【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

(レッスン235)

根拠なんて必要のない喜びを止めることなくそこはかとなく感じている。

 

喜びに理由はない。

 

喜びが根源なのだから。

 

これ以上、何も必要はない。

 

このご機嫌さのまんま、ただあるだけなのだ。

・・・

ワークブック

レッスン235

 

私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

 

私が為すべきことは、ただ、自分を傷つけるように思える物事を眺め、全き確信をもって、「私がこのことから救われることが、神の意志である」と言い、自分を安心させ、それらが消えてゆくのをじっと見ていることだけである。

幸せだけが私に訪れているとわかるためには、私に対する父の意志は幸福だけだと憶えておくだけでよい。

そして私が救われていて、神の腕の中で永遠に安全だと確信するには、神の愛が神の子を包み込み、彼の無罪性を永久に完璧なまま保っていると思い出しさえすればよい。

私は神に愛されている神の子である。

そして慈悲深い神の意志により、私は救われている。

 

父よ、あなたの聖性は私の聖性です。

あなたの愛が私を創造し、私の無罪性を永久にあなたの一部としました。

罪も罪悪感もあなたの中に存在しないのですから、私の中にもありません。

(1・2)

手を離したら至福が待っている(レッスン234)

「これが自分だ!」という「自分像」を信じ込み、

 

「自分像」に従っていた間は、

 

過去と未来の記憶をにぎりしめているから、

 

自由はなかった。

 

さらなる「自分像」の計画に力を注ぎ込み、

 

「自分像」を壊さないように「防衛」し塗り固め、

 

それが壊れそうになる出来事に出くわすと、怖くなって、不安になり、

 

さらに「自分像」を強化してしまう。

 

いつも「過去」を振りかえっては記憶をたぐりよせ「自分像」を強化する。

 

年齢を数えては、その年齢というイメージのようなものでジャッジしたり。

 

来ることはない「未来」に喜びを託し、「欲求」をもち続ける。

 

「欲求」と「欠乏感」はセットなので、

 

ずっと、堂々巡りの苦しさを感じている・・・。

 

まさか、

 

「自分像」こそが「罪意識」だったなんて思いもよらなかった。

 

「自分像」を持ち続けている間、今という「空(くう)」・「静寂」を無視している。

 

「空(くう)」・「静寂」こそが根源なのだから、

 

根源を見るまでは、ずっと「欲求」と「欠乏感」が続く。

 

だけど、

 

本当に、

 

ただ一度、根源を見れば、

 

その苦しみは去っていく。

 

「自分像」も去っていく。

 

そして、それと入れ替わりに、

 

ありあまるほどの「至福」が訪れる。

 

・・・

レッスン234

 

父よ、今日、再び私はあなたの子です。

 

今日、私たちは、罪と罪悪感の夢が消え去るときがくるのを楽しみに待つ。

それは、私たちが本当は一度も離れたことのない聖なる平安にたどり着く時間である。

永遠と超時性の狭間で、ほんの一瞬が過ぎただけだった。

この間隔はあまりに短く、連続性は断たれず、永久にひとつである想念に何のとぎれもなかった。

父なる神と神の子の平安を乱すものも、何ら生じなかった。

このことを、私たちは、今日、全き真実として受け入れる。

 

父よ、あなたとあなたの夢の記憶が決して失われないことに、感謝します。

私たちは自らの安全を認識し、あなたが授けてくださった贈り物のすべてに、感謝します。

また、これまで私たちが受け取った愛のこもった助力のすべてにも、あなたの永遠なる忍耐にも、そして、私たちは救われているという、あなたから授けられた言葉にも感謝します。

(1・2)

スケルトン(レッスン233)

気軽で楽ちん。

 

ケルトン。

 

隠さないことの気楽さ。

 

なんでもなさの気楽さ。

 

透明さ。

 

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ワークブック

レッスン233

 

私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

 

父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。

私は、自分の考えを何ももたずにいます。

私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。

私の行いも、同じようにあなたに差し出します。

そうすれば、達成不可能なゴールを追求したり、むなしい想像の産物の中で時間を浪費するかわりに、私はあなたの意志を行うことができます。

今日、私はあなたのみもとに参ります。

私は一歩退き、ただあなたに従います。

あなたが導き手となってください。

私は従う者となり、無限なるものの叡智を疑うことはしません。

また、その愛の優しさを理解できなくても、それはあなたからの完璧な贈り物なのですから、その愛を私は疑いません。

 

今日は、一なる導き手が私たちを先導してくれる。

そして一緒に歩みながら、私たちは少しも余すところなく今日という日を、神に差し出す。

今日は神の日である。

だから今日は、数限りない贈り物と慈悲が私たちに与えられる日である。

(1・2)

