【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

私の中のキリストという空(レッスン303)

この世界で格闘してきた。

この凄まじかった分離意識の衝動をそこに置く。

「ひとり」を強化しつづけた憎悪という癇癪の声が弱々しくなっていく。

 

静かけさに抱かれて。

感謝

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ワークブック

レッスン303

 

聖なるキリストが、今日、私の中に生まれる。

 

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天使たちよ、今日は私とともに見ていてください。

天の子が誕生するこの時、神聖な神の想念のすべてが私を囲み、静かにともにいてくれますように。

地上の物音が静まり、見慣れた光景が消え去りますように。

キリストが、彼のくつろげる場所に迎えられますように。

彼が自ら理解する音を聞き、父の愛を示す光景だけを見ることができますように。

もはや彼をここで異邦人にすることがありませんように。

キリストは今日、私の中に再生したのですから。

 

父よ、あなたの子を歓迎します。

あなたの子は、私が自分で作り出した邪悪な自己から私を救うためにやってきました。

彼こそ、真理における私の本当の姿です。

彼こそ、あなたが何よりも愛しておられるわが子です。

あなたに創造されたままの私の真の自己です。

十字架にかけることができるようなものは、キリストではありません。

あなたの腕の中で安全に、私があなたの子を受け取ることができますように。

(全文)

(1:3)

何にもなさは、愛そのもの(レッスン302)

苦しんでるっていうのを他の表現にしてみると、「怒ってる」「不満がある」ということ。

 

苦しみを受けるというのは、苦しみを選んでいるという、最も自発的なことだった。

 

あの苦しみも、またあの苦しみも、自発的だった。

 

癒され、よくよく観察すると、「何も起こっていない」すなわち「愛だけが起こってる」のだった。

 

この真実を受け入れたくない自我だけど、そんな怖がりな自我を、ただそこに置いておく。

 

自我は悪くも良くもなく、ただ自我とはそういうものなのだった。

 

静けさの中に癒されていく。

 

その癒しに包まれる。

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ワークブック

レッスン302

 

闇のあったところに、私は光を見る。

 

父よ、ついに私たちの目が開きつつあります。

視覚がついに取り戻されて見えるようになるとき、あなたの神聖な世界が私たちを待っています。

私たちは苦しんだと思っていました。

しかしそのときは、あなたに創造された神の子のことを忘れていました。

今は、闇は自分の想像の産物であり、私たちには見ることのできる光があるということがわかります。

キリストの心眼は闇を光に変えます。

愛が訪れたとき、恐れは必ず消滅するからです。

今日、あなたの神聖な世界を赦し、その聖性と見て、それが私自身の聖性の反映にほかならないと理解できますように。

 

私たちの愛は、みもとに行く私たちを待っている。

そしてまた、私たちの傍らを歩み、道を教えてくれる。

神は決して失敗しない。

神こそ私たちが目指す到達地点であり、神こそ私たちが神のみもとに行くための手段である。

(全文)

癇癪(かんしゃく)という粗熱(レッスン301)

自分が作ったものを壊されないように、キーキーとわめいて、守ってきたんだなぁ。

 

壊されそうになると、被害者だと感じたり、怒ったり、嘆いたり。

 

それが壊されていくさまに、涙した。

 

ほぼ、悔し涙。

 

だけど、自分が作ったものが壊され、もうそれを守る必要なんかなかったんだっていう、安堵の涙に変わる。

 

何にもなかった。

 

 

そして、それを本当に拭い去ってくれるのは、「全体性」。

 

「全体性」から優しく包まれ、涙はかわき、「全体性」として微笑みに共鳴する。

 

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ワークブック

レッスン301

 

そして神ご自身がすべての涙を拭い去ってくれる。

 

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父よ、裁くことをしない限り、私が悲しみの涙を流すことはありえません。

