自分が作ったものを壊されないように、キーキーとわめいて、守ってきたんだなぁ。
壊されそうになると、被害者だと感じたり、怒ったり、嘆いたり。
それが壊されていくさまに、涙した。
ほぼ、悔し涙。
だけど、自分が作ったものが壊され、もうそれを守る必要なんかなかったんだっていう、安堵の涙に変わる。
何にもなかった。
そして、それを本当に拭い去ってくれるのは、「全体性」。
「全体性」から優しく包まれ、涙はかわき、「全体性」として微笑みに共鳴する。
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ワークブック
レッスン301
そして神ご自身がすべての涙を拭い去ってくれる。
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父よ、裁くことをしない限り、私が悲しみの涙を流すことはありえません。
また、苦痛に悩むことも、世界の中で自分が見捨てられたり必要とされてないと感じることも、ありえません。
これが私の家です。
なぜなら、私が世界を裁かないので、世界はあなたが意志する通りのものとなるからです。
今日、赦しにより一切の歪曲から解放された幸福な目を通して、咎めのない世界を見ることができますように。
そうすれば、涙の源はなくなり、私が流した涙はすべて忘れ去られるでしょう。
父よ、私は今日、あなたの世界を裁くことはしません。
神の世界は幸せな世界である。
それを見る者たちにできることは、ただそこに自分の喜びを加え、自分の中で喜びを深める原因となるその世界を祝福することだけである。
私たちは理解していなかったので涙にくれた。
しかし見ていた世界が虚偽だったと学んだので、私たちは今日、神の世界を見る。
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9.再臨とは何か
キリストの再臨は、神と同じように確実なものであり、単なる間違いの訂正、正気の回復にほかならない。
それは一度も失われたことのないものを取り戻し、永遠にして常しえに真理なるものを再確立する状態の一部である。
それは神の言葉が幻想と入れ替わることを求める招待であり、例外も保留もなくすべてのものに赦しをもたらそうとする意欲である。
キリストの再臨にはすべてを包み込むという性質があり、それゆえに、あなたとともに生命あるもの一切を包み込むその優しい降臨において、世界を抱擁し、あなたを安全に保つことができる。
神の被造物は無限であるから、再臨がもたらす解放にも終わりはない。
赦しは一切をひとつのものとしてその上に輝くので、再臨の道を明るく照らす。
そうしてついに一体性が認識される。
再臨は聖霊が教えるレッスンを完了させ、最後の審判に道を開ける。
そこですべての学びが最後にひとつの学びに要約されて終了し、それ自体を超えて延長されて、神にまで達する。
再臨とは、すべての心がキリストの手にゆだねられ、真の創造と神の意志の名において、霊に戻される時のことである。
再臨は、時間の中にありながらも、時間の影響が及ばない唯一の出来事である。
すでに死んでいった者、これからくる者、今ここにいる者の誰もが、自分で作り出したものから等しく解放されるからである。
この平等さの中で、キリストが一なるアイデンティティーとして取り戻され、このアイデンティティーの中で、神の子たちは自分たち全員がひとつであることを認識する。
そして父なる神がご自身の一なる被造物であり唯一の喜びであるわが子の上に微笑む。
再臨の時が間もなくくるよう祈りなさい。
しかし、それだけでよしとしてはならない。
再臨はあなたの目と耳と手と足を必要としている。
あなたの声を必要としている。
そして何よりも、あなたの意志を必要としている。
私たちが神の意志を行うことができ、その聖なる光の中でともにつながることができることをともに喜ぼう。
見よ、神の子は私たちとひとつである。
ゆえに私たちは、この神の子キリストを通して父の愛へと達することができる。
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