【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

聖霊と共に見る(W レッスン168)

心の使い方を根本から間違っていたのです。

 

私は、この地上で生きていると思っていて、この不確かで不安定で狂気に満ちた幻の部分を本物だと思い込み、この地上でなんとかしょうと日々四苦八苦し、そこに心を埋没させていたのです。

 

そしてその苦しみを認めず、苦しみに執着し、誤魔化しながらやってきました。

壮大な勘違いのストーリーに埋没していたのでした。

 

光そのものである喜びに満ち溢れた世界に最初から居たというのに、罪悪の夢を見続けることに夢中になっていました。

 

心を本当に使う。

それは創造されたままの私を認識することでした。

 

ただ神の愛に委ね、くつろぐ、ということだったこと。

 

これまでの狂った自分の間違いをただ認め、単純に手放し、目を開き、直視できないほどの光の温かさを、受け入れます。

 

この世界を看過します。

私の間違いを最初から看過してくださった神と同じように。

 

この世界を裁きの対象とすることをやめます。

この世界で犠牲になってきたという妄想を手放します。

 

この世界を神と共に見ます。

それがこの世界で授けられている恩寵です。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン168

 

あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。

 

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あなたが神の愛の意味を知ってさえいたなら、希望も絶望もありえなかっただろう。

なぜなら、希望は永遠にかなえられており、いかなる絶望も考えられないからである。

神の恩寵はすべての絶望に対する神の答えである。

その中で神の愛が思い出されるからである。

神の意志が認識されるための手段を、神が喜んで与えないということがあるだろうか。

神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。

眠りから覚めるための神の手段を求めさえすれば、その心の中で、神についての記憶は目覚める。

(2:1~6)

 

神の恩寵という贈り物は、単なる答え以上のものである。

それは眠っている心が忘れているすべての記憶を取り戻し、愛が何を意味するかについてのすべての確信を回復させる。

(3:5.6)

 

神はわが子を愛している。

この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。

そうすれば、まず最初に心眼が訪れ、その一瞬の後には智識がやってくるだろう。

恩寵の中であなたは、ひとつの光が世界のすべてを包み込んでいくのを見る。

皆の胸が高揚してその光を自分のものと宣言し、どの顔からも恐れが消えてゆくのを見る。

今や、天国をあと一瞬でも遅らせる何が残っているだろう。

あなたがすべてを赦したときに、まだ取り残されずに残っているものなどあるだろうか。

(4:1~5)

 

私たちが信を抱く対象は、贈り主であり、贈り物を受け取る自分自身ではない。

私たちは自分の間違いを認める。

だが、それに答えるのは、いかなる誤りも知らない神である。

神は、私たちが間違いを手放し、感謝と愛のうちに神のもとに昇っていくための手段を授けることによって、私たちの間違いに答える。

(5:2~3)

 

あなたの恩寵が私に授けられています。

私は今、それを自分のものとして宣言します。

父よ、私はあなたのみもとに参ります。

そうすればあなたは私の求めに応じて、私のもとにきてくださいます。

私はあなたに愛されているあなたの子です。

(6:5~9)

私たちの生命は私たちが想像しているようなものではない(W レッスン167)

分離していないということを感じる。

この感覚を深く味わおう。

散らしている心を内側に取り戻す。

あちこちに飛ばしていた意識をひとつにする。

黙って座る。

私たちの生命は私たちが想像しているようなものではない。

当たり前の奥に、痛みの奥に、苛立ちの奥に、

しっとりと安定している楽園だけがある。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン167

 

一なる生命(いのち)があり、それを私は神と共有している。

 

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死とは、自分が自分の創造主から分離しているという考えである。

(4:1)

 

死が生命(いのち)から生じることはありえない。

(5:1)

 

心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。

心は自分が目覚めているときの状態を変化させることはできない。

心は肉体を作ることができないだけでなく、肉体の中に住むこともできない。

心にとって異質であるものは存在しない。

なぜなら、そうしたものには源がないからである。

心は、すでに存在しているものだけを創造するのであり、もともと自分にない属性をそれらに与えることはできないし、自らの心としての永遠なる状態を変えることはできない。

それは物質を作り出すことはできない。

死ぬように見えるものは、ただ心が眠っていることを示すしるしであるにすぎない。

(6:1~7)

 

生命に対極があるとすれば、それは生命の別な形でしかありえない。

そうしたものであれば、自らを創造したものと和解できる。

それは真の意味で反対のものではないからである。

その形態は変わるかもしれないし、それそのものではないように見えるかもしれない。

しかし目覚めていようと眠っていようと、心は心である。

創造されたいかなるものにおいても、心は心の反対のものではないし、心が自分が眠っていると信じるときに作り出しているように見えるものにおいても、心が心の反対のものとなることはない。

