

神は心であり、その心とともに私は思考する。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今日の概念は、あなたの真の想念とは何かを理解するための鍵となる。

 

あなたが見ていると思っているものは、

心眼(ビジョン)と少しも関係がないのと同様に、

あなたの真の想念は、あなたが考えていると思っているものとは違う。

 

実在するものと、実在するとあなたが思っているものとは、何の関わりもない。

 

あなたが自分の考えだと思っているものは、

どこから見ても、あなたの真の想念とは似ても似つかない。

 

あなたが見ていると思っているものと、

心眼(ビジョン)があなたに見せるものとの間には、どんな類似性もない。

(1:1~5)

 

あなたは神の心とともに考える。

したがって、神が自らの想念をあなたと共有するのと同様に、

あなたも自分の想念を神と共有する。

それらは同じ想念である。

なぜなら、同じ心で思考されたものだからである。

共有するということは、同じくするということであり、

ひとつにするということである。

また、あなたが神の心とともに考える想念は、あなたの心から離れない。

なぜなら、想念がその源から離れることはないからである。

したがって、あなたの想念は、あなたと同様、神の心の中にある。

それらはまた、神がいるあなたの心の中にある。

あなたが神の心の一部であるように、あなたの想念も神の心の一部である。

(2:1~8)

 

それでは、あなたの真の想念はどこにあるのだろうか。

今日、私たちはそれに到達することを試みる。

それはあなたの心の中にあるのだから、

私たちはあなたの心の中にそれを探さなければならない。

それがその源を離れてしまったということはありえないので、

それはまだそこにあるはずである。

神の心によって思考されたものは、

被造物の一部であり、永遠のものである。

(3:1~5)

 

私たちは非実在なるものを去って、実在なるものを求めることを試みる。

そして真理を選ぶために世界を否定する。

世界の考えに、私たちを引きとめさせはしない。

世界の想念が、

神が私たちにさせようとすることが不可能だと教えようとしても、

私たちは耳を貸さない。

そうではなく、

神が私たちにさせようとすることのみが可能であると認識するように努める。

(4:2~6)

 

私たちはまた、神が私たちにさせようとすることだけが、

私たちがしたいことだと理解しょうとする。

そしてまた、神が私たちにさせようとすることをしょうとして、

私たちが失敗するはずがないと、覚えていられるよう努める。

今日の成功に自信をもってよい理由は充分にある。

それは神の意志だからである。

(5:1~4)

 

この主題概念を心にとめながら、

ほんの少しの間これに関連したことを考えるようにする。

四つか五つ、自分が考えたことを今日の概念につけ加えた後、

もう一度その概念を繰り返し、次のように優しく自分に言う。

 

私の真の想念は私の心の中にある。私はそれを見つけたい。

 

そして、

あなたの心の中で真理を覆い隠しているすべての非実在の想念の前を通り過ぎて、

永遠なるものに到達しようとする。

(6:2~6)

 

あなたの心の中に無意味な考えや狂った想念をいっぱい散乱させているが、

そうしたものの奥には、はじまりのときにあなたが神とともに思考した想念がある。

それらはこれまでも常にそうであったそのままに、

これからも常にあなたの心の中にあることだろう。

それ以来、あなたが思考してきたすべては変化するが、

それらが依拠している基盤はまったく不変である。

(7:1~4)

 

今日の演習の目指す先は、この基盤である。

ここでは、あなたの心は神の心とつながっている。

ここに、神の想念とひとつになったあなたの想念がある。

この種の練習に必要なことは、

天国において父なる神と子なる神へと捧げられた祭壇に近づくかのような気持ちで練習に望むことである。

なぜなら、あなたが到達しようとしているところは、

そのような場所だからである。

どれほどの高みにまで自分が行こうとしているかを、

おそらくあなたはまだ実感できないだろう。

それでも、これまでに獲得してきたわずかな理解をもってしても、

これは無益な遊びではなく、聖性の演習であり、

神の国に到達しようとする試みであると、

自分に思い出させることはできるはずである。

(8:1~7)

 

今日の短い練習では、

神とともに思考する心の聖性を理解することが自分にとっていかに重要かを思い出すように努める。

一日を通してこの主題概念を繰り返すときには、

一~二分かけて、自分の心の聖性をしっかり認識するようにする。

あなたが接待主となってもてなす神にふさわしくないような想念は、

ほんのわずかな間でも、すべて脇に退ける。

そして、神があなたとともに思考する想念について神に感謝する。

(9:1~4)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「GOT IS」

 

それだけ言って口を閉じる。

 

自我が主張したら、

 

それを恐れず責めず優しく迎え入れ、

 

光の中へ。

 

光のワーク(W レッスン44)

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2020.3.15

 

レッスン44

 

