【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 四.神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅱ. 正直さ

私は個ではなかった。

そうだった。

 

昨日は、個人の世界に閉じこもっていた。

 

神の子という「一貫性」。

 

全人類のための選択。

 

個人を脇によければよけるほど、「正気」の目で見渡すことができる。

 

何が大切で、何が大切ではないか。

 

形は幻だから、大切もなにも、そもそも何もない。

 

私たちは心であり、「空」そのもの。

 

何の矛盾も問題も生じようがない。

 

一点の曇りもない心に戻ろう。

 

それ以外の選択はないのだから。

 

 

・・・

神の教師たちのその他すべての特徴が、信頼に基づいている。

ひとたび信頼が達成されたなら、他の特性も必ずもたらされる。

信頼する者たちだけが正直でいることができる。

なぜなら、彼らだけにその価値がわかるからである。

正直さとは、あなたが話すことだけあてはまるのではない。

正直さという言葉は実際には一貫性を意味する。

自ら語ることが何一つ自分の考えや行動と矛盾せず、どの考えも他の考えと対立せず、すべての行為が自分の言葉を裏切ることなく、どの言葉も他の言葉と符合している。

このような者たちが、真に正直な者たちである。

いかなるレベルにおいても、彼らは自分自身と葛藤してはいない。

したがって、彼らが他の誰かや何かと葛藤することは不可能なことである。

 

進歩した神の教師たちが経験する心の平安は、彼らの完璧な正直さによるところが大きい。

欺こうという願望のみが争いを促す。

自分自身とひとつである者は葛藤など思い描くことさえできない。

葛藤は自己欺瞞の必然的な結果であり、自己欺瞞とは不正直さである。

神の教師にはいかなる難問もない。

難問とは疑念を示唆するものであり、神の教師たちは信頼を確かな拠りどころとしているので、疑念は不可能となっている。

だから彼らは成功するのみである。

このことにおいても、すべてのことにおいてそうであるように、彼らは正直である。

彼らが成功するのみだという理由は、彼らが決して自らの意志をひとりで行うのではないからである。

彼らは全人類のために選択する。

全世界とその中にあるすべてのもののため、外観を超えた、変わらぬものにして変わり得ぬもののため、そして神の子とその創造主のために、選択する。

彼らが成功しないなどということがあり得るだろうか。

自分自身について確信しているのと同じく自分の選択についても確信している彼らは、完璧な正直さの中で選択している。

 

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか A. 信頼の進化

自我の不安定さに翻弄され続ける。

 

もう嫌だ、ほとほと嫌だ。

 

つい、馴染み深い罪意識と連動している自我という脆さの方にしがみついてしまう。

 

その弱さや卑怯さに嫌気がさす。

 

ムキになる。

 

もう、自我でいるふりはやめよう。

 

悠然さ、壮大さをゆるそう。

 

そこに落ちてしまおう。

 

ふっとそこから離れれば、確かな静けさがある。

 

確かさの中にいよう。

 

愛という今にいよう。

 

・・・

A. 信頼の進化

 

まず最初に、彼らは「取り消しの時期」とでも呼べるような時期を通過しなければならない。

これに苦痛を伴う必要はないが、普通はそのように経験される。

あたかも、いろいろなものが取り去れていくかのように思える。

そして、それは単にそうしたものの価値の無さが認識されつつあるにすぎないということが、最初のうちはほとんど理解されない。

知覚者がものごとを別の見方で見ざるを得ない立場に置かれてない限り、どうして価値の無さが知覚され得るだろう。

彼はまだ、その転換を完全に内側においてのみ行えるところまできてはいない。

したがって、その計画は、ときには、外的な環境のように見えるものの変化を必要とすることがある。

こうした変化は常に助けになる。

ここまで学んだとき、神の教師は第二段階に進む。

 

次に、神の教師は「弁別の時期」を通過しなければならない。

これは常に幾分難しい時期である。

なぜなら、彼は自分の人生における変化は常に助けになると学んだので、今では、そうした有益性を増大させるか妨げるかという基準で、すべてのものごとを決めなければならないからである。

彼にわかってくるのは、以前に自分が価値を置いていたものごとのほどんどまでとはいかなくともその多くが、生じてくる新たな状況へと自分の学びを転移される能力を妨げるだけだということである。