(7:1~5)

 

今日、私たちは真理の子どもとなって、私たちの神聖な継承遺産を拒むことをやめよう。

私たちの生命は私たちが想像しているようなものではない。

自分の目を閉じたからといって生命が変化したり、自分が眠りに入り、夢の中で本来の自分とは反対のものを見たからといって、自分が自分ではないものになったりするだろうか。

私たちは今日、どのような形の死を願うこともしない。

また、神ご自身が永遠なる生命の想念を置いたところに、その反対のものとして私たちが想像したものを、一瞬たりとも住まわせないようにしよう。

(10:1~5)

 

眠っている心は必ず目覚める。

そうした心は自らの完璧さが生命の主を実に完璧に映し出しているのを見るとき、そこに映し出されたものの中へと溶け込んでいくからである。

それは映し出されているものそれ自体となり、そのように映し出すことを可能にしているその光となる。

心眼は今や必要ではなくなる。

なぜなら、目覚めた心とは、自分の源や自己や聖性を知る心だからである。

(12:3~7)

 

 

 

感触(W レッスン166)

分離の世界が提供する不確かさの正反対を受け入れる。

 

喜びって無条件。

ひとつもこの世界が主張している条件は必要がない。

 

そして、私が喜びなら、周りの人もすべて喜び。

素直に神の子の自覚を受け入れるだけ。

 

以前は受け入れたくても、頑なに「思考」が「そんなこと信じられない」と言い張っていたし、神の子としてふさわしくなるためには「思考」を正す必要があると思っていたけど、そもそも「思考」は正せない。

ただ「思考」を看過する勇気だけが必要だった。

そして、自分だけではなく、間接的に入ってきたすべての人の「思考」をも、全部、看過することなのだ。

 

コースの実践のおかげで、これらの意味が腑に落ちて、「思考」を優しく愛でられるようになってきた。

軽い。

嬉しい。

ありがとう。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン166

 

私には、神の贈り物がゆだねられている。

 

・・・・・

 

今こそ私たちは生きる。

今や死はありえないからである。

死を求める願望には答えが与えられた。

死を見ていた視覚は今、これまでの偽装していたあなたではないことを知覚する心眼へと入れ替わった。

あなたがどんな怖れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。

その存在は、あなたが貧困という概念に圧迫されるたびに、あなたのもっている贈り物のすべてを差し示す。

あなたが自分を孤独でおびえた者として知覚するときには、あなたには旅の同伴者がいると語りかける。

(11:1~4)

 

それらの贈り物はあなたのものであり、あなたが逃げてきた寂しい道を選んだすべての者に与えるようにと、あなたにゆだねられている。

彼らは自分が願った道をすすんでいるだけだということを理解していない。

彼らにこれから教えるのはあなたである。

あなたはキリストから、彼らが歩むもう一つの道があることを学んだからである。

(13:1~3)

 

キリストが触れるのを感じることで誰もが与えられるものについて、生きて証しする者となりなさい。

神はすべての贈り物をあなたにゆだねている。

神の贈り物を受け入れ、キリストの感触を体験することを選択する心がどれほど大きく変容するかを、あなたの幸福によって証ししなさい。

これが、今やあなたの使命である。

神はご自身の贈り物を受け取ったすべての者に、今度はそれを与える任務をゆだねるからである。

神はご自身の喜びをあなたと共有してきた。

だから今度は、あなたがそれを世界と分かち合いにいく。

(15:1~8)

夢を越えて(W レッスン165)

いつまでも「罪悪」「恐怖」「孤独」「生死」の夢を握りしめておくのをやめないでいるのは、この夢(幻想)が往古から続き、あまりにも馴染み深く、疑うことも忘れてしまっているから。

 

時間と空間を捏造し、その中で「罪悪」「恐怖」「孤独」、そして「生死」というゲームの夢(幻想)に愛着、執着している。

 

見渡せば、この世界のニュースもエンターテインメントも、「罪悪」「恐怖」「孤独」「生死」のゲームで埋め尽くされている。

 

そこから抜け出し勝利する人は、「特別」な条件付きで、ほんの一握り。

だからこそ、我こそは!と獲得するために戦わないといけないようになっている。

 

誰かをゲット。

お金をゲット。

物をゲット。

健康をゲット。

 

そしたら、「罪悪」「恐怖」「孤独」、「生死」からも逃れられるはず・・・!

