【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

(レッスン296)

個人の言い張りという夢を早々にそこらに置き、

 

全体のままにある。

 

個があっても構わない。

 

ただ風景の一つとして輝いている。

 

全体のままにゆだねる。

 

起こってる全てがYES。

 

私たちは学びたいものを教える。

 

愛を学び、愛を教えてる。

 

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ワークブック

レッスン296

 

今日、聖霊が私を通して語る。

 

・・・・・

今日、聖霊は私の声を必要としています。

私を通して全世界があなたの声に耳を傾け、御言葉を聞くことができるようにするためです。

私は、何としてもあなたに私を通して語っていただくつもりです。

あなたの言葉以外の言葉は使わず、あなたの想念から離れた想念はもちたくありません。

あなたの想念のみが真実だからです。

私は自分が作り出した世界の救世者になりたいのです。

私がその世界を呪縛したのですから、私がそれを解放します。

それにより、今日、私は脱出の道を見つけ出し、あなたの神聖な声が私に語る御言葉を聞きます。

 

今日、私たちは自分が学びたいものを教え、ただそれだけを教える。

そうすれば、学びのゴールは矛盾なきものとなり、たやすく接近でき、速やかに達成できるものとなる。

世界が神へと楽に至れる道を探して見つけ出せるように、聖霊が私たちを通して教えるにまかせるなら、聖霊は喜んで私たちを地獄から救い出しにきてくれる。

 

(全文)

(レッスン295)

優しくてまぶしそうなまなざし

 

この世界に美しさだけがみえる

 

なんの問題もない

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ワークブック

レッスン295

 

今日、聖霊が私の目を通して見ている。

 

・・・・・

 

キリストは、今日、世界を贖えるように、私の目を使わせてほしいと求めている。

キリストがこの贈り物を求めているのは、私に心の平安をもたらし、恐怖や痛みをすべて取り去ることができるようにするためである。

それらが私から取り除かれるとき、世界に定着しているかに見えていた夢は過ぎ去る。

贖いはひとつのもののはずである。

私が救われるとき、世界は私とともに救われる。

私たちは必ず、皆一緒に贖われるからである。

恐れは数多くの異なった形で現れるが、愛はひとつである。

(1:1-7)

 

父よ、キリストは私に一つの贈り物を求めましたが、それは、私が与えることで私自身に与えられる贈り物です。

今日、私がキリストの目を使うことができるように助けてください。

私が見るものすべてを聖霊の愛が祝福し、聖霊の赦しに満ちた愛が私の上にとどまりますように。

(2:1-2)

 

愛の只中(レッスン294)

今朝は、なんとも、清々しい。

どんな状況の時も、どんな体調の時も、どんな人間関係の時も、

一度も「愛」から離れたことはなかったんだと思い出した。

 

この瞬間もただただ愛に包まれている。

 

私たちはその只中で、安心して、「創造」されたままでいたらいい。

 

お茶と飲むとき、

洋服を着るとき、

外を歩くとき、

運転しているとき、

仕事してるとき、

子育てしてるとき、

看病しているとき、

食事を作っているとき、

食べているとき、

寝ているとき、

肉体として死ぬとき、

 

この世界でどんな状況であっても、

「愛」以外のところにいたことはない。

 

 

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ワークブック

レッスン294

 

私の肉体は、完全に中庸なものである。

 

・・・・・

 

私は神の子である。

それでいて他のものでもありえるだろうか。

神が、死すべきものや朽ちるものを創造しただろうか。

神に愛される神の子が、死すべきものに何の用があるだろう。

しかし中庸なものは死を見ない。

そこに怖れの想念はなく、贋物の愛も付与されていないからである。

それは、用途がある間は中庸であることにより保護される。

その後、目的がなくなれば使われなくなる。

病気や老齢や負傷のせいではない。

ただ機能と必要がなくなり、放棄されるのである。

今日、私が肉体をそれ以上のものと見なしませんように。

それは、少しの間だけ丈夫で役に立ち、役立つ間は有用だが、その後は、よりよくものへと入れ替わるのみである。

 

父よ、私の肉体はあなたの子ではありえません。

創造されなかったものは罪深くもなければ、無罪でもなく、善でも悪でもありません。

それならば、私たちが自分で作り出した一切の夢から目覚めるというあなたの計画を助けるために、私がこの夢を使うことができますように。

 

(全文)

(レッスン293)