そしてまた、自分が本当は無価値なものに価値を置いてきたために、損失や犠牲を恐れてそうしたレッスンを普遍化しようとしないということである。

あらゆるものごとや出来事や出会いや状況が助けになるということを理解するには、多大な学びが必要である。

この幻想の世界の中では、それらは助けになる度合いに応じてのみ何らかの実在性を付与されるべきである。

「価値」という言葉は、それ以外の何にもあてはまらない。

 

神の教師が通過しなければならない第三の段階は、「放棄の時期」と呼ぶことができる。

もしこれが「望ましいものを諦めること」と解釈されるなら、多大な葛藤が生じるだろう。

この苦渋を完全に免れる神の教師はほとんどいない。

しかし、価値あるものを価値なきものから弁別するという段階は、その次の自明のステップをも踏み出さない限り、無意味である。

それゆえに、この重視の期間は、神の教師が自分自身の最善の利益を真理のために犠牲にするように求められていると感じる時期となりやすい。

彼は今のところ、そのような要求がまったく不可能だということを悟ってはいない。

彼がこのことを学べるのは、価値なきものを実際に手放したときのみである。

そうすることにより彼は、悲嘆を予期していたところに幸せで快活な気分を見出し、何かを求められていると思っていたところで自分に授けられている贈り物を見出す。

 

そして次に「安定期の時期」が訪れる。

これは静かな時であり、この時期に、神の教師は少しの間、適度の平安の中で休息する。

ここで彼は自分が学んだことを統合する。

今や、彼には自分の学んできたことの転移価値が見え始める。

それがもつ潜在力は文字通り途方もないものであり、神の教師は今や、その中に自分の完全な脱出口があるとわかるところまで進歩している。

「自分の望まないものは手放し、自分の望むものは保持する」。

この当たり前のことは何と単純だろう!

そして何とたやすく実行できることだろう!

神の教師にはこの小休止の時期が必要である。

彼はまだ自分で思っているほど遠くまで来てはいない。

しかしさらに前進する準備ができたなら、彼は力強い仲間たちを傍らにして進むことになる。

ここで少しの間休息し、さらに前進する前に彼らを集めるのである。

ここから先は一人で進むのではない。

 

次の段階は実に「不安定な時期」である。

今になって、神の教師は何が価値あるもので何が価値なきものか、自分は真にわかっていなかったと理解しなければならない。

その時点までに真に学んだことは、自分は価値なきものは望まず、価値あるものは望むということだけだった。

しかし彼自身による弁別は、自らにその相違を教えるには無意味だった。

彼自身の思考体系の核心をなす犠牲という概念が、彼が正しい判断をすることをまったく不可能としていた。

意欲というものを学んだと自分では思っていたが、今では、その意欲が何のためのものかを自分では知らないということがわかる。

しかも、今や彼は、きわめて長期にわたり達成不可能であり続けるかもしれない状態を、達成しなければならないのである。

彼はすべての判断を脇に置くことを学ばねばならず、あらゆる状況下で自分は真に何を望むかということだけを問わねばならない。

こうした方向に向かう一歩一歩がしっかりと強化されていなければ、実際それは困難なものとなることだろう!

 

そして最後に、「達成の時期」がある。

学びが統合されるのは、ここにおいてである。

以前はただの影と見えていたものが、今ではしっかりと習得されたものとなり、静穏な時だけでなく、あらゆる「非常事態」においても頼りにできるものとなる。

実のところ、静穏さこそがその習得の結果であり、正直な学習と一貫性ある思考と充分な転移がもたらした成果である。

これが真の平安の段階である。

ここにこそ、天国の状態が余すことなく反映されているからである。

ここからは天国への道は開かれており、容易である。

実は、それはそこにある。

もし心の平安がすでに完全であるなら、いったい誰がどこかに「行こう」としたりするだろう。

そして誰が、静穏さをもっと望ましい何かに取り替えようとしたりするだろう。

いったい何が、これ以上に望ましいものであり得るだろう。

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴とはどのようなものか

これまでの人生を「自我」的にながめると、とてもじゃないけど、がっかりする。

あれもダメだった、これも失敗した、あれは選択ミスだった、これは運が悪かった・・・・・。

ジャッジして、覆って、隠したくなるし、挽回したくなる。

 