また、苦痛に悩むことも、世界の中で自分が見捨てられたり必要とされてないと感じることも、ありえません。

これが私の家です。

なぜなら、私が世界を裁かないので、世界はあなたが意志する通りのものとなるからです。

今日、赦しにより一切の歪曲から解放された幸福な目を通して、咎めのない世界を見ることができますように。

そうすれば、涙の源はなくなり、私が流した涙はすべて忘れ去られるでしょう。

父よ、私は今日、あなたの世界を裁くことはしません。

 

神の世界は幸せな世界である。

それを見る者たちにできることは、ただそこに自分の喜びを加え、自分の中で喜びを深める原因となるその世界を祝福することだけである。

私たちは理解していなかったので涙にくれた。

しかし見ていた世界が虚偽だったと学んだので、私たちは今日、神の世界を見る。

(全文)

 

9.再臨とは何か

 

キリストの再臨は、神と同じように確実なものであり、単なる間違いの訂正、正気の回復にほかならない。

それは一度も失われたことのないものを取り戻し、永遠にして常しえに真理なるものを再確立する状態の一部である。

それは神の言葉が幻想と入れ替わることを求める招待であり、例外も保留もなくすべてのものに赦しをもたらそうとする意欲である。

 

キリストの再臨にはすべてを包み込むという性質があり、それゆえに、あなたとともに生命あるもの一切を包み込むその優しい降臨において、世界を抱擁し、あなたを安全に保つことができる。

神の被造物は無限であるから、再臨がもたらす解放にも終わりはない。

赦しは一切をひとつのものとしてその上に輝くので、再臨の道を明るく照らす。

そうしてついに一体性が認識される

 

再臨は聖霊が教えるレッスンを完了させ、最後の審判に道を開ける。

そこですべての学びが最後にひとつの学びに要約されて終了し、それ自体を超えて延長されて、神にまで達する。

再臨とは、すべての心がキリストの手にゆだねられ、真の創造と神の意志の名において、霊に戻される時のことである。

 

再臨は、時間の中にありながらも、時間の影響が及ばない唯一の出来事である。

すでに死んでいった者、これからくる者、今ここにいる者の誰もが、自分で作り出したものから等しく解放されるからである。

この平等さの中で、キリストが一なるアイデンティティーとして取り戻され、このアイデンティティーの中で、神の子たちは自分たち全員がひとつであることを認識する。

そして父なる神がご自身の一なる被造物であり唯一の喜びであるわが子の上に微笑む。

 

再臨の時が間もなくくるよう祈りなさい。

しかし、それだけでよしとしてはならない。

再臨はあなたの目と耳と手と足を必要としている。

あなたの声を必要としている。

そして何よりも、あなたの意志を必要としている。

私たちが神の意志を行うことができ、その聖なる光の中でともにつながることができることをともに喜ぼう。

見よ、神の子は私たちとひとつである。

ゆえに私たちは、この神の子キリストを通して父の愛へと達することができる。

(全文)

 

迷子ちゃん無事に帰る(レッスン300)

ほぼ、「怒り」「癇癪」が個人、自我の言い張りだったみたいです。

 

ちゃんと見抜かれると、個人はしー----んと静まりました。

 

癇癪の夢でした。

 

ほんの一瞬の夢。

 

ほんの一瞬の夢であったことに感謝します。

 

まだ、自我の余韻はあります。

 

優しい鎮魂歌を聞かせます。

 

背中を優しくとんとんしながら。

 

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ワークブック

レッスン300

 

ほんの一瞬しか世界は存続しない。

 

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この概念は、次のような考え方を表すために使われることもある。

「死と悲しみが、ここにくる者たち皆の確実な運命である。なぜなら、喜びは、所有するどころか、手でつかむことすらできないうちに去りゆくものだからである」。

しかしこれはまた、偽りの知覚に私たちを支配させず、常しえに晴朗な天空をよぎる一片の雲以上の意味をもたせないようにする概念でもある。

そしてこの曇りなく明らかで確かな晴朗さを、私たちは今日探し始める。

 

