【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十三. 犠牲の真の意味は何か

この世界の”見方”を勘違いしてしまっている。

 

このことを、「犠牲」というんだなぁ。

 

なにかを得られず、そのことで「がっかりする」とき、わたしは間違っているのだ。

 

自分のことを、”身体で個人”なんだと思い込んだままでこの世界を見ているかぎり、「がっかりする」ようになっている。

 

なぜなら、物質の世界は、常に壊れゆく「がっかり」の世界なのだから。

 

その証拠に、なにかが得られたときの喜びには、こんどはそれを失う「恐怖」もセットになっている。

 

得られたものをキープしなければならなくなったり、得られたのに、充分満足できずに「これじゃなかった」とさらに「がっかり」したり。

 

「がっかり」とは、ジャッジの世界を信じているということ。

 

「がっかり」とは、罪の世界を信じているということ。

 

こうして、自分や、人や、世界の物事へのジャッジという処罰に夢中になることで、”本当のよろこびという居場所”にたどり着かないようにしているのだ。

 

・・・

 

「奇跡講座」は、それに気づかせてくれた。

 

この【十三. 犠牲の真の意味は何か】にて、丁寧に説明してあり、気づきが深まった。

 

・・・

 

また、「がっかり」したとしても、本当のよろこびがそのすぐ下にあることにも安心した。

 

「がっかり」の反応が出たなら、それは「エラー」というだけ。

 

「勘違いしてますよ~」というお知らせ。

 

それは「分離」という勘違いのエラー。

 

ということは、「がっかり」に力はない。

 

だから、安心して、「がっかり」を避けることなく、そのまんま、丸ごと認めて、感じて、受け入れる。

 

それをまるごと冷静に観察してみる。

 

「がっかり」した”対象”に向けていた「期待」、「欲求」を認める。

 

「わたしはこれがないと充分ではないし、満たされない」という考えがあったんだなぁ~と理解してあげる。

 

これまでは、それを「外」にて解消しようとして、エンドレスに求め続けていたけど、それが勘違い。

 

ぎゃくに、聖霊という内側の「静けさ」にうち明けるのみ。

 

そしたら、「がっかり」は、”終わりのない罰ゲーム”なのだなぁ、と見抜かれていく。

 

「期待」、「欲求」は、勘違いである”分離の思考”から生まれる「恐怖」が起こしているのだ。

 

・・・

 

こうして、「がっかり」を生じさせた「期待」、「欲求」は、内側の静けさにもちこまれ、包まれていく。

 

なんの実体もないものだった・・・。

 

「外」で解消しょうと、「自分」でなんとかしなくていいんだったとわかって安心する。

 

というか、自分でなんとかなんてできない、と認める。

 

「わかりません~」。

 

そのまるごとが、内側にもちこまれ、ゆだねられることで、安堵感があふれる体験に満ちていく。

 

愛という全体にふれ、「わたしはこれがないと充分ではないし、満たされない」という根拠のない考え、罰ゲームは、少しづつ薄れて、消えていく。

 

「がっかり」は、結局は安堵に変わり、笑いとよろこびを連れてきてくれる。

 

「平安」へ連れていってくれる。

 

その気づきへのスイッチにすぎない。

 

だから、安心して、抑圧することなく、「がっかり」をむかえ入れ、「平安」への機会にしたい。

 

・・・

 

十三. 犠牲の真の意味は何か

 

真理においては、「犠牲」という言葉がまったく無意味であるが、この世界においては、確かにそれには意味がある。

世界のすべてのものごとと同様に、それがもつ意味は一時的なものであり、そのための用途がなくなったときには、それが生じてきた場である無の中に、いずれは消えてゆく。

今は、その真の意味は、それが一つのレッスンだということである。

このレッスンも、すべてのレッスンと同じく一つの幻想である。

というのも、実相においては学ぶべきことは何もないからである。

だが、この幻想は、訂正の仕組みと入れ替えられなければならない。

それは、最初の幻想と入れ替わるもう一つの幻想であり、それにより、最後には両方が消え去ることが可能になる。

別の思考体系が定着できるようになる前にまず取り除かなければならない最初の幻想とは、この世界のものごとを手放すことは犠牲だという考えである。

この世界自体が幻想でしかないのだから、この考えが幻想でなくて何だろうか。

 

この世界が与えることのできるものなど何もないという事実を悟り、受け入れるには、多大な学びを必要とする。

無を犠牲にすることに、どのような意味があり得るだろうか。

それは、そうした犠牲のゆえにあなたの持ち分が減るという意味にはなり得ない。

この世界が定義する犠牲で、肉体に関連しないものはない。

世界が「犠牲」と呼んでいるものについて、しばし考えてみなさい。

権力、名声、金銭、肉体にまつわる楽しみなど、これらすべてのものの所有者である「主人公」とは誰だろうか。

こうしたものは、肉体以外のものにとって、何の意味があるだろうか。

だが、肉体には評価するということができない。

こうしたものごとを追い求めることによって、心は自らを肉体と結びつけて考え、自らのアイデンティティーを曖昧にし、自らの真の本性を見失う。

 

ひとたびこの混同が起こると、この世界の「楽しみ」のすべてが無であると理解することが、心には不可能となる。

しかし、このすべては、何という犠牲を伴うことだろう。

そしてこれこそが、まさしく犠牲である!