 

だけど、これらすべてが”不確か”なもの。

だからこそ、油断できない。

いつも緊張を張り巡らせて、キープし続けるために奔走しなければならない。

 

この夢(幻想)を可能にしているのが「肉体」とそれを信じる「思考」。

 

「夢(幻想)」と「肉体」は相反するように見えているけど、この2つで1セットになっていて、「肉体」を”自分”だと思い込んでいる限りは「罪悪」「恐怖」「孤独」「生死」は無くならない。

 

・・・

 

そんな狂気のループに氣がつき、

 

今度は、その狂気のループを恨めしく思っていた。

 

この「狂気のループ」をやっつけなきゃ、終わらせなきゃと思ってたし、自分が肉体という分離を選択し、夢見の世界にいることを悔やみ、憎んだ。

 

そして、これこそが、「狂気のループ」、「罪悪」「恐怖」「孤独」「生死」をリアルにしていたい!という二重のトラップだったのだ。

 

「コース」による「正気」、「正見」の導きがなけでば、この無限ループの構造を見抜くことはできなかった。

 

・・・

「狂気のループ」の丸ごとを、ただ優しく看過する。

 

モナリザの微笑のごとく、ふんわりと包んで手を離す・・・。

 

それだけなのだ。

 

そしてそのためにできる唯一のことは、「狂気のループ」で動揺し、反応して、感じている身体感覚を、抵抗せずにつぶさに感じきることだけなのだ。

 

そうすれば、焦げ付くように愛着、執着していた「罪悪」の夢は、ふわりと空へ溶けて消えていくのだ。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン165

 

私の心が、神の想念を拒否しませんように。

 

この世界が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を越えたところにある真理を否定しているということ以外にどんな理由があるだろうか。

不幸や死についてのあなた自身の考え以外に、何があなたのために父が意志している完璧な幸福と永遠の生命を覆い隠すだろう。

そして、幻想以外の何が、隠蔽不可能なものを隠せるだろう。

あなたがすでにもっているものをあなたから離しておけるものとは、その存在を否定し、それを見ないというあなた自身の選択以外に何がありえるだろうか。

(1:1~4)

 

神の想念があなたを創造した。

それはあなたから去ったことはなく、あなたも一瞬たりともその想念を離れたことはない。

それはあなたそのものである。

(2:1~3)

 

天国を拒否してはならない。

求めさえすれば、それは今日あなたのものになる。

また、あなたがその贈り物の偉大さや、自分の心がそれによってどれほど変わることになるかを、前もって知覚していなければならないというわけでもない。

受け取りたいと求めなさい。

そうすれば、それはあなたに与えられる。

そうすることで、確信がもてる。

あなたがそれを自分のものとして歓迎するまでは、不確かさが残る。

しかし神は公平である。

あなたが受け入れることによってのみ、授けられるものであるとき、それを受け取るためにあなたに確かさが要求されることはない。

(4:1~8)

 

真に欲しながら求めなさい。

(5:1)

 

今やすべての疑いは過ぎ去り、旅の終わりは確かなものとなり、救済があなたに与えられた。

今や、あなたの心の中にはキリストの力があり、あなたは自ら癒された通りに癒すことができる。

(6:1.2)

 

今日は希望を抱いて練習しよう。

希望こそがふさわしいからである。

神は確実なので、あなたの疑いは無意味である。

そして神の想念が不在となることはない。

神を迎える接待主であるあなたの中には、必ず確かさが宿っている。

このコースは、神についてのあなたの確信と神の間に、あなたが挿入してきたすべての疑いを取り除く。

(7:1~6)

 

確信を得るためには、私たちは自分に頼らず、神を頼りにする。

そして神の名において、私たちは神の言葉が指示する通りに練習する。

神の確かさは、私たちのあらゆる疑いを越えている。

神の愛は、私たちのあらゆる恐れを越えたところにあり続ける。

神の想念は、今もすべての夢を越えて、神の意志の通りに私たちの心の中にある。

(8:1~5)

優しいまなざし(W レッスン164)

エスや観音様の優しいまなざし。

 

どうしたらあのような慈愛に満ちたまなざしになれるのだろうかと密かな目標として思っていた。


そして、その反面、とうていそんな器じゃないし、犠牲心で生きていかなきゃいけない気がして拒否していた。

 

長い間、大きな勘違いの中を生きてきた。

私の心は卑小さでささくれ立っていて、「愛」なんかちっとも湧かった。

湧いたら湧いたで、人より優位に立つのに利用していたのだ。

 

自我ってなんて恥ずかしいの・・・トホホ。

 