今日、私たちはあなたの神聖な世界を探し求めます。

あなたの愛し子である私たちは、少しの間、道に迷っていました。

しかし私たちはあなたの声に耳を傾け、天国と私たちの真のアイデンティティーを取り戻すためには何をすべきかをはっきり学びました。

だから今日、世界が一瞬の間しか存続しないことに感謝します。

私たちはそのわずかな一瞬を超えて、永遠へと進んでいきたいと思います。

(全文)

 

 

まっすぐ見る(レッスン299)

聖性は宿ってるのだから、それを認めるだけ。

 

聖性とは、「同じ」だなぁってこと。

 

抽象性という本性。

 

個人を主張していた「怒り」、「恐れ」が真っ直ぐに見つめられ、消えていくと、聖性へと引っ張られていく。

 

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レッスン299

永遠なる聖性が私の中に宿っている。

 

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私の聖性は、私の理解力や知力をはるかに凌駕している。

しかしその創造主である父なる神は、私の聖性を、ご自分のものとして認めている。

私の意志と父の意志が一緒に、それを理解する。

そしてまた、一つになった私たちの意志は、

それが事実だと知っている。

 

 

父よ、私の聖性は私からのものではありません。

それは、私が自分の罪によって破壊できるようなものではありません。

それは私個人のものではなく、攻撃に苦しむようなものではありません。

幻想はそれを隠すことはできても、その輝きを消すことも、その光を曇らせることもできません。

それは、永遠に完璧に、何にも触れられずに存在します。

その聖性の中で、すべてはあなたに創造されたままに在り続けるので、一切が癒されます。

そして私は、自分の聖性を知ることができます。

私は、聖性そのものに創造されたからです。

そしてまた、ご自身を知らしめることがあなたの意志なのですから、私は自分の源を知ることができます。

 

愛が怖くて怒ってた(レッスン298)

周りに怒ってる人がいると居心地が悪い。

 

だから、その怒ってる人に対して怒ってたし、それをどうにかしようとしていたし、心の中で裁いていた。

 

これを逆転させると、私の中に怒りがあり、その部分がスクリーンに映し出されていたことになる。

 

何度も何度もこの辺りのことを学んでいたつもりだった。

 

だけど、真から受け入れてはいなかった。

 

私は、[「もう、自分は怒ってない!」と思い込んでいた。

(思い込もうとしていたんだなぁ)

 

私は、幼い頃から周りの怒りに翻弄されてきて、怒りに苦しんできた。

 

だから、そんな怒りはこれまでの学びのプロセスで早々に手放してると思い込んでいた。

 

そして、そんな苦しみのもとになる怒りを、いつまでも持ち続けている人を、結局は怒っていた。

 

これまでも、幾度も癒しが起きて、家族間では平和になってきた。

 

それでも、やはり、度々「怒り」にまつわる出来事に出くわす。

 

もう一度、ちゃんと立ち止まる。

 

全てが「訂正」「癒し」「ゆるし」の機会。

 

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「外」に問題があると見ていると、堂々巡り。

 

このことに例外はない。

 

やはり、私が「怒り」に意味を持たせ、「怒り」に力をみて、「怒り」を問題として見てるだけなのだ。

 

スクリーンに、「怒り」に意味や力がある、という信念の映像を映し出してるのを、その「信念」通りに目撃しているだけなのだ。

 

・・・

 

問題としてみたいのは、怒りに意味や力があると見たいのは、愛に溶けるのが怖いから。

 

怒ることや、起こることに意味や力を見ることで、愛を排除していた。

 

ただそこには愛しかないことを目撃するのを拒否していただけだった。

 

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もがいても無駄な抵抗、どうしたって愛の中。

 

目を覚そう。

 

愛に溶けよう。

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レッスン298

 

父よ、私はあなたを愛し、あなたの子も愛します。

 