今や心は、見つけることなく探し求めるという運命を自分に宣告したことで、永遠に満足も充足もできず、自分が本当は何を見つけたいのかもわからなくなっている。

自分自身へのこのような宣告から、逃れられる者がいるだろうか。

神の言葉を通してのみ、逃れることが可能になり得る。

なぜなら、自分への宣告とは自分のアイデンティティーについての決断であり、誰も、自分で自分だと信じているものを疑うことはないからである。

あらゆるものごとを疑うことはできるが、これだけは決して疑えない。

 

神の教師たちが世界の楽しみを諦めるのを残念に思うことはあり得ない。

苦痛を諦めることは犠牲だろうか。

大人が子供の玩具を諦めるのを嫌がるだろうか。

自らの心眼ですでにキリストの顔を垣間見た者が、屠殺場を懐かしんで振り返ったりするだろうか。

世界とその中にある病苦のすべてを逃れてきた者は、世界を咎めようとして振り返ったりはしない。

それどころか、世界の価値観が彼に要求していた犠牲のすべてから自分が自由であることを、彼は喜ぶに違いない。

世界の価値観に対して、彼は自分の平安のすべてを犠牲にしている。

それらに対して、自分の自由のすべてを犠牲にしている。

そしてそれらを所有するためには、彼は天国の希望と父の愛の想起を犠牲にしなければならない。

正気の心でいる者なら、いったい誰が一切の代替として無を選ぶだろう。

 

犠牲の真の意味とは何だろうか。

犠牲とは幻想を信じることの代償である。

それは、真理を否定するために支払わなければならない代価である。

この世界の楽しみのうちで、これを要求しないものは一つもない。

そうでなかったなら、そうした楽しみは苦痛と見られることになり、それと認識して苦痛を求める者などいないからである。

彼を盲目にするのは、犠牲という概念である。

彼には、自分が何を求めているのかが見えていない。

それゆえに彼は、数限りない方法で、数限りない場所にそれを探しまわり、毎回、それはそこに在ると信じつつも、その都度、最後には落胆することになる。

こうして「探せよ、がされど見つけることなかれ」がこの世界の厳しい掟であり続け、世界のゴールを目指す者で、それ以外のことができる者はいない。

 

自分が真に大切にしているもののすべてを犠牲にすることをこのコースが要求していると、あなたは信じているかもしれない。

ある意味では、それは真実である。

なぜなら、あなたは神の子を十字架につけるものを大切にしており、このコースの目的は神の子を自由にすることだからである。

しかし、犠牲が何を意味しているのかを誤解してはならない。

それは常に、自分が望んでいるものを諦めることを意味する。

神の教師たちよ、それならば、あなたの望むものとはいったい何なのだろうか。

あなたは神に召し出され、そしてそれに応えた。

今になって、あなたはその召命を犠牲にしようというのだろうか。

まだごく少数の者たちしかそれを聞いてはいない。

そして、彼らにはただあなたに頼ることしかできない。

その他に、この世界のどこにも彼らが信頼できる希望はない。

その他に、この世界のどこにも神の声をこだまする声はない。

あなたが真理を犠牲にしようとすれば、彼らは地獄にとどまる。

そして彼らがそこにとどまるなら、あなたも彼らと共にとどまることになる。

 

犠牲とは全面的なものごとであることを忘れてはならない。

中途半端な犠牲というものはない。

天国を部分的に諦めることはできない。

少しだけ地獄に居るということもできない。

神の言葉に例外はない。

このことが、それを神聖にし、世界を超越したものとする。

この聖性が、神への道を指し示す。

この聖性が、あなたを安全にする。

何のためであれ、あなたが兄弟を攻撃するなら、この聖性は否定される。

ここにおいて、神からの分裂が生じるからである。

それはあり得ない分裂である。

起こり得ない分裂である。

それでも、それは、あなたが確実に信じることになる分裂である。

なぜなら、あり得ない状況をあなたが設定してしまったからである。

そしてその状況においては、あり得ないことが起こり得るように見える。

それは真理を「犠牲にして」起こるように見える。

 