真の「ゆるし」を教えてもらわなければ、イエスの心眼にたどり着くのは不可能だった。

 

「何も起こっていません」という「ゆるし」。

 

完全なサレンダーの姿勢。

 

沈黙と光。

 

エスに、聖霊に、先に歩いてもらうだけ。

私は赤ちゃんのように、甘え、手を引いてもらい、光の中を歩きます。

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ワークブック

レッスン164

 

私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

 

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今でなくいつ、真理が認識されるのだろう。

現在だけが、存在する唯一の時間である。

そして今日、この瞬間に、永遠に存在するものを私たちは眺める。

ただしそれは私たちの視覚ではなく、キリストのまなざしにおいて永遠のものである。

キリストは時間を超えたところを眺め、そこに表現されている永遠を見る。

無意味でせわしい世界が生み出すいろいろな物音も聞いてはいるが、かすかに聞こえるだけである。

それらすべてを越えて、天国の歌だけが聞こえており、この世界の物音よりもずっと明瞭で有意義で身近なものとして、神を代弁する声が耳に響いているからである。

(1:1~6)

 

キリストがあなたに自らの視覚を与え、あなたにかわって聞き、彼が聞いている一なる呼びかけにあなたの名で応えるのだから、あなたの今日の練習は、何と神聖なものだろう!

この世界を越えて、キリストとともに過ごすためにあなたが差し出す時間は、限りない静けさで満たされる。

(3:1~2)

 

世界が侵入することのできないような静寂というものがある。

あなたの胸に抱かれて、今も失われていない古くからの平安がある。

あなたの中には、罪の想念が一度も振れたことのない聖性の感覚がある。

このすべてを、あなたは今日、思い出す。

今日の練習を忠実に行うことにより、これまでにあなたが追及したどんなものともまったく異なった、非常に大きな報酬がもたらされるので、あなたがここに自分の宝があることや、ここが自分の安息の場であることを知るだろう。

(4:1~5)

 

私たちは今日、裁かない。

世界を越えたところで下された審判から私たちに与えられたものだけを受け取る。

(5:1.2)

 

私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びは増すばかりである。

私たちはキリストの視覚の中で赦されており、全世界は私たちの視覚の中で赦されている。

救い主は光の中で私たちを見ている。

それと同じ光の中で私たちが見つめるとき、私たちは世界を祝福する。

そしてまた、私たちが自分の視覚ではなく救い主の赦しの心眼を通して自分に与えられている自由を世界に差し出すとき、私たちは世界を祝福する。

(7:4~6)

練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。

あなたのとるに足らない宝物を片付け、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。

そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。

(8:1.2)

 

真剣に練習しなさい。

そうすれば、これらの贈り物はあなたのものとなる。

神があなたを欺こうとするだろうか。

神の約束が果たされないということがあるだろうか。

神の手が完全な救済をわが子に差し出しているときに、あなたがそのように卑小なものを手放さずにいられるだろうか。

(9:5~8)

深刻さの演出としての死を優しく看過する(W レッスン163)

虐待のニュースを見るとはらわたが煮えくり返るほど怒りが噴出する。

子どもにもしものことがあったらと想像もしたくない絶望的な感覚を心の奥に押し込んでいる。

このまま世界が混乱してこれまでのような生活が出来なくって惨めに死んでいくことを想像すると心が拒否反応をする。

 

・・

これらの「死」にまつわる嫌な感覚、思考、信念。

そんな時、「思考」の中に住んでいるのだ。

 

「思考」は分離の産物だから、分離のストーリーを作り続ける。

過去や未来に飛んでいて、心は散り散りになっている。

 

私の外に罪悪を作ることで、自我は成り立っている。

 

「今」にいないのだ。

 

これが自我の働き。

 

神は今にしかいないことを思い出したい。

 

そして、"今"は生命そのもの。

 

その生命が神であり、私たちの本性なのだ。

 

いつも思い出せますように。

 

・・・・・・

ワークブック

レッスン163

 

死は存在しない。神の子は自由である。

 

死とは一つの想念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。

それは悲しみや恐れや不安や疑いのように見えるかもしれない。

あるいはまた、怒りや不信や信頼の欠如のように見えるかもしれない。

さらには、肉体にまつわる心配や羨望など、本来の自分ではないものでありたいという願望があなたを誘惑しょうとして纏うありとあらゆる形態も、ここに含まれる。

こうした想念のすべては、死が救済者かつ解放者として崇拝していることの反映にすぎない。

(1:1~3)

 