・・・・・

 

湧いてくる思考がなんの根拠もないもので、

 

意味もないものだったと氣づき始めたので、

 

気楽さ、軽さにわりとすぐ戻れるようになってきた。

 

思考を握りしめている間は深刻でナーバスな感覚になるけど、

 

そういう仕組みになっているだけだということが理解できてきたから、

 

巻き込まれるよりも、

 

観察することが増えてきた。

 

「わからない」

 

「意味はない」

 

「自然があるのみ」

 

思考にも

 

その奥の防衛にも

 

敵対する必要などなく、

 

「ふ~ん」と優しく観てあげる。

 

それだけなんだなぁ~。

 

 

確実と一体(レッスン232)

いてください、というよりも、
 
共にいることに気づき続けている「静けさ」に在ろう。
 
ここ以外にいる必要はなかったのだから。
 
麗しくてしっとりと慈愛に満ちている「静けさ」。
 
ここから離れたことはなかった。
 
ここが退屈だと感じていたなんて、
 
そうとう気がふれていた。
 
そして、そんな悪夢を一つ残らず、
 
この慈愛の海に招待する。
 
・・・
ワークブック
レッスン232
 
父よ、一日中、私の心の中にいてください。
 
父よ、私が目覚めるとき、私の心の中にいてください。
そして、今日一日を通して、私を照らしてください。
一分一分が、あなたととものいる時間となりますように。
そして、あなたがともにあり、私の呼びかけを聞き、私に答えるために常にそばにいてくださることに、毎時間、感謝を捧げるのを忘れずにいられますように。
夜が訪れたときも、私のすべての考えがあなたとあなたの愛を思うものでありますように。
そして、自分の安全を疑わず、あなたからの庇護を確信し、あなたの子であることを自覚しつつ、幸福に眠れますように。
 
毎日がこのようにあるべきである。
今日、恐れの終わりの練習をしなさい。
あなたの父である神を信じなさい。
すべてを神にゆだねなさい。
神にすべてを明らかにしてもらいなさい。
そして、あなたは神の子なのだから、うろたえずにいなさい。
 
 

静けさの甘受(レッスン231)

静けさがリアル。

 

この中に深く沈む。

 

湧き上がる敬意。

 

完璧さを讃える。

 

美しさを賛美する。

 

・・・

ワークブック

レッスン231

 

父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

 

父よ、あなたの愛のほかに何を、私が探すことなどできるでしょう。

私は、さまざまな名で呼んできた何か別なものを自分が探し求めていると思うことがあるかもしれません。

しかしあなたの愛だけが、唯一、私が探し求めるものであり、これまでも追い求めてきたものです。

私が本当に見つけたいと思うものは、それよりほかにはありえません。

あなたを思い出させてください。

自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。

 

兄弟よ、これがあなたの意志である。

そして、あなたはこの意志を私と共有し、私たちの父である一なる存在と共有する。

父を思い出すことが天国である。

これを、私たちは求める。

そしてこれだけが、私たちが見出すようにと与えられているものである

(1・2)

 

2.救済とは何か

 

※抜粋

 

時間の中で生じたすべての想念もいずれは終わると、救済は保証する。

神の言葉は、自分が分離した想念を抱いていると考えるすべての心に与えられ、いずれ、そうした葛藤の想念を平安の想念に置き換える。

(1:3.4)

 

神の子の心が戦いを思いついたその瞬間に、平安の想念が彼に与えられた。

それ以前には、そうした想念の必要はなかった。

以前授けられていた平安には対極はなく、ただ在るのみだったからである。

しかし心が分裂しているときには、癒しが必要である。

だから、分裂を癒す力のある想念が、心の無数の断片の一部となった。

心は依然としてひとつであるのに、一体性を認識できなくなっている。

今や心は自らを知らず、自分のアイデンティティーは失われたと考えるようになっている。

(2:1~5)

 

救済とは取り消しである。

それは何もしないことにより、夢と悪意の世界が維持されずに消えていくという意味で、取り消しである。

そのようにして、救済は幻想を去らせる。

幻想を維持しないことで、それらがただ静かに塵と消えるままにする。

そうすれば幻想が隠していたものが露になる。

それは聖なる神の名に捧げられていた祭壇であり、そこには神の言葉が書き込まれている。

その前にはあなたの赦しの贈り物が供えられ、そのすぐうしろには神についての記憶が控えている。

(3:1~3)

 