神の教師よ、犠牲の意味を忘れてはならない。

そして、あなたが下す決断の一つひとつが、代償という観点から何を意味するかを思い出しなさい。

神を選ぶ決断をしなさい。

そうすれば、一切があなたに無償で与えられるだろう。

神に逆らう決断をするなら、あなたは一切についての自覚を代償にして、無を選ぶことになる。

あなたは何を教えたいだろうか。

あなたが学びたいことだけを覚えていなさい。

なぜなら、あなたの関心は、そこに留まるべきだからである。

贖罪はあなたのためにある。

あなたの学びが、それをあなたのものとし、あなたの学びが、それを与える。

世界はそれを内包してはいない。

ただこのコースを学びなさい。

そうすれば、それはあなたのものとなる。

神の御言葉をあなたに差し出している。

それは、神が教師たちを必要としているからである。

神の子を救うために、他にどのような道があるだろうか。

マニュアル編 十二.世界を救うためには、何人の神の教師が必要か

身体の目で見ている世界は「夢」。

その大元だけがリアル。

大元の確かさだけが実際にあるだけだ。

 

「夢」を「夢」だと認め、「夢」ということに意識的であればいい。

 

真実に触れると、なにも話せなくなる。

その必要がなかったんだと感じる。

 

私は私を譲った。

身体は神を賛美するために使われる。

確かさだけを見ている。

 

 

・・・

 

十二.世界を救うためには、何人の神の教師が必要か

 

この問いの答えは「ひとり」である。

学びを完了した全一にして完全無欠なひとりの教師だけで充分である。

性別されて救われたひとりが、神の子そのものである自己となる。

常に完全に霊であった彼は、今ではもう自分を肉体と見なすことも、肉体の中に居ると見なすことさえもしない。

それゆえに、彼は無限である。

そして無限であるから、彼の想念は永遠にいつまでも神の想念とつながっている。

彼自身についての彼の知覚は神の審判に基づいており、彼自身の判断に基づいてはいない。

そのようにして彼は神の意志を共有し、未だに惑わされたままの心たちに神の想念を運ぶ。

彼は永遠に一なるものである。

なぜなら、彼は神に創造されたままの彼だからである。

彼はキリストを受け入れたのであり、救われている。

 

こうして、人の子が神の子となる。

これは実際には変化ではない。

心が変わったのである。

外的なものは何一つ変わらない。

しかし、今や、内的なものの一切が神の愛だけを反映している。

心が処罰の原因を見なくなるので、もはや神が恐れられることはあり得ない。

神の教師は大勢いるように見えるが、それはこの世界の必要がそうしたものだからである。

だが、一つの目的、しかも神と共有する一なる目的においてつながっている彼らが、どうして互いから分離していられるだろう。

それならば、彼らが数多くの形で現れるとしても、それが何だというのだろう。

彼らの心はひとつであり、彼らの合一は完全である。

そして神は今や一なる存在としての彼らを通して働く。

それが彼らの本性だからである。

 

なぜ多数という幻想が必要なのだろうか。

その理由は単に、妄想に惑わされている者にとって、実相は理解できるものではないからである。

神の声をわずかでも聞くことのできる者はきわめて少数であり、その彼らでさえ、神からのメッセージを自分に与えた霊を通して、直接それらのメッセージを伝達することはできない。

自らを霊であると悟っていない者たちへのコミュニケーションを可能にするような、媒体が必要になる。

すなわち、彼らにも見ることのできる肉体である。

そして、真理が彼らの中に浮上させることになる恐れを介さずに、彼らが理解し耳を傾けることのできる声である。

恐れずに歓迎される場所にのみ真理は入ってこられるということを、忘れてはならない。

同様に、彼らの一体性はじかに認識されることは不可能なので、神の教師には肉体が必要である。

 

だが、彼らを神の教師とするのは、肉体の正しい目的についての彼らの認識である。

彼らがこの仕事で進歩するにつれて徐々に確信を強めていくのは、肉体の機能とは、神の声が肉体を介して人の耳に語れるようにすることだけだということである。

そしてその耳は聞く者の心へと、この世のものではないメッセージを運び、そのメッセージの源ゆえに、心は理解するだろう。

この理解から、この新任の神の教師の中に、肉体の真の目的とは何かについての認識が生まれる。

それは、肉体にとって真に存在する唯一の用途についての認識である。

このレッスンだけで、一致の想念を招き入れるに充分であり、ひとつであるものがひとつとして認識される。

神の教師たちは分離という幻想を共有しているように見えるが、そうした外観にもかかわらず、彼らが肉体を用いる目的のゆえに、その幻想を信じてはいないことになる。

 