でも、正気を取り戻し、「全体」「愛」という真の本質を思い出すために”これまでの人生”があったのだ、と気づくと、これまでのすべてが納得いくし、もうなんの不満も問題も、そしてトラウマや傷だと思っていた思い出の解釈が、優しく消えていく。

 

すべてが、本当の私へと戻るための招待状だった。

 

そして、今、これまでの「私の人生」と同じく、「この世界」を見渡すと、忌むべきものは何もない。

 

過去と同様に、未来も祝福に満ちている。

 

嘆き悲しみの世界だと見ていたけど、実際は、信頼された、至福への道を教えてくれるのが世界だった。

 

解釈からの解放にて、ダイレクトに美しさだけに触れる。

 

すべてが祝福されている。

 

・・・

 

神の教師たちの表面的な特性は一様ではない。

肉眼には、彼らが似ているようには見えず、彼らの来歴も限りなく多様である。

この世界での経験も千差万別、表向きの「個性」もそれぞれまったく異なっている。

また、神の教師として確立することになるような、より深い特徴を身につけてはいない。

神は彼らに特別な贈り物を授ける。

彼らには神により贖罪の計画における特別な役割があるからである。

彼らの特別性はもちろん一時的なものでしかない。

すなわち、時間の外へ導くための手段として、時間の中に設定されているものである。

こうした特別な贈り物は、この「教えて学ぶ状況」が目指している神聖な関係の中で生まれ、自らの学びにおいて進歩を遂げた神の教師たち全員に特有のものとなる。

この点において、彼らはみな一様である。

 

神の子らの間の相違はすべて一時的なものである。

それでも、時間の中では、進歩した神の教師たちは次のような特徴を備えている。

 

Ⅰ. 信頼

 

これが、神の教師としての機能を全うするための彼らの能力の土台を成すものである。

知覚は学びから生じる結果である。

実は、知覚が、すなわち学びである。

原因と結果は決して分離してはいないからである。

神の教師たちは世界を信頼している。

なぜなら、彼らは、世界はそれ自体が作り上げた法則によって支配されてはいないと学んだからである。

それは彼らの内にありながらも、彼らのものではない力によって支配されている。

すべてのものを安全に保持しているのはこの力である。

神の教師たちが赦された世界を見るのは、この力を通してである。

ひとたびこの力が体験されたなら、二度と再び自分自身のささいな力を信頼することはできなくなる。

鷲のように強力な力が自分に与えられているというときに、いったい誰が、雀の小さな翼で飛び立とうとするだろう。

そして神の贈り物が目の前に置かれているときに、いったい誰が、自我のみすぼらしい捧げ物を信頼しょうとするだろう。

彼らにこうしら転換を促すものとは何だろうか。

マニュアル編 ありとあらゆる機会が救い(三. 教えることにおけるレベルとは何か)

あらゆる機会を「無垢」と見る。

なにもかものルールや責めから解放し、解放される。

なにもかもが優しい。

 

「身口意」とは「教えて学ぶ状況」と同じことなんだなぁ。

 

素直なままいていい。

 

ホッとする。

・・・

三. 教えることにおけるレベルとは何か

神の教師たちには、教えることにおける所定のレベルというものはない。

どの「教えて学ぶ状況」もそれぞれに異なる関係から始まる。

しかし、究極のゴールは常に同じである。

すなわち、その関係を、両者が共に神の子を罪なき者として見ることができる神聖な関係とすることである。

神の教師は誰からでも学ぶことができる。

それゆえに、彼は誰にでも教えることができる。

とはいえ、現実的見地から言えば、彼がすべての者に出会うことは不可能であり、すべての者が彼を見つけることもできない。

したがって、この計画には、それぞれの神の教師がきわめて具体的に接することになる人々が含まれている。

救済に偶然はない。

出会うべき者たちは出会うことになる。

なぜなら、一緒であれば、彼らに神聖な関係の可能性があるからである。

彼らは互いに出会う準備ができている。

 

教えることの最も単純なレベルは、かなり表面的なものに見える。

それはまったく何気ない出会いのように見えるもので成り立っている。

たとえば、エレベーターの中で明らかに赤の他人である二人が「不意に」出会うとか、前も見ずに走っていた子供が一人の大人に「偶然に」ぶつかるとか、二人の学生が「たまたま」一緒に歩いて帰る、といったことである。