神は光であり、その光の中で、私は見る。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

今日は昨日の主題概念にもう一つ別な次元を加えて、同じ概念を続けていく。

あなたは闇の中で見ることはできないし、

光を作り出すこともできない。

闇を作り出してから、その中で見ていると考えることはできるが、

光は生命を反映するものなので、被造物の一側面である。

被造物と闇は共存できないが、

光と生命は被造物の別々の側面にすぎないので、必ず一緒に存在する。

(1:1~4)

 

真に見るためには、光が外ではなく内にあるということを認識しなければならない。

 

あなたは自分の外で見ることはなく、視覚器官があなたの外にあるのでもない。

 

この視覚に不可欠な要素は、真に見ることを可能にする光である。

 

それは常にあなたとともにあり、あらゆる状況で心眼(ビジョン)を可能にしている。

(2:1~3)

 

今日は、その光に到達することを試みる。

この目的のために、

私たちは、以前にも示され、今度もたびたび活用することになる演習の形態を用いる。この形態は訓練されていない心にとっては、特に難しいものであり、

心の訓練の主要なゴールの一つである。

それは訓練されていない心に欠けているまさにそのものを必要とする。

しかし、あなたが真に見ようとするなら、この訓練を達成しなければならない。

(3:1~5)

 

今日使う練習の形態は、訓練されている心にとっては、最も自然で容易なものである。

しかし、訓練されていない心には、最も不自然で難しいものに思える。

(4:3)

 

あなたの心は、もはや、まったく訓練されていないわけではない。

あなたには、今日用いる演習の形態を学ぶための用意は充分にできているが、

強い抵抗感が生じることがあるかもしれない。

その理由は非常に単純である。

このやり方で練習するとき、あなたは自分が今信じている一切のものごとと、

自分が作り上げたすべての考えを後にすることになるからである。

正しく言うなら、これは地獄からの解放である。

しかし、自我の目を通して知覚されるならば、

それはアイデンティティーを失うことであり、地獄に落ちることにほかならない。

(5:1~6)

 

もしあなたが、ほんの少しでも自我から離れたところに立つことができたなら、

自我による反対や恐れが無意味だと認識することは少しも難しくないだろう。

 

あなたがこれとは逆のどのようなことを信じているとしても、

「光に達することは、闇から脱出することである」ということを、

ときどき思い出せば助けになるだろう。

 

あなたは光の中で見るのであり、神がその光である。

 

あなたは神に到達しょうと試みているのである。

(6:1~4)

 

練習は、目を開けたまま今日の概念を自分に繰り返すことから始め、

ゆっくりと目を閉じて、さらに数回その概念を繰り返す。

その後、一切の余念や雑念を静かにやり過ごしながら、心の奥へと沈潜する。

これをあなたが自分で止めることを選択しない限り、

あなたの心がこの途中で止まることはない。

心はそれ自体の自然な道筋に沿って進んでいくだけである。

現れては消えていく自分の考えを、

深入りせずに観察し、静かにそれらが消え去るままにする。

(7:1~5)

 

自分のしていることが重要なことであり、

自分にとって計り知れない価値があるという感覚や、

非常に神聖なことを試みているという自覚は、必要である。

救済はあなたが達成するものの中で最も喜ばしいものである。

また、

それはあなたにとって、真に役に立つ唯一のものなので、唯一意味のある達成である。

(8:1~3)

 

もしどんな形であれ抵抗を感じるようなら、

演習を休止して、恐れを自覚していない限りは目を閉じたままで、

今日の概念を繰り返す。

恐れがあるときは、少しの間、目を開けるほうが安心できるだろう。

それでも、できるだけすぐに目を閉じて演習に戻るようにする。

(9:1~3)

 

演習を正しく行っていれば、何らかのくつろいだ感覚や、

実際に光の中へと入らないまでも、光に近づいていく感じさえも体験するはずである。

世界の考えを通り過ぎていきながら、

形もなく限界もない光のことを考えるようにする。

そして、世界の考えに自分で力を与えない限り、

それらはあなたをこの世界につなぎ止めてはおけないということを、

忘れてはならない。

(10:1~3)

 

一日を通して今日の概念を何度も繰り返す。

目を開けたままでも閉じていても、そのときの都合でどちらでもよい。

けれども、とにかく忘れることのないようにする。

何よりもまず、今日は忘れないと決意することである。

(11:1~3)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

心はそれ自体の自然な道筋に沿って進んでいくだけである。

現れては消えていく自分の考えを、

深入りせずに観察し、静かにそれらが消え去るままにする。

 

自我はすぐさま不安を煽ってきました。

 

過去の一切を失うことになるぞ!と。


だけど、その主張を丁寧に見ていくと、怖がる小さな私が泣いていました。


なので、気が済むまで一緒にいてあげました。


そしたら、

 

「それは最初からなかった」と浮かびました。

 

怖さが去りました。


まやかしでした。

 

このワークは入念にやりたいです。

 

あの過去もあの過去も、


焦ることなく、

 

出てきた時は、


ただ優しく、


光に照らし、


光と一緒になっていくのを見ていきます。