中心となるレッスンは常に次の点にある。

すなわち、肉体は、あなたがそれを何のために使うかという目的に即したものとなる。

肉体を罪のため、また罪と同じものである攻撃のために使うなら、あなたは肉体を罪深いものと見る。

それは罪深いものであるから弱いものであり、弱いものであるから苦しみ、死んでしまう。

神の言葉をもたない者に神の言葉をもたらすために使うなら、肉体は神聖なものとなる。

神聖であるから病気にはなり得ず、死ぬこともあり得ない。

その有用性がなくなったとき、それは横たえられる。

それだけのことである。

心がこの決断をする。

肉体の状態を左右する決断のすべてを行うのが心だからである。

ただし、神の教師はひとりでこの決断をするのではない。

ひとりで決断するなら、肉体を神聖に保つ目的とは別の目的を、肉体に与えることになる。

神の声は、神の教師の機能とは何かを彼に告げるのと同じように、彼がその役割を果たし終えたときも、彼にそのように告げるだろう。

彼は去るにしても、留まるにしても、苦しむことはない。

今や、彼にとって病気は不可能なものである。

 

一体性と病気は共存できない。

神の教師たちは、しばしの間、夢を眺めることを選ぶ。

それは意識的は選択である。

なぜなら、すべての選択が、それがもたらす結果を充分に自覚した上で意識的になされることを、彼らは学んだからである。

夢はそれに反論する。

しかし、夢の正体をひとたび認識したなら、いったい誰が、夢を信に置こうとするだろう。

夢を見ているという自覚こそが、神の教師の真の機能である。

彼らは、夢の中の人影が行き来し、千変万化し、苦しみ、死んでゆくのを見つめる。

だが、彼らは自分が見ているものに騙されない。

夢の中の人影を病んで分離していると見ることも、健康で美しいと見ることも、同じく実在性のないことだと、認識している。

一体性のみが、夢からのものではない。

そしてこれこそが、神の教師たちが夢の背後にあるものとして認識しているものであり、あらゆる外見を超えたものであるが確かに彼らのものだと認めているものである。

マニュアル編 十一. どのようにすれば、この世界で平安が可能となるのか

あらゆるノイズも喧噪も、聖霊は「無音」で応える。

 

「無音」が真実そのもの。

 

「無音」の中で安らいでいる。

 

・・

 

「無音」は怖いものだと思っていたし、何もかもが終わってしまうと思っていたけど、逆だった。

 

逆にいけばいくほど、ゆるぎなさがあった。

 

・・

 

自分が作った借り物の世を、ただそっと置く。

 

指一本ふれない静けさ。

 

この信頼そのものが生命。

 

この平和な輝きの中にいよう。

 

 

・・・

十一. どのようにすれば、この世界で平安が可能となるのか

 

これは誰もが尋ねずにはいられない質問である。

確かに、ここでは平安は不可能に見える。

しかし神の言葉は、それだけでなく他にも不可能に見えるいくつものことを約束している。

神の言葉は平安を約束した。

さらに、死は存在しないこと、復活は必ず起こること、再生は人が受け継いでいる賜物であることも、約束した。

あなたに見えている世界は、神の愛する世界ではあり得ない。

それでも、神の言葉は神が世界を愛していると保証している。

神の言葉は、ここで平安が可能だと約束してきた。

そして神が約束することが不可能であるはずはない。

しかし、神の約束が受け入れられるには、この世界は違った見方で見られる必要があるということも真実である。

世界のあり方は、事実であるにすぎない。

それが何であるべきかを、あなたが選ぶことはできない。

しかし、それをどのように見たいかは選択できる。

実際のところ、あなたはこれを選択しなければならない。

 

ここで再び、判断という問題に突き当たる。

今度は、自分の判断と神の言葉のどちらのほうが真実である可能性が高いかと、自分に尋ねてみなさい。

両者は世界について異なったことを語っており、それらはあまりに正反対であるため和解させようとすることには意味がない。

神は世界に救済を差し出している。

あなたの判断は世界を咎めようとする。

神は死は存在しないと言う。

あなたの判断は、生命の必然的な結末としての死のみを見ている。

神の言葉は神が世界を愛しているとあなたに保証しているが、あなたの判断は、世界は愛しがたいものだと言う。

誰が正しいのだろうか。

両者のうちのどちらかが間違っている。

そうではないはずはない。

 

「テキスト」は、聖霊が、あなたの作り出したあらゆる問題に対する答えであると説明している。

そうした問題は実在するものではないが、このことは、それらを信じている者たちにとっては、無意味である。

そして誰もが自分の作り出したものを信じている。

というのも、それは彼が信じることによって作り出されたものだからである。

この奇妙で逆説的な状況の中に---すなわち意味がなく分別に欠けているが、そこから脱出する道はないかに見えている状況の中に---神はあなたの判断に応えるために、ご自身の審判を送り込んだ。

穏やかに、神の審判があなたの判断に代わるものとなる。

そしてこの代替を通して、理解不可能なものが理解可能となる。

どのようにすれば、この世界の中で平安が可能となるのか。

あなたの判断によればそれは不可能であり、可能となることは絶対あり得ない。

しかし神の審判によれば、ここに反映されているのは平安のみである。

 

争いを眺めている者たちに、平安はあり得ない。

平安を差し出す者たちには、平安は必然である。

それならば、いかに容易に、世界に対するあなたの判断から逃げられることだろう!