こうしたことは、偶然の遭遇ではない。

そのどれもが、「教えて学ぶ状況」となる可能性を含んでいる。

エレベーターの中の他人同士に見える二人が互いに微笑みかけるかもしれないし、子供がぶつかった大人は、その子を叱らないかもしれない。

また、学生たちは友達になるかもしれない。

最も何気ない出会いのレベルにおいてさえ、たとえほんの一瞬だけだとしても、二人の者が個別の利害を忘れることは可能である。

その一瞬で充分である。

救済は訪れたのである。

 

普遍なるコースを教えることにいくつものレベルがあるという概念は、時間の概念と同じく、実相においては無意味だということを理解するのは難しい。

一方幻想が、もう一方の幻想をも可能にしている。

時間の中では、神の教師は一つの決断をしたことで世界について自分の心を変え始め、彼が新たな方向を教えるにつれて、その方向についてさらに多くを学んでいくように見える。

時間が幻想であることについてはすでに触れたが、教えることにおける複数のレベルという幻想のほうは、時間の場合とは幾分違っているように見えるかもしれない。

こうしたレベルが存在し得ないと実証する最も良い方法は、おそらく、単に次のように言うことである。

すなわち、「教えて学ぶ状況」のどのレベルも贖罪のための神の計画の一部であり、神の計画は神ご自身の意志の反映であるから、その計画にレベルというものはあり得ない、と。

救済は常に準備が整っており、常にそこにある。

神の教師たちはさまざまに異なるレベルで働くが、その結果は常に同じである。

 

「教えて学ぶ状況」はいずれも、各人がその時点で相手から学べる最大のものを学ぶという意味で、最大限のものである。

この意味において、そしてこの意味においてのみ、私たちは、教えることにおける複数のレベルというものを語ることができる。

「レベル」という言葉をそのように使うなら、教えることにおける第二のレベルは第一のレベルよりも長く維持する関係である。

その中では、しばらくの間、二人の人間がかなり密度の濃い「教えて学ぶ状況」に入っていき、その後、離れていくように見える。

第一のレベルの場合と同様に、こうした出会いも偶然ではなく、その関係の終わりと見えるものも、真の終わりではない。

ここでも、それぞれがその時点で可能な限り最大のものを学んだということである。

だが、出会った者たちはみな、いつの日か再び出会うことになる。

すべての関係は神聖なものになる運命にあるからである。

神はわが子について思い違いをしてはいない。

 

教えることにおける第三のレベルは、ひとたび形成されたなら生涯続いていくような関係の中で生じる。

こうした「教えて学ぶ状況」において、学ぶための無限の機会を提供するべく選ばれた学習相手が各人に与えられている。

このような関係は、概して、わずかしかない。

なぜなら、こうした関係が成り立つということは、そこに関わる者たちが、教えと学びの間の釣り合いが実際に完璧であるような段階に、同時に達しているということになるからである。

だからといって、必ずしも彼らがそのことを認識しているという意味にはならない。

彼らはしばらくの間、あるいは生涯にわたり、互いにひどく敵対していることさえあるかもしれない。

しかし彼らが学ぼうと決断すれば、完璧なレッスンが目の前にあり、それを学ぶことができる。

そして彼らは、もしそのレッスンを学ぶ決断をするなら、挫けて失敗するとさえ見える教師たちにとっての救済者となる。

神の教師が自分に必要な助けを見出せないということはあり得ない。

マニュアル編 時間は幻想、愛は永遠(二. 生徒たちとは誰のことか)

愛は分かれていない。

愛は全体。

だから、自我は排除する必要はない。

ただ、自我は愛に解体されて溶けていく。

慌てて消す必要などない。

自我は表れて、揺るぎないおおらかな愛の中では簡単に溶ける。

 

その簡単さを受け入れたい。

この選択の中にいたい。

時間の呪縛を優しくそこに置こう。

 

・・・

神の教師の一人ひとりに特定の生徒たちが割り当てられており、教師が呼びかけに応えたなら生徒たちはただちに彼を探し始める。

その生徒たちが彼のために選ばれた理由は、彼が教えることになる普遍なるカリキュラムの形態が、理解のレベルという観点から彼らに最適だからである。

教師が訪れることは確実なので、生徒たちは彼をずっと待っていた。

これもまた、単なる時間の問題である。

ひとたび彼が自らの役割と果たすことを選んだなら、生徒たちにも自らの役割を果たす準備が整う。

時間は彼の選択を待っているのであり、彼が助けることになる者たちを待っているのではない。

彼に学ぶ準備ができたときに、教える機会が彼のために用意される。

 