私の感謝により、私は恐れをもたずに自分の愛を受け入れられるようになる。

そうして、私はついに自らの実相へと戻される。

私の神聖な視覚に侵入したものを、赦しがすべて取り去ってくれる。

そして私は、無意味な旅や狂った天職や人為的な価値観への終わりへと近づく。

それらのかわりに、神が私のものとするものを受け入れ、そうすることにおいてのみ、自分が救われ、恐れを通り抜けて私の愛する存在に出会えると確信している。

 

父よ、今日、私はみもとに参ります。

あなたの道以外の道を進みたいとは思わないからです。

あなたは私の傍らにおられます。

あなたの道は確かです。

確実な聖域という神聖な贈り物に感謝します。

そして、父なる神と神聖な神の子への私の愛を隠してしまうあらゆるものからの脱出という贈り物にも、感謝します。

(全文)

 

 

ゆるされている(レッスン297)

先日の話。

 

せっかく楽しい計画を友人と約束して、前日までわくわくして、準備をしていたのに、なぜかなぜだか、「本当にこれでいいのか?」と心の奥がざわついてきた。

 

計画していた時は、無邪気で軽かったし、行動自体には何の意味もないのだし、友人との一期一会を楽しもうって思って、あまり深く考えなくていいだろうって、計画をすすめた。

 

でも、前の晩、どうしても心のざわつきがおさまらなくなった。

 

心の向きが「全体」への喜びに佇むよりも、まだこの世界の分離的な喜びで埋めようとしているのではないか?と感じた。

 

喜びをすり替え、この世界に慰めてもらおうとしていると感じた。

 

もしそれだったら、この計画は必要ないんじゃないか?と感じた。

 

なので、友人の返事にゆだねたら、計画は取りやめになった。

 

私の自我の部分は大いにガッカリしたし、友人を振り回してしまった罪悪感が湧いてきた。

 

でも、深い部分ではホっとしていた。

 

静けさの中に落ちていった。

 

そして、今度は、友人とギクシャクしてしまっている。

 

その友人に申し訳なさと、でも、この微妙な感覚をわかち合いたかったけど、それが出来ずに、気持ちがすれ違っていることにいら立ちもある。

 

だけど、もう、わたしには「わからない」。

 

これ以上、個人の保身に費やしたくない。

 

全部を全体にゆだねる。

 

・・・

 

「わからない」けど、でもこれでいいというか、表面で起きていることがなんであっても、「ゆるされている」ことだけは確かだと感じている。

 

私は、この世界で、いっぱい間違ってきた。

 

正しく生きなければならないって思い込んできたからこそ、間違ってばかりの自分の挽回に身を費やしてきた。

 

でも、そうすればするほど、自分と人の間違いを裁き、心穏やかではなかった。

 

「コース」では、その罪悪の意識が夢なんだと諭してくれる。

 

だけど、それを受け入れるどころか、まだ、自分で自分や人を「判断」して、「ゆるし」すら、自分でコントロールしょうとしていたのだった。

 

そうではない。

 

もう「ゆるされている」。

 

その「ゆるされている」源泉に身をゆだねるだけだった。

 

本当に、ただ身を任せるだけだった。

 

 

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ワークブック

レッスン297

 

赦しだけが、私が与える贈り物である。

 

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赦しは、私が与える唯一の贈り物である。

なぜなら、それが私が望む唯一の贈り物だからである。

そして私が与えるものはすべて、自分自身に与えられる。

これが救済の簡単な公式である。

だから、救われたいと願う私は、赦しを自分のものにしたい。

赦しを必要としている世界の中で、救済を私の生きるも道とし、私が自分に贖罪を受け入れるとき、世界は救われるだろう。

 

父よ、あなたの方法は何と確かなことでしょう。

その結末は何と確実なものでしょう。

私の救済における一歩一歩は、すでに、このうえなく正確に定められ、あなたの恩寵により達成されています。

あなたが与えてくださった永遠なる贈り物と私のアイデンティティーについて、感謝を捧げます。

 

(全文)