世界が平安を不可能に見せているのではない。

あなたの見ている世界のほうこそ、存在不可能なのである。

しかしこの歪んだ世界に対する神の審判が世界を救い、それを平安を迎えるにふさわしいものにした。

そして嬉々としてそれに応えて、平安が降りてくる。

今や、平安はここに属している。

神の想念が入ってきたからである。

神の想念以外の何が、ただそれ自体として存在するだけで、地獄を天国に変えられるだろう。

地はその恩恵あふれる臨在を前にして頭を垂れ、それに応えて神の想念は身をかがめ、再び地を起き上がらせる。

今や質問は変わっている。

もはや、「この世界で平安が可能だろうか」ではなくなり、「ここでは、平安の不在は不可能ではなかろうか」となる。

マニュアル編 十. 判断は、どのようにして放棄されるのか

「判断」を喜んで手放したい。

 

だって、こんなに楽なんだもん。

 

これ以上、どんな状態を望むというのだろう。

 

今、だけが真新しく差し出されている。

 

その新鮮さに触れ続けること以外、望む理由はどこにもない。

 

「わからなさ」のまんま。

 

被造物の喜びを讃えたい。

 

今、という事実の真新しさの只中だけがある。

 

 

 

・・・

幻想から成る世界を維持している他の仕組みと同様に、判断というものも、世界によって全面的に誤解されている。

それは実際に叡智と混同され、真理の代替とされている。

世界によるこの言葉の用い方によれば、ひとりの個人が「良い」判断と、「悪い」判断をすることができ、彼の教育は前者を強化し、後者を最小限にすることを目指している。

しかし、これらの分類が何を意味するかについては、かなりの混乱が見られる。

ある者にとっての「良い」判断が、別の者には「悪い」判断であることもある。

さらには、同じ者でさえ、同じ行動を「良い」判断として分類するときもあれば、「悪い」判断として分類するときもある。

また、こうした分類の内容を決めるための首尾一貫した基準といったものも、実際に教えることはできない。

いつでも生徒は、自称「教師」がそれらについて述べることに対して異議を唱えることがあり得る上に、その教師自身が、自分の信じていることについて一貫していないこともある。

こうした観点からは、「良い」判断という言葉には何の意味もない。

「悪い」判断という言葉も同様である。

 

自分は判断すべきではないというよりも、自分に判断などできないということに、神の教師は気づく必要がある。

判断を手放すにあたり、彼は単に、もとより自分がもっていなかったものを手放すにすぎない。

彼は幻想を手放すのである。

あるいはむしろ、手放すという幻想を抱くと言ったほうがよい。

実際には、彼は以前より正直になっただけのことである。

判断することは自分にとって常に不可能であったと認識し、もはやそれを試みようとはしない。

これは犠牲ではない。

それどころか、彼は自分によるのではなく自分を通して判断が為されることが可能になるという立場に、自分自身を置くことになる。

そして、この判断は「良く」もなければ「悪く」もない。

それは存在する唯一の判断であり、「神の子は無罪であり、罪は存在しない」というただ一つの審判である。

 

この世界の学習のゴールとは異なり、私たちのカリキュラムの目標は、普通の意味での判断というものは不可能だと認識することにある。

これは見解ではなく、事実である。

何についてであれ正しく判断するためには、人は、想像もつかないほど広範にわたる過去・現在・未来のものごとについて、充分に意識していなければならない。

それらのものごとに何らかの関わりがあるすべての人々や一切のものに対し、自分が下す判断がどのような影響を及ぼすことになるか、そのすべてをあらかじめ認識していなければならない。

さらには、自分の判断が現在や未来において影響を及ぼすすべての人々にとってまったく公平なものとなるように、自分の知覚に少しの歪みもないという確信がなければならない。

いったい誰が、こうしたことのできる立場にいるだろうか。

尊大な空想を抱いている者以外の誰が、自分にこれができると主張するだろうか。

 

あなたは今までに、自分が判断に必要な「事実」を全部知っていると思ったことが何度あったか、そしてそのあなたがいかに間違っていたか、思い出してみなさい!