【私の過去の間違いが世界を圧迫し、恐れのいびつな形の数々を私に見せているときに、世界が明るく晴れやかで、安全に自分を迎えてくれる場所に見えるだろうか。】

(L293 1:3)

 

過去を思い出し、間違ってきたと思っている数々に悶絶する。

それは今でもまだまだそうなってしまう。

安全に自分を迎えてくれる場所だとは思っていないから、いつもなんらかの防衛対策を取ってしまう。

 

ま、でも、もういいかって(笑)、ただ笑い飛ばしたい感じもある。

 

そういう世界を見てるのはまさしく自分だもんなぁ。

この世界に「正しいも間違いもない」とわかっていても、自分を責め、まだ誰かから責められていると信じている自我の部分に居座っているんだもんね。

 

どうしてこんなに分離の世界に囚われるのか?

どうしてこんなに罪を感じるのか?

 

それはそこに価値と力を見ているから。

肉体を信じ、分離を信じ、罪を信じているから。

そこに心を置いているから。

これは脳の誤高揚でしかないのに、そこに居座っている。

 

自我を丸め込もうと思ってもそれはできないから、やっぱり「わかりません」って全体に溶けるしかない。

これだけが唯一のこと。

 

【しかし現在の中では、愛は明白であり、その結果も明瞭である。

全世界が愛の神聖な光を反映して輝き、私はついに赦された世界を知覚する。

 

父よ、あなたの神聖な世界を、今日、私の視界が見逃しませんように。

また、恐れの物音の背後で世界が歌っている感謝の賛美に、私が耳を塞ぐことがありませんように。

現在の中には過去の間違いから安全に保たれている真の世界があります。

私は今日、この実相世界だけを目の前に見たいのです。】

(L293 1:4.5 2:1~4)

 

ワークブック

レッスン293

 

すべての恐れは過ぎ去り、ただ愛のみがここにある。

 

・・・・・

 

すべての恐れは過去のものである。

なぜなら、恐れの源は過ぎ去り、それとともに怖れの想念もすべて過ぎ去っているからである。

愛のみが唯一の今現在の状態であり、その源はいつまでも永遠にここにある。

私の過去の間違いが世界を圧迫し、恐れのいびつな形の数々を私に見せているときに、

世界が明るく晴れやかで、安全に自分を迎えてくれる場所に見えるだろうか。

しかし現在の中では、愛は明白であり、その結果も明瞭である。

全世界が愛の神聖な光を反映して輝き、私はついに赦された世界を知覚する。

 

父よ、あなたの神聖な世界を、今日、私の視界が見逃しませんように。

また、恐れの物音の背後で世界が歌っている感謝の賛美に、私が耳を塞ぐことがありませんように。

現在の中には過去の間違いから安全に保たれている真の世界があります。

私は今日、この実相世界だけを目の前に見たいのです。

 

(レッスン292)

「人のリアクションに左右されなくていい」という言葉が降りてきた。

 

そういえば、まだでもやっぱり、幸せの答え合わせを「外」に向けていた。

 

人の言動や表情という表面を見て、右往左往する。

 

防衛反応だなあ。

 

そんなときは「内側」をそっちのけにしている。

 

そんなときこそ、赦しと癒し、訂正の機会。

 

「私と彼らの本当の姿だけを見ます」という機会。

 

それ以外のところに幸福はない。

 

幸福まがいだった。

 

あらためて、静まり、

 

この世界のすべてを「正気」(聖霊)の目でみる機会にしたい。

 

これはなによりも幸福な作業になるなって感じる。

 

表面をポジティブに捉えるとかではなくて、

 

表面を素通りして、「真」に共鳴する。

 

実相世界での役目があるとすれば、「創造」とは、「創造」そのものを祝福すること。

 

「創造」と共鳴すること。

 

 

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ワークブック

レッスン292

 

すべてのことに、幸せな結果が確実である。

 

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神の約束に例外はない。

そして神は、すべてのものごとの結末は喜びだけだと保証する。

しかし、いつそこに至れるかは、私たち次第である。

それは、私たちがいつまで、異質の意志が神の意志に対抗するかに見えるままにしておくのか、ということである。

その意志が実在すると思っているかぎり、知覚されるすべての問題、目にするあらゆる試練、直面する一切の状況の結末として神が定めた結果を、私たちが見出すことはないだろう。

しかし、その結果は確実である。

神の意志は、天に行われるごとく地にも行われるからである。

私たちは探し、神の意志の通りに、見つけるだろう。

神の意志は、私たちの意志が行われることを保証している。

 

