自我の不安定さに翻弄され続ける。
もう嫌だ、ほとほと嫌だ。
つい、馴染み深い罪意識と連動している自我という脆さの方にしがみついてしまう。
その弱さや卑怯さに嫌気がさす。
ムキになる。
もう、自我でいるふりはやめよう。
悠然さ、壮大さをゆるそう。
そこに落ちてしまおう。
ふっとそこから離れれば、確かな静けさがある。
確かさの中にいよう。
愛という今にいよう。
・・・
A. 信頼の進化
まず最初に、彼らは「取り消しの時期」とでも呼べるような時期を通過しなければならない。
これに苦痛を伴う必要はないが、普通はそのように経験される。
あたかも、いろいろなものが取り去れていくかのように思える。
そして、それは単にそうしたものの価値の無さが認識されつつあるにすぎないということが、最初のうちはほとんど理解されない。
知覚者がものごとを別の見方で見ざるを得ない立場に置かれてない限り、どうして価値の無さが知覚され得るだろう。
彼はまだ、その転換を完全に内側においてのみ行えるところまできてはいない。
したがって、その計画は、ときには、外的な環境のように見えるものの変化を必要とすることがある。
こうした変化は常に助けになる。
ここまで学んだとき、神の教師は第二段階に進む。
次に、神の教師は「弁別の時期」を通過しなければならない。
これは常に幾分難しい時期である。
なぜなら、彼は自分の人生における変化は常に助けになると学んだので、今では、そうした有益性を増大させるか妨げるかという基準で、すべてのものごとを決めなければならないからである。
彼にわかってくるのは、以前に自分が価値を置いていたものごとのほどんどまでとはいかなくともその多くが、生じてくる新たな状況へと自分の学びを転移される能力を妨げるだけだということである。
そしてまた、自分が本当は無価値なものに価値を置いてきたために、損失や犠牲を恐れてそうしたレッスンを普遍化しようとしないということである。
あらゆるものごとや出来事や出会いや状況が助けになるということを理解するには、多大な学びが必要である。
この幻想の世界の中では、それらは助けになる度合いに応じてのみ何らかの実在性を付与されるべきである。
「価値」という言葉は、それ以外の何にもあてはまらない。
神の教師が通過しなければならない第三の段階は、「放棄の時期」と呼ぶことができる。
もしこれが「望ましいものを諦めること」と解釈されるなら、多大な葛藤が生じるだろう。
この苦渋を完全に免れる神の教師はほとんどいない。
しかし、価値あるものを価値なきものから弁別するという段階は、その次の自明のステップをも踏み出さない限り、無意味である。
それゆえに、この重視の期間は、神の教師が自分自身の最善の利益を真理のために犠牲にするように求められていると感じる時期となりやすい。
彼は今のところ、そのような要求がまったく不可能だということを悟ってはいない。
彼がこのことを学べるのは、価値なきものを実際に手放したときのみである。
そうすることにより彼は、悲嘆を予期していたところに幸せで快活な気分を見出し、何かを求められていると思っていたところで自分に授けられている贈り物を見出す。
そして次に「安定期の時期」が訪れる。
これは静かな時であり、この時期に、神の教師は少しの間、適度の平安の中で休息する。
ここで彼は自分が学んだことを統合する。
今や、彼には自分の学んできたことの転移価値が見え始める。
それがもつ潜在力は文字通り途方もないものであり、神の教師は今や、その中に自分の完全な脱出口があるとわかるところまで進歩している。
「自分の望まないものは手放し、自分の望むものは保持する」。
この当たり前のことは何と単純だろう!
そして何とたやすく実行できることだろう!
神の教師にはこの小休止の時期が必要である。
彼はまだ自分で思っているほど遠くまで来てはいない。
しかしさらに前進する準備ができたなら、彼は力強い仲間たちを傍らにして進むことになる。
ここで少しの間休息し、さらに前進する前に彼らを集めるのである。
ここから先は一人で進むのではない。
次の段階は実に「不安定な時期」である。
今になって、神の教師は何が価値あるもので何が価値なきものか、自分は真にわかっていなかったと理解しなければならない。
その時点までに真に学んだことは、自分は価値なきものは望まず、価値あるものは望むということだけだった。
しかし彼自身による弁別は、自らにその相違を教えるには無意味だった。
彼自身の思考体系の核心をなす犠牲という概念が、彼が正しい判断をすることをまったく不可能としていた。
意欲というものを学んだと自分では思っていたが、今では、その意欲が何のためのものかを自分では知らないということがわかる。
しかも、今や彼は、きわめて長期にわたり達成不可能であり続けるかもしれない状態を、達成しなければならないのである。
彼はすべての判断を脇に置くことを学ばねばならず、あらゆる状況下で自分は真に何を望むかということだけを問わねばならない。
こうした方向に向かう一歩一歩がしっかりと強化されていなければ、実際それは困難なものとなることだろう!
そして最後に、「達成の時期」がある。
学びが統合されるのは、ここにおいてである。
以前はただの影と見えていたものが、今ではしっかりと習得されたものとなり、静穏な時だけでなく、あらゆる「非常事態」においても頼りにできるものとなる。
実のところ、静穏さこそがその習得の結果であり、正直な学習と一貫性ある思考と充分な転移がもたらした成果である。
これが真の平安の段階である。
ここにこそ、天国の状態が余すことなく反映されているからである。
ここからは天国への道は開かれており、容易である。
実は、それはそこにある。
もし心の平安がすでに完全であるなら、いったい誰がどこかに「行こう」としたりするだろう。
そして誰が、静穏さをもっと望ましい何かに取り替えようとしたりするだろう。
いったい何が、これ以上に望ましいものであり得るだろう。