このような経験をしたことのない者がいるだろうか。

自分が間違っているとは少しも気づくことなく、ただ正しいと思い込んでいたことが、これまで何度あったか、あなたは知っているだろうか。

なぜあなたは、決断するためにそのように独断的な根拠を選ぼうとするのだろう。

叡智とは判断することではない。

それは判断を放棄することである。

それならば、もう一度だけ判断を下しなさい。

それは次のような判断である。

完璧な判断ができる存在があなたと共に居る。

その存在は、過去、現在、未来にわたる事実のすべてを知っている。

自らの審判が、それに何らかの関わりがあるあらゆる人々や一切のものごとにどのように影響するか、そのすべてを知っている。

そしてこの存在の知覚には歪みがないので、誰に対してもまったく公平である。

 

それゆえに、惜しむことなく、感謝の吐息と共に、判断を手放しなさい。

かってあまりの重さゆえによろめいてその下敷きになったほどの重荷から、今やあなたは解放される。

そしてそれはすべて幻想だった。

ただそれだけのことである。

今、神の教師は重荷を背負わず、身軽になって歩んでいける。

しかし彼が受ける恩恵はそれだけではない。

気がかりという感覚がなくなっている。

彼には気がかり自体がなくなったからである。

彼はそれを判断と一緒に手放してしまった。

彼は、今や自分の判断の代わりに聖霊の審判を信頼することを選択しており、聖霊に自分自身を委ねた。

彼はもはや間違わない。

彼の導き手は確実である。

そしてかって判断を下すために来たところに、彼は祝福するために来る。

今彼が笑っている場所は、かっては嘆き悲しむために来ていた場所である。

 

判断を放棄することは難しいことではない。

しかし、それを保持しておこうとすることは、まさしく難しいことである。

神の教師はその代価を認識した瞬間、喜んで判断を捨て去る。

彼が自分の周囲に見ている醜さはすべて、判断から生じたものである。

彼が目にしている苦痛はどれもみな、それがもたらしたものである。

すべての孤独や喪失感、過ぎゆく時間や募りゆく失望、蝕むような絶望や死の恐怖、こうしたすべてが、判断から生じたのである。

今では、彼はこれらのことがこのようである必要はないと知っている。

そのうちの一つも真実ではない。

それは、彼がそれらの原因を手放したからである。

そして、彼の間違った選択の結果でしかなかったそれらのものは、彼から剥がれ落ちて消え去った。

神の教師よ、この一歩はあなたに平安をもたらす。

これだけを望むのは難しいことだろうか。

マニュアル編 九. 神の教師は生活環境を変える必要があるか

私が今ここにいる理由を、自分で判断するのをやめ、ゆだねていくほどに、より一層、至福を感じている。

 

コップもテーブルも、

庭も石ころも、

夫も隣人のご婦人も、

 

全部、私。

 

すべてがひとつらなりだった。

 

今、まだ肉体の目が映す間は、それをさまざまな色合いで認識していても、「心」においては、ただただ全体そのもの。

 

その塊に感じられるものの奥にある光。

 

その神の光のシャワーを浴び続け、共鳴が響き合う。

 

・・・

九. 神の教師は生活環境を変える必要があるか

 

変化が要求されるのは神の教師たちの心においてである。

これには、外的な環境が伴うことも伴わないこともある。

人はみな自分が今居る場所に偶然居るのではなく、神の計画に偶然の果たす役割はないということを、思い出しなさい。

新任の神の教師の訓練において、心構えを変化させることがその第一歩ではないという場合は、非常に少ない。

しかし、一定の型があるわけではない。

訓練は常に、個々人に即したものだからである。

中には、すぐにも生活環境を変えるよう促される者もあるが、概してそれは特別なケースである。

大多数の者には、ゆっくりと展開していく訓練プログラムが与えられており、その中で、できる限り多くの以前の間違いが訂正されていく。

とりわけ対人関係が正しく知覚されねばならず、赦そうとしない気持ちという闇の隅石のすべてが取り除かれなければならない。

さもなければ、古い思考体系が戻ってくる基盤が依然として残ることになる。

 

訓練が進むにつれ、神の教師は一なるレッスンをいっそう徹底して学んでいく。

彼は自分だけで決断はしない。

教師に答えを求め、それを自分の行動の指針とする。

これは、神の教師が自分自身の判断を手放すことを学ぶにつれ、次第に容易になっていく。

判断を手放すことは神の声を聞くための明らかな必要条件であるが、通常、それはかなり緩慢としたプロセスである。

その理由は、判断を手放すこと自体が難しいからではなく、それが自分にとって屈辱のように知覚されがちだからである。

この世界の訓練は、私たちのカリキュラムとは正反対のゴールを達成することに向けられている。

この世界は、成熟度と強さの尺度として、各人の判断を頼りにするように訓練する。

私たちのカリキュラムは、救済の必要条件として、判断を放棄するよう訓練する。

マニュアル編 八.どうすれば難しさの序列を知覚することを避けられるか

何の問題もない、ということに、自我は動揺し、抵抗する。

何かしら反応しないと間が持たない。

でも、この「間」こそが空の入り口。

「間」に佇む。

 