父よ、幸福な結末だけを保証してくださったことに感謝します。

私たちがそれを妨害しないように助けてください。

そして私たちが、知覚できるかぎりの問題や、まだ遭遇せざるをえないと思っている試練のすべてに、あなたの約束通りの幸福な結末がくるのを遅らせずにすみますように。

 

(全文)

 

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過去の文章(2020.12.17)↓

 

異質な思いとは、自我が勝手にコツコツと作り上げてきた信念。

私の根強い信念は、「神」へのこだわり。

「神」に向いていない人を裁く衝動が止まらない。

だけど、これも「投影」。

私が一番「神」を恐れているということなんだろうなぁ。

実感は、つい最近上がってきたけど、神が怖いなんて、それこそ正気じゃない。

この物質世界の危うさの方を頼みにしょうとするなんて、本当に狂っている。

やっぱりビックリしている。

絶叫しながら通り過ぎた日々に唖然としている。

「浄化」にたっぷりと時間をかけよう。

そのためにこの時空が用意されているんだ。

優しい懐に包まれて、たっぷりと浄化しょう。

外に何の問題も見えない、時間の目的もなくなる(レッスン291)

外側を裁き続けて、分離を信じ続け、閉じこもり続けていた。

 

裁くのは、分離を信じ、分離していたかったからなんだ。

 

よくよく静かになったら、裁く必要など一切なかった。

 

何も問題はなかった。

 

静かになるのと引き換えに裁きが消えていくのだ。

 

何も問題がない上に、何もかもが麗しかった。

 

祝福以外することはない。

 

それはシンプルで単純。

 

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レッスン291

 

今日は静けさと平安の日である。

 

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今日、キリストの心眼が、私を通して見ている。

キリストの視覚は、あらゆるものが赦されて安らいでいるものを私に見せ、同じ心眼を世界に差し出す。

私はこの心眼を、その名において、それを自分と世界の両方に受け入れる。

私たちは今日、何と麗しいものを見ることだろう!

自分の周りに何という聖性を見ることだろう!

そして私たちには、それが自らも共有する聖性であり、神ご自身の聖性でもあることが認識できる。

 

今日、あなたが授けてくださる想念を受け取れるように、私の心は静かです。

私は、私自身からのものではなくあなたからくるものを、受け入れます。

私はあなたのみもとへ至る道を知りません。

しかしあなたはたしかにご存知です。

父よ、みもとへと至る静かな道に沿って、あなたの子を導いてください。

私の赦しが完璧になりますように。

そして、あなたについての記憶が私に戻ってきますように。

(全文)

 

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8.実相世界とは何か

 

実相世界は象徴の一つである。

それは知覚がもたらす他のものごとが象徴であるのと同様である。

しかし実相世界は、あなたの作り出したものとは正反対のものを表す象徴である。

あなたの世界は恐れの目を通して見えるものであり、あなたの心に恐怖の証人たちを運んでくる。

実相世界は、赦しが祝福した目によってしか知覚できず、その祝福によって、その目には、恐怖が不可能で恐れの証人も見つからない世界が見えるようになっている。

 

実相世界には、あなたの世界に反映された不幸な考えの一つひとつに対応する想念が含まれている。

それは、あなたの世界の中にある恐れの情景や戦いの騒音を確実に訂正するものである。

実相世界は、静かなまなざしと安らかな心を通して別の見方で見られた世界を見せてくれる。

そこにあるのは安息のみである。

そこでは、赦しの外側に取り残されるものがないので、苦痛や悲しみの叫び声は聞こえない。

そこに見られる情景は穏やかである。

自らを赦した心には、幸福な情景と物音だけが届く。

 

そのような心に、死や攻撃や殺戮の考えが必要だろうか。

自らの周囲に、安全と愛と喜び以外の何を知覚できるだろうか。

何かを選び出して、咎めようとするだろうか。

何かに敵対して裁きを下そうとするだろうか。

その心が見る世界は、自らの中に平安を抱く心から生起する世界である。

何を見ても、そこに危険は潜んでいない。

その心自体が優しく、周囲にも優しさだけを見るからである。

 

実相世界が象徴しているのは、罪と罪悪感の夢は終わっており、神の子はもはや眠ってはいない、ということである。

目覚めている彼の目は、父の愛の確かな反映を知覚する。

それは、自分が贖われていることの確かな約束である。

実相世界は時間の終わりを意味する。

それが知覚されたなら時間は目的を失うからである。

 