死の化身、罪ある者たちの神、すべての幻想と欺瞞の君主として、死という概念は強力なものに見える。

死はそのしなびた手ですべての生命あるものを掴み、あらゆる希望や願望を枯渇させるかに見える。

そしてまた、その何も見えない目で知覚したすべてのゴールをその掌中に収めているように見える。

脆弱な者たち、無力な者たち、病気の者たちはその姿の前に頭を垂れ、それのみが実在し、避けられないものであり、

信頼に値すると考える。

死だけが確実に訪れるからである。

(2:1~4)

 

神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。

なぜなら、それは神がかって生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、

おそらくは神の存続を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。

神の意志より強い彼らの意志が神の意志に勝利し、永遠の生命が死に譲歩した。

そして父とともに、子も死んだ、というわけである。

(7:1~4)

 

死を崇拝する者たちは恐れているかもしれない。

それでも、こうした考えは恐れるほどのものだろうか。

もし自分たちが信じているのは単にこれだけのことだとわかれば、彼らはたちまち解放されるだろう。

そしてあなたは今日、これらのことを彼らに実証する。

死は存在しない。

そして、彼らの救済のため、および私たち自身の救済のためにも、私たちは今、あらゆる形態の死を放棄する。

神は死を作らなかった。

だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。

これが、私たちが今日とる立場である。

そうすれば、私たちは死を看過ごして、その向こうにある生命を見ることになる。

(8:1~8)

 

父よ、今日、私たちの瞳を祝福してください。

私たちはあなたの使者です。

すべてのものの中で輝くあなたの愛の栄光ある反映を見たいと願っています。

私たちは、ただあなたの中でのみ生き、活動します。

私たちはあなたの永遠の生命から分離してはいません。

死は存在しません。

死はあなたの意志ではないからです。

そして私たちは、あなたが私を置いた場所、私たちがあなたや生命あるすべてのものと共有している生命の中に留まります。

そうすれば、私たちは常しえに、あなたと同質のものであり、あなたの一部です。

私たちはあなたの想念を私たちのものとして受け入れるので、私たちの意志はあなたの意志と永遠にひとつです。

アーメン。

(9:8)

 

 

私は、神が創造したままの私である(W レッスン162)

昨日の「不機嫌さ」というピンポイントの心の隅のひだにたどり着いて感謝しかない。

これまでも、「犠牲心」や、「拗ねている心」とか、「愛の欠如」という言葉で、どんどんと闇が暴かれていってたのだけど、

 

「不機嫌さ」が一番しっくりきました。

 

幼いころの最初の思い出として思い出されるのが、

 

「不機嫌そうな母と、それを不可解な感じで距離を取りながら座ってる幼い私」でした。

このストーリーに潜んでいた感情感覚をまるごと感じていくと、

 

今日のレッスンである「私は、神が創造したままの私である」という言葉が、そのまま心にスっと入ってきます。

 

疑いようのない真実として受け入れ、心はしっとりと喜んでいます。

 

本当にありがとうございます。

ありとあらゆる記憶にも感謝が湧きます。

 

これからも、ひたすら、出てきたものを「訂正」し、生命を喜びます。

 

ありがとうございます!

・・・・・

ワークブック

レッスン162

私は、神が創造したままの私である。

・・・・・

この言葉が消し去ることのできない夢はなく、その力を前にして、夢の中の罪の想念や幻想が一つ残らず消えていく。
この言葉は、世界中に鳴り響く覚醒のトランペットである。
その呼びかけに応えて、死者がよみがえる。
そして生きてこの音を聞く者たちは、決して死を見ることはない。
(2:3~6)

 

この言葉を自分のものにする者こそ、まさしく聖なる者である。

一日中それを思い出し、夜になればそれとともに眠りにつく。

彼の見る夢は幸せな夢であり、彼の休息は確保され、安全は確実であり、肉体は癒される。

なぜなら、眠るときも目覚めるときも、彼の前には常に真理があるからである。

彼は世界を救うだろう。

なぜなら、真理の言葉を練習するたびに、彼は自分が受け取る言葉を、世界に与えるからである。

(3:1~3)

 

私たちは今日、あなたを尊ぶ。

あなたには、今あなたが受け入れる完璧な聖性をもつ権利がある。

これを受け入れることによって、救済がすべての者にもたらされる。

このように完璧な聖性が世界を祝福したというのに、いったい誰が罪を大切にしていられるだろう。

完璧な喜びがあなたのものであり、すべての者がその喜びを用いて悲嘆や悲惨やあらゆる損失の感覚を癒し、罪や罪悪感から完全に脱出できるというときに、誰が絶望などしていられるだろうか。

(5:1~4)