ほっこりとし、しっとりとし、究極の甘美さにゆだねる。

 

・・・

難しさに序列があるという信念が、この世界の知覚の基盤である。

それはさまざまな差異に基づいている。

たとえば、不均一な背景や移り変わる前景、高低の差や大小さまざまなサイズ、多様な明暗の度合いなどである。

そしてまた、無数のコントラストの中で、目にとまる一つひとつのものが認識されようと競い合っている。

大きな物体は小さな物体を見劣りさせる。

鮮やかなものは、他のあまり魅力のないものから注意を奪う。

そして、より脅威的な概念や、世界の基準によればより望ましいとされる概念は、精神的な均衡を完全に乱してしまう。

肉体の目が見るものは葛藤ばかりである。

それらのものに平安と理解を期待してはならない。

 

幻想とは常に、差異の幻想である。

それ以外の何であり得るだろう。

幻想とは、その定義からいっても、非常に重要だと見なされているが真実ではないと認識されている何かを、実在させようとする試みである。

したがって、心はその何かを自分のものにしたいという欲求の激しさのあまり、それを真実にしようとする。

幻想は創造の真似事であり、嘘偽りに真理を持ち込もうとする試みである。

真理を受け入れ難いものと見た心が真理に反旗を翻し、勝利の幻想を自分に与えるのである。

健康を重荷と見て、心は熱に浮かされた夢の中へと引きこもる。

そしてこれらの夢の中では、心は分離しており、他の心たちとは異なり、独自の利害をもち、他者を犠牲にした上で自分の必要を満たすことができる。

 

こうした差異のすべては、どこから生じるのだろうか。

確かに、それらは外側の世界にあるように見える。

しかし、目が見ているものを判断するのは、もちろん心である。

目が伝える数々のメッセージを解釈し、それらに「意味」を与えるのは心である。

そしてこの意味は、外側の世界にはまったく存在しない。

「実在するもの」と見なされているのは、単に心が好んでいるものにすぎない。

心が定めた価値の順位が外側に投影され、心は肉体の目にそうした順位を見つけにいかせる。

肉体の目は、差異を通さなければ、決して、見るということをしない。

しかし、知覚の土台となるのは、それらの目がもち帰るメッセージではない。

心だけがそれらのメッセージを評価するので、見ることに責任があるのは心だけである。

心だけが、見えているものが実在するのか幻想なのか、望ましいのか望ましくないのか、楽しいことか辛いことかを決めるのである。

 

選別や分類という心の活動の中に、知覚における誤りが入り込む。

そして訂正が必要なのは、ここにおいてである。

心は肉体の目が運んできたものを、あらかじめ抱いていた価値観にしたがって分類し、それぞれがもたらす感覚的データがどこに最もよくあてはまるかを判断する。

これ以上に欠陥だらけの基準があるだろうか。

自らを認識していない心が、これらの分類に適合するものが与えられるようにと、自ら求めたのである。

そうしておいて、心はそれらの分類が真実に違いないと結論する。

あらゆる差異に関する判断が、この結論に基づいている。

なぜなら、世界の判断がこの結論に依存しているからである。

このように混乱した無分別な「論法」を、何のためであれ、当てにすることができるだろうか。

 

癒しに難しさの序列はあり得ないが、その理由は単に、すべての病気が幻想だからである。

狂人の信じる幻覚は、大きなもののほうが小さいものより一掃しにくいだろうか。

彼は、聞こえてくる声が小さいときより大きいときのほうが、それが実在しないことを速やかに認めるだろうか。

殺せという要求は、囁かれるときのほうが叫び声として聞こえるときよりも、彼にとって無視するのが容易だろうか。

また、彼に見える悪魔がもつ三叉の槍の数が、彼の知覚の中で悪魔の信憑性を左右するだろうか。

彼の心がそれらすべてを実在するものと分類したので、彼にとってはすべて実在している。

彼がそのすべてが幻想だと悟るとき、それらは消え去る。

そして癒しも同様である。

幻想をさまざまに異なるものに見せている幻想の属性は、実のところ、問題にならない。

そうした数々の属性も幻想そのものと同じく、幻にすぎないからである。

 

肉体の目は差異を見続けるだろう。

しかし、自らに癒しを受け入れた心は、もはやそれらを認知しなくなる。

その後も他の者よりも「病んでいる」ように見える者たちはいることだろう。

そして、肉体の目は、以前と変わりなく彼らの外観の変化を報告するだろう。

しかし、癒された心はそれらの外観をすべて同じ範疇に分類する。

すなわち、それらは実在していないという範疇である。

これは教師からの贈り物であり、外側の世界のごとく見えるものから心が受け取るメッセージを選別するにあたっては、二つの範疇のみに意味があるという理解である。

そしてその二つのうち、一つだけが真実である。

実相の中に差異は存在し得ないので、実相は、大きさや形や時間や場所と関わりなく、全的に実在している。

同様に、幻想同士の間にも区別はない。

あらゆる種類の病気に対する一なる答えが癒しである。

すべての幻想に対する一なる答えが真理である。

 