救済のための「教えて学ぶ計画」を理解するには、このコースが説く時間の概念を把握することが必要である。

贖罪は幻想を訂正するのであって、真理を訂正するのではない。

したがって、それはもとより一度も存在したことのないものを訂正するのである。

そればかりか、この訂正の計画は定められたと同時に成就されている。

神の意志は全面的に時間から隔絶しているからである。

神からのものである実相のすべてについても、同様である。

分離の想念が神の子の心に入り込んだまさにその瞬間に、神の答えが与えられた。

時間の中では、これははるか悠久の昔に起こったことである。

実相においては、それは全く起こっていない。

 

時間の世界は幻想の世界である。

遠い昔に起こったことが、今、起こっているかに思える。

ずっと以前に選択されたことが、まだこれから選べる選択であるかに見える。

すでに学ばれ、理解され、とうの昔に過ぎ去ったものごとが、新しい考えや新鮮なアイデアや異なったアプローチと見なされる。

あなたの意志は自由であるから、あなたはすでに起こったことを、いつでも自分で選ぶときに受け入れることができる。

そしてそのときにのみ、あなたはそれが常にそこに存在していたと悟る。

このコースが強調しているように、あなたにはカリキュラムを選択する自由はなく、どのような形態で自分がそれを学ぶことになるかを選択する自由さえもない。

しかしあなたには、いつそれを学びたいかを決める自由はある。

そしてあなたがそれを受け入れるとき、それはすでに学ばれている。

 

すなわち、時間は実際に、往古の瞬間に戻っていくのである。

それは、あまりに遠い昔のことであるため、まったく記憶が及ばず、思い出せる可能性すらない瞬間である。

しかしその瞬間は、何度も何度も、幾度となく繰り返して追体験されるために、今であるかに見える。

そのようにして、生徒と教師が、あたかも以前には出会ったことがないかのようにお互いを見出し、現在において合流するように見える。

生徒は、ふさわしい時間にふさわしい場所にやってくる。

これは必然である。

なぜなら、彼はあの往古の一瞬において、すでに正しい選択をしており、それを今、追体験しているだけだからである。

教師もまた同じく、はるかなる過去の中で、必然の選択をした。

あらゆるものにおいて、神の意志の働きが表れるには時間がかかるように見えるが、それはそのように見えるだけである。

いったい何が、永遠の力を遅らせることなどできるだろう。

 

生徒と教師が合流するとき、「教えて学ぶ状況」が始まる。

というのも、実際には教えることを行うのはその教師ではないからである。

学びの目的のためにお互いにつながり合うどの二人の者に対してでも、神の教師が語りかける。

その関わりはその目的のゆえに神聖であり、神はどの神聖な関係にも聖霊を送ると約束してる。

そのような「教えて学ぶ状況」においては、どちらの者も与えることと受け取ることは同じだと学ぶ。

互いの役割の間や、互いの心や肉体や必要や利害の間に彼らが引いた境界線も、さらには互いを分け隔てていると彼らが思っていた相違のすべても、色あせ、薄らいで、消えてしまう。

同じコースを学ぼうとする者たちは、一なる関心と一なるゴールを共有する。

そのようにして、学ぶ者であった彼自身が神の教師となる。

なぜなら、彼も、自分に教師を与えることになったあの一つの決断を下したからである。

彼は他者にうちに、彼自身の利害と同じ利害と見たのである。

 

マニュアル編 一.神の教師たちとは誰のことか

「マニュアル」を読むと楽しい気分になる。

なんて力強い手引書なんだろう。

 

あんなに焦って生きてきた日々を、今、癒し、赦し、解放している。

 

この癒し、赦し、解放、はわかち合われる。

 

今心に焦りや苦しみがあるとしたら、見る必要のないところをただ見ているだけなのだ。

 

「神の子は無罪であり、その無垢性の中に救済がある」

 

ここだけがリアル。

 

ここには「時間」が存在しない。

 

瞬間、瞬間、「新しい」。

 

