心の使い方を根本から間違っていたのです。
私は、この地上で生きていると思っていて、この不確かで不安定で狂気に満ちた幻の部分を本物だと思い込み、この地上でなんとかしょうと日々四苦八苦し、そこに心を埋没させていたのです。
そしてその苦しみを認めず、苦しみに執着し、誤魔化しながらやってきました。
壮大な勘違いのストーリーに埋没していたのでした。
光そのものである喜びに満ち溢れた世界に最初から居たというのに、罪悪の夢を見続けることに夢中になっていました。
心を本当に使う。
それは創造されたままの私を認識することでした。
ただ神の愛に委ね、くつろぐ、ということだったこと。
これまでの狂った自分の間違いをただ認め、単純に手放し、目を開き、直視できないほどの光の温かさを、受け入れます。
この世界を看過します。
私の間違いを最初から看過してくださった神と同じように。
この世界を裁きの対象とすることをやめます。
この世界で犠牲になってきたという妄想を手放します。
この世界を神と共に見ます。
それがこの世界で授けられている恩寵です。
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ワークブック
レッスン168
あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。
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あなたが神の愛の意味を知ってさえいたなら、希望も絶望もありえなかっただろう。
なぜなら、希望は永遠にかなえられており、いかなる絶望も考えられないからである。
神の恩寵はすべての絶望に対する神の答えである。
その中で神の愛が思い出されるからである。
神の意志が認識されるための手段を、神が喜んで与えないということがあるだろうか。
神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。
眠りから覚めるための神の手段を求めさえすれば、その心の中で、神についての記憶は目覚める。
(2:1~6)
神の恩寵という贈り物は、単なる答え以上のものである。
それは眠っている心が忘れているすべての記憶を取り戻し、愛が何を意味するかについてのすべての確信を回復させる。
(3:5.6)
神はわが子を愛している。
この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。
そうすれば、まず最初に心眼が訪れ、その一瞬の後には智識がやってくるだろう。
恩寵の中であなたは、ひとつの光が世界のすべてを包み込んでいくのを見る。
皆の胸が高揚してその光を自分のものと宣言し、どの顔からも恐れが消えてゆくのを見る。
今や、天国をあと一瞬でも遅らせる何が残っているだろう。
あなたがすべてを赦したときに、まだ取り残されずに残っているものなどあるだろうか。
(4:1~5)
私たちが信を抱く対象は、贈り主であり、贈り物を受け取る自分自身ではない。
私たちは自分の間違いを認める。
だが、それに答えるのは、いかなる誤りも知らない神である。
神は、私たちが間違いを手放し、感謝と愛のうちに神のもとに昇っていくための手段を授けることによって、私たちの間違いに答える。
(5:2~3)
あなたの恩寵が私に授けられています。
私は今、それを自分のものとして宣言します。
父よ、私はあなたのみもとに参ります。
そうすればあなたは私の求めに応じて、私のもとにきてくださいます。
私はあなたに愛されているあなたの子です。
(6:5~9)