外側を裁き続けて、分離を信じ続け、閉じこもり続けていた。
裁くのは、分離を信じ、分離していたかったからなんだ。
よくよく静かになったら、裁く必要など一切なかった。
何も問題はなかった。
静かになるのと引き換えに裁きが消えていくのだ。
何も問題がない上に、何もかもが麗しかった。
祝福以外することはない。
それはシンプルで単純。
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ワークブック
レッスン291
今日は静けさと平安の日である。
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今日、キリストの心眼が、私を通して見ている。
キリストの視覚は、あらゆるものが赦されて安らいでいるものを私に見せ、同じ心眼を世界に差し出す。
私はこの心眼を、その名において、それを自分と世界の両方に受け入れる。
私たちは今日、何と麗しいものを見ることだろう!
自分の周りに何という聖性を見ることだろう!
そして私たちには、それが自らも共有する聖性であり、神ご自身の聖性でもあることが認識できる。
今日、あなたが授けてくださる想念を受け取れるように、私の心は静かです。
私は、私自身からのものではなくあなたからくるものを、受け入れます。
私はあなたのみもとへ至る道を知りません。
しかしあなたはたしかにご存知です。
父よ、みもとへと至る静かな道に沿って、あなたの子を導いてください。
私の赦しが完璧になりますように。
そして、あなたについての記憶が私に戻ってきますように。
(全文)
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8.実相世界とは何か
実相世界は象徴の一つである。
それは知覚がもたらす他のものごとが象徴であるのと同様である。
しかし実相世界は、あなたの作り出したものとは正反対のものを表す象徴である。
あなたの世界は恐れの目を通して見えるものであり、あなたの心に恐怖の証人たちを運んでくる。
実相世界は、赦しが祝福した目によってしか知覚できず、その祝福によって、その目には、恐怖が不可能で恐れの証人も見つからない世界が見えるようになっている。
実相世界には、あなたの世界に反映された不幸な考えの一つひとつに対応する想念が含まれている。
それは、あなたの世界の中にある恐れの情景や戦いの騒音を確実に訂正するものである。
実相世界は、静かなまなざしと安らかな心を通して別の見方で見られた世界を見せてくれる。
そこにあるのは安息のみである。
そこでは、赦しの外側に取り残されるものがないので、苦痛や悲しみの叫び声は聞こえない。
そこに見られる情景は穏やかである。
自らを赦した心には、幸福な情景と物音だけが届く。
そのような心に、死や攻撃や殺戮の考えが必要だろうか。
自らの周囲に、安全と愛と喜び以外の何を知覚できるだろうか。
何かを選び出して、咎めようとするだろうか。
何かに敵対して裁きを下そうとするだろうか。
その心が見る世界は、自らの中に平安を抱く心から生起する世界である。
何を見ても、そこに危険は潜んでいない。
その心自体が優しく、周囲にも優しさだけを見るからである。
実相世界が象徴しているのは、罪と罪悪感の夢は終わっており、神の子はもはや眠ってはいない、ということである。
目覚めている彼の目は、父の愛の確かな反映を知覚する。
それは、自分が贖われていることの確かな約束である。
実相世界は時間の終わりを意味する。
それが知覚されたなら時間は目的を失うからである。
時間が聖霊の目的を果たし終えたとき、聖霊は時間を必要としなくなる。
今や、神が最後の一歩を踏み出してくれるまで、聖霊はもう一瞬を待つばかりである。
そのときには、時間は消え去っており、それとともに知覚もなくなり、真理だけがそこに残されている。
その瞬間が私たちのゴールである。
神についての記憶がその瞬間に内包されているからである。
赦された世界を私たちが眺めるとき、私たちに呼びかけて、家に連れ帰るために訪れるのは、赦しによって私たちが取り戻した私たちのアイデンティティーである。
(全文)