これを伝えるのは、言葉でもいいし、無言でもいい。

 

行動してもいいし、何もしなくてもいい。

 

近くにいてもいいし、遠くても関係ない。

 

時間から解放されたきらめきをわかち合い続けよう。

 

・・・

「一. 神の教師たちとは誰のことか」

 

神の教師となることを選択する者なら、誰でも神の教師である。

その資格はただ一つ、「なぜかどこかで、自分の利害を他者の利害から離れたものとは見なさいという、意図的な選択をした」ということだけである。

ひとたびその選択をしたなら、彼の道は確立され、彼の進路は定まる。

光が闇の中に差し込んだのである。

それは一条の光でしかないかもしれないが、それで充分である。

まだ神を信じていないとしても、彼は神と協定を結んだことになる。

彼は救済ともたらす者となった。

神の教師となったのである。

彼らは世界中からやってくる。

あらゆる宗教からも、無宗教からもやってくる。

彼らは応えた者たちである。

呼びかけは普遍的なものである。

それはあらゆる時、あらゆるところで続いている。

それを代弁して世界を救うようにと、教師たちに呼びかけている。

多くの者がそれを聞くが、応える者はわずかしかいない。

だが、それもみな時間の問題である。

誰もが最後には応えることになる。

しかし、その最後とは、はるかに遠い先のことになり得る。

だからこそ、教師の計画が定められたのである。

彼らの機能は時間を省くことである。

一人ひとりは一条の光として始めるが、呼びかけがその中心であるので、それは限定されることのない光である。

そして一人ひとりが、世界が判断するところの千年にも相当する時間を省くことになる。

呼びかけそのものにとっては、時間には何の意味もない。

神の教師の一人ひとりに一つのコースがある。

コースの形態は多種多様である。

使用される特定の教材も、同じく多様である。

しかし、コースの内容は決して変わることがない。

その中心的テーマは常に、「神の子は無罪であり、その無垢性の中に救済がある」ということである。

それは行動で教えることもできれば、想念で教えることもできる。

言葉で語ってもよく、無言でいてもよい。

どの言語を使っても、まったく言語を使わずとも、また、いかなる場所や時間においても、いかなる様式によってでも、教えることができる。

呼びかけを聞く前に、その教師が誰であったかは問題はない。

彼は応えたことにより救済者となった。

彼は誰か他の者を自分自身と見なしたのである。

それゆえに、彼自身の救済と世界の救済を見出した。

彼の再生において、世界は生まれ変わる。

本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。

他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす。

どれもみな、ただ時間を省くだけである。

しかし時間のみが気怠く流れ続けており、今この世界は非常に疲れている。

衰え、やつれ果て、希望を失っている。

結果について疑われたことは一度もない。

神の意志を変えることはできないからである。

しかし時間は、それに伴う変化と死という幻想の数々によって、この世界とその中のあらゆるものを疲弊されている。

だが時間には終わりがある。

それをもたらすことが、神の教師たちの任務である。

時間は彼らの手中にあるからである。

それが彼らの選択だったので、それが彼らに与えられている。

(全文)

「奇跡講座」教師のためのマニュアル 「序文」

ワークブックの4巡目が先日終わり、ようやく、今度は「マニュアル」を、ここで記していきたいという気持ちになれた。

 

ワークブックの4巡目の終わりごろ(レッスン200あたりから)、まだわずかにだけど「真理」を疑っていた、その感覚が消えた。

 

そして、同時に「真理」への憤りも消えた。

 

「時間と空間」への焦りも失せていった。

 

与えられている「時間と空間」は、「真理」に使おう。

 

この世界の時間軸に踊らされなくていいという解放感と安堵感、自由な感覚。

 

この与えられている祝福の時間を大いに祝福に使う。

 

この世界が、訴えてきてるように、煽っているように感じていた概念や言葉も素通りして、その奥にある光と愛に満ちていこう。

 

「共有」の財産である「愛」だけをわかち合う。

 

それ以外は必要ないこと。

 

これからも、それでも二重に見えるときがあるこの世界においては、心静かにいて、すべてのひとと、「愛」だけを共有したい。

 

あなたは他の誰かに与えるということはできず、自分自身に与えることができるだけである。

そしてこのことを、あなたは教えることを通して学ぶのである。

 

・・・

「序文」

 