時間が聖霊の目的を果たし終えたとき、聖霊は時間を必要としなくなる。

今や、神が最後の一歩を踏み出してくれるまで、聖霊はもう一瞬を待つばかりである。

そのときには、時間は消え去っており、それとともに知覚もなくなり、真理だけがそこに残されている。

その瞬間が私たちのゴールである。

神についての記憶がその瞬間に内包されているからである。

赦された世界を私たちが眺めるとき、私たちに呼びかけて、家に連れ帰るために訪れるのは、赦しによって私たちが取り戻した私たちのアイデンティティーである。

(全文)

そこにあるのは安息のみ(レッスン290)

「私なんかが幸せでいていいんですか」という思いがあります。

 

だから、幸せじゃない理由の方ばかり探します。

 

「幸せじゃないこと」はどこにも見つけられないのに、

 

「私は誰からも大切だと思われていない」とか、

「私は用なしだ」とか、

「私は価値のない人間だ」とか、

「私は嫌われている」とか、

「私は必要とされていない」とか・・・、

 

「分離」前提の、これらの思考を作り上げ、その中に自ら入り、その世界を生きようとします。

 

これらの思考を前提にして、いろいろと妄想を広げ、かってに悲観しています。

 

または、勝手に怒ってます。

 

この手の悲観や怒りには終わりがなく、どこまでもそんな世界の中でひねくれています。

 

そうして、それはより強固になり、その自我の世界を当然のようにくりひろげているのです。

 

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「何もわからない」「わかる必要はない」ということを認めることと、

 

思考に便乗する自体が、「救済」、そして「愛」の方に「意欲」を向けていない表れだということ。

 

どんなにストーリーが生産され続けようと、「空(くう)」は相変わらずあっけらかんと「空(くう)」のまんま。

 

「愛」のまんま。

 

ここに居たいです。

 

【私が自分で作り出した情景に対して神から与えられている訂正を介さずに知覚するものは、見るも恐ろしく苦痛に満ちている。

しかしもはや、自分の作り出した夢が実在するという信念により自分の心が欺かれることを、一瞬でも容認するつもりはない。(1:4.5)】

 

フェイクを容認しないでいたい。

 

それこそ、なんの努力もいらない。

 

自我の心を続行する方が力が必要。

 

単純のままいよう。

 

単純でいよう。

 

単純でいることが難しくなっている。

 

間髪入れず防衛している。

 

だけど、「単純」の心地よさは知ってるから、そこへただ落ちよう。

 

わからなさに落ち込もう。

 

「わからない」まま、単純でいよう。

 

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ワークブック

レッスン290

 

私の現在の幸福が、私の見るすべてである。

 

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存在していないものに私が目を向けない限り、現在の幸福が、私に見えるすべてである。

開き始めた目が、遂に見るようになる。

そして今日こそ、キリストの心眼が私にもたらされるようにしたい。

私が自分で作り出した情景に対して神から与えられている訂正を介さずに知覚するものは、見るも恐ろしく苦痛に満ちている。

しかしもはや、自分の作り出した夢が実在するという信念により自分の心が欺かれることを、一瞬でも容認するつもりはない。

今日、私は現在の幸福を追求し、自分が求めているもの以外には何も見ない。

 

この決心とともに、あなたのみもとに参ります。

そして今日、私があなたの意志を行おうとする間、あなたの強さで私を支えてください。

父よ、私の声があなたに届かぬはずがありません。

あなたは私が求めるものを、すでに与えてくださいました。

ですから今日、私は自分の幸福を見ることを確信しています。

(全文)

 

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過去(2020・12.15)の文章↓

 

自分の心に「罪」と「罪」ゆえの不足や防衛や攻撃があり、それが世界へと映し出され、

自分と世界を嘆く。

長い間、長い間、そんな時空を生きていたと思い込んできた。

自分を憎悪し、人を憎悪し、この世界を憎悪してきた。

全部、自分は罪深い存在だという信念の顕われなのだ。

兄弟姉妹は全部私。

外に見た罪は私の作ったストーリー。

私の憎悪を、世界に押し付けていた。

どうぞこの自我の目を通り越し、真のビジョンへと一心に向かうことができますように。

正気に戻れますように。そうしたいです。そうします。

「救済は共同事業である。」

これまでの過去の一切、これまで傷つき傷つけた関係性、自分の肉体への裁きの念、

ありとあらゆる解釈から離れよう。

どうぞ、卑小な罪人だと自分を査定してきたこの凄まじい念を、ただ静かに置くことが出来ますように。