私たちは毎日この神聖なる場所を訪れ、少しの間、ともに過ごそう。

ここで、私たちは最後の夢を共有する。

その夢の中に悲しみはない。

それは神から授けられた栄光のすべてを暗示する夢だからである。

今や草は地中に根をのばし、樹木は芽を吹き、小鳥たちがその枝に宿る。

新たな視座から見える大地は、今、生まれ変わりつつある。

夜は去り、光の中で、私たちはひとつに集結した。

(4:1~6)

 

この場所から私たちは世界に救済を与える。

ここで救済が受け入れられたからである。

私たちの歓喜の歌は全世界に呼びかける。

自由は戻っており、時間は間もなく終わる、と。

そして、神の子はあと一瞬待つだけで、父を思い出し、夢が終わり、永遠がその光で世界を消し去り、存在するのは天国だけになる、と。

(5:1~2)

・・・・・

「父」とは”一なるもの””全なるもの””光”という絶対性の比喩的表現。

 

すべてが全体の中の一部であり、

 

一部を自分と思い込むことが苦しみのはじまりであり、

 

一部は全体へと延長しているということを思い出すことで、

 

苦しみは消えていく。

 

一部というモノの中に埋没し、

 

個だけを握りしめることが、

 

苦しみと恐怖を終わらせない。

 

個であり続けることがそもそも苦しみと恐怖の顕われだから。

 

何とも離れていない。

 

それを思い出す。

 

静けさの中に、

 

そのつながりを見出す。

 

質問がなくなる(レッスン230)

創造されたままの私です。

これ以上求めるものはなにもなかったということにとどまると、

ホっとする。

何しても、何もしなくても、

誰といても、誰ともいなくても、

どこにいても、どこにもいなくても。

 

質問も疑問もなくなる。

 

どうしたらいいか?

何したらいいか?

このままでいいのか?

これは正しいのか?

これは良いのか悪いのか?

 

そんな疑問が一切なくなる。

 

・・・

ワークブック

レッスン230

 

今、私は神の平安を求め、それを見つける。

 

私は平安の中で創造された。

そして平安の中に、私はとどまる。

真の自己を変える力は、私には与えられていない。

私を創造したときに永遠なる平安を授けた父なる神は、何と慈悲深いことだろう。

今、私はただ真の私でいることだけを求める。

そして、それが永遠の真理であるというのに、私にそれが拒まれることがありえようか。

 

父よ、あなたが私を創造されたときに、私のものとして授けてくださった平安を、私は探し求めます。

そのとき授かったものは、今もここにあるはずです。

私の創造は時間とは関わりがなく、今もいかなる変化も超越しているからです。

あなたの子は平安のうちにあなたの心の中に生まれ、その平安は、今も変わらずそこで輝いています。

私はあなたに創造されたままの私です。

あなたから授かった平安を見出すためには、私はただあなたに頼めばよいだけです。

あなたの子に平安を授けたのは、あなたの意志だからです。

(1・2)

・・・・・

 

平安は、

 

抑圧してきた膨大な闇に光を当てて、抑圧してきた中身と対面した後に訪れる。

 

まさか、こんなにも自分が自分を"罪深い人間"だと信じていて、

 

この信念を撤回する気も全くない、

 

と頑なに決めていたなんて思いもよらなかった。

 

誰よりも自分が自分を裁いていた。

 

こうして、無意識のすみずみに光を当てないと、

 

罪意識の信念の深さに気づくことは出来なかった。

 

時間をかけて無意識を見つめることが、

 

逆に時間の短縮になる。

 

光は一なるものなので、

 

葛藤も問題も終わるから、

 

葛藤や問題への選択に煩うことはなくなる。

 

光に選択はない。

 

選択がないという先に、

 

平安がある。

あまりにも当たり前すぎて(レッスン229)

「静寂」

 

ここは、揺るがない。

 

言葉は音。

 

物質は光。

 

個は全体。

 

一体そのものを優しくなぞり、空に消える。

 

その一瞬一瞬が祝福されている。

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ワークブック

レッスン229

 

私を創造した愛が、私の本性である。

 

自分のアイデンティティーを探し求める私は、それをこの言葉の中に見出す。

「私を創造した愛が、私の本性である」。

もはや探し続ける必要はない。

愛が勝利を収めた。

それは実に静かに私の帰宅を待っていたので、私はもはやキリストの神聖なる顔から目を背けはしない。

そして私が見るものすべてが、そのアイデンティティーが真理であることを証しする。

それは、私が失くしてしまおうとしたけれど、父が私のために安全に保持してくれたアイデンティティーである。

 

父よ、私が私であることに感謝いたします。

私の愚かな心が作り上げた罪にまつわる考えの最中にあっても、私のアイデンティティーを穢れなく罪なきままに保持してくださったことに、感謝いたします。

そしてまた、そうした考えから私を救ってくださったあなたに、感謝いたします。

アーメン。

(1・2)