教えることと学ぶことの役割は、この世界の思考では、実際に逆になっている。

この逆転は特徴的なものである。

あたかも、教える者と学ぶ者が分離しており、教える者が、自分自身にではなく学ぶ者に、何かを与えているかに見える。

さらには、教えるという行為は、人が自分の時間のうち比較的わずかな間だけ携わる特別な活動であると見なされている。

一方、このコースは、教えるはすなわち学ぶことであるから、教える者と学ぶ者は同じであると強調する。

また、教えるといことは不断のプロセスであり、一日中あらゆる瞬間に行われており、睡眠中の想念の中でも続いているということも、同じく強調されている。

教えるとは、手本を示すことである。

存在するのは二つの思考体系だけであり、あなたはいつでも、自分がそのどちらか一方を信じているということを、手本として示している。

あなたが示す手本から他の者が学び、同じくあなたも学ぶことになる。

問題は、あなたが教えるかどうかではない。

それについては選択の余地がない。

このコースの目的は、あなたが何を学びたいかに基づいて何を教えたいかを選択できるように、そのための手段を提供することにあるとも言える。

あなたは他の誰かに与えるということはできず、自分自身に与えることができるだけである。

そしてこのことを、あなたは教えることを通して学ぶのである。

教えるとは、あなたが何を信じているかを証するようにと、証人たちに呼びかけることに他ならない。

それは回心の方法である。

これは言葉だけによって為されるものではない。

どんな状況も必ず、自分とは何であるか、そして他者とはあなたにとって何であるかを、あなたが他者に教える機会となる。

それ以上のものではない。

しかしそれ以下でもない。

したがって、あなたが設定するカリキュラムは、自分をいかなるものと考えているか、および、他者との関わりを自分にとっていかなるものと信じているか、ということのみにより決定される。

正式に教える状況のおいては、こうした問いは、自分が教えていると思っている事柄とはまったく無関係かもしれない。

しかし、いかなる状況に含まれる内容であれ、あなたが真に教えるもののため、すなわち真に学ぶもののために使われないということはあり得ない。

これには、あなたが教える事柄がどのような言葉で述べられているかはまったく問題にならない。

それが教えと一致する場合もあれば、一致しない場合もある。

あなたが語ることの根底にある教えが、あなた自身に教えるのである。

教えるということは、自分自身について自分が信じていることを強化するだけである。

その根本的な目的は、自己不信を減ずることにある。

これは、あなたが守ろうとしている自己が実在するという意味ではない。

しかし、実在すると自分で思っている自己をあなたは教えるということは、確かに意味している。

これは避けられないことである。

このことから逃れる道はない。

それ以外のことがあり得るだろうか。

この世界のカリキュラムに従っている者は誰でも、自分が自分の本性とは違ったものであると、ひたすら自分自身に確信させるためにのみ教えており、そして、ここに居る者は誰でも、自分で自分の心を変えるまでは必ずそのカリキュラムに従うものである。

そうすることの中に、世界の目的がある。

それならば、それ以外の何が、世界のカリキュラムであり得るだろう。

絶望と死の他には何も教えず、希望もなく、閉ざされたこの学びの状況に、神は教師たちを送り込む。

そして彼らが喜びと希望という神のレッスンを教えている間に、彼ら自身の学びがついに完了する。

神の教師たちがいなければ、救済の望みはほとんどなくなるだろう。

なぜなら、罪の世界が永遠に実在するように見えることになるからである。

自らを欺いている者は欺くことしかできない。

彼らは欺瞞を教えざるを得ないからである。

これ以外の何が地獄だというのだろう。

本書は神の教師たちのためのマニュアルである。

彼らは完全無欠ではない。

そうであったなら、彼らがここに居るはずはない。

しかし、ここで完全無欠になることが彼らの使命である。

それゆえに、彼らは完全無欠性を習得するまで、実に多くのやり方で、何度でも繰り返して、それを教える。

そうしてその後、もはや彼らの姿は見られなくなる。

それでも、彼らの想念は、永遠の強さと真理の源であり続ける。

彼らとは誰のことか。

どのようにして選ばれるのか。

彼らは何をするのか。

どのようにして彼らは、自分自身の救済と世界の救済を実現するのか。

このマニュアルは、こうした質問に答えようとするものである。

(全文)