マニュアル編 七.癒しは繰り返し行われるべきか

「心配」し続けないと「愛」しているという証明にならない、という恐れがなかなか消えなかった。

 

なので、本来なら、「愛」にくつろぎ、ただ祝福の中にいればいいだけなのに、気がかりなことを捏造して、それに取り組もうとしてしまったりしようとする。

 

だけど、それに対しても抵抗が出てきていて、それこそ、またそのどっちつかずの葛藤に居座ろうとしていた。

 

だけど、それはただの「分離」の強力な信念でしかない。

 

「心配」は攻撃でしかない。

 

「心配」は個人という構造があり得るという卑小な信念でしかない。

 

もう、この葛藤の中に居座りたいとは思わない。

 

「心配」は必要ない。

 

この安らかで透明な至福はすべてに行き渡っている。

 

「賛美」しよう!

 

・・・

七.癒しは繰り返し行われるべきか

 

この質問の答えは、実のところ、自明である。

癒しを繰り返すことはできない。

患者が癒されているのなら、癒されるべき何が残っているというのだろう。

そして、すでに述べた通りに癒しが確実であるなら、繰り返せる何があるというのだろ

う。

癒しがもたらすものについて神の教師が心配し続けるということは、癒しを制限することである。

そうなると、癒される必要があるのは、神の教師自身の心ということになる。

そして彼が促進しなければならないのはこの癒しである。

今や彼が患者であり、自分自身をそのように見なさなければならない。

彼は間違いを犯したのだから、それについて自分の心を変えようとする意欲をもたなければならない。

真に与えることを可能にする信頼が彼に欠けていたので、彼はまだ自分の贈り物からの恩恵を受け取ってはいない。

 

神の教師が癒しの経路になろうとしたときにはいるでも、彼はそれに成功してきた。

このことを疑ってみたい誘惑にかられても、彼は以前と同じ努力を繰り返すべきではない。

それはすでに最大限のものであった。

なぜなら、聖霊はそれをそのように受け入れて、そのように使ったからである。

今や、神の教師が進むべき道は一つしかない。

自分の理性を使って、「失敗するはずのない存在に、すでに問題を預けてある」と、自分自身に言い聞かせなければならない。

そして、自分の不確かさは愛ではなく恐れであり、したがってそれは憎しみだということを認識しなければならない。

こうして彼の不確かさは維持できないものとなる。

それは、自分が愛を差し出した相手に憎しみを差し出していることになるからである。

これは不可能なことである。

愛を差し出したからには、愛しか受け取ることができない。

 

神の教師が信頼しなければならないのは、このことである。

これこそが、「奇跡を行う者にとっての唯一の責任は、ただ自分自身のために贖罪を受け入れることだけである」という言葉が真に意味していることである。

神の教師は、自分の受け取った贈り物を与えるからこそ、奇跡を行う者なのである。

だが、まず先に自分がそれらを受け入れなければならない。

それ以上のことをする必要はなく、またそれ以上のことはできない。

癒しを受け入れることにより、それを与えることができる。

もし彼がこのことを疑うなら、誰がその贈り物を与え、誰がそれを受け取ったのかを、彼に思い出させなければならない。

こうして彼の疑念は訂正される。

彼は神からの贈り物が取り下げられることがあり得ると思った。

それは間違いだったが、そのような間違いと共にとどまる必要はない。

したがって、神の教師にできることは、ただそれをありのままに認識し、自分のために訂正してもらうことだけである。

 

認識することが最も難しい誘惑の一つは、症状が継続しているように見えるという理由で癒しを疑いたくなることであり、それは信頼の欠如という形の誤謬である。

それゆえにそれは攻撃である。

普通はその正反対のように見える。

案じ続けることが攻撃だと言われたなら、はじめは確かに理不尽なことのように思えるはずである。

それはどこから見ても愛のように見える。

しかし信頼のない愛は不可能であり、疑念と信頼は共存できない。

そして憎しみは、いかなる形を纏っていようとも、愛とは正反対のものに違いない。

贈り物を疑わずにいなさい。

そうすれば、それがもたらすものを疑うことも不可能である。

この確信が、神の教師たちに奇跡を行う者となる力を与える。

なぜなら、彼らは神に信頼を置いたからである。

 

解決のために神の教師に与えられた何らかの問題の結果について疑いがあるとしたら、その真の根拠は、常に自己不信である。

そしてそれは必ず、幻想の自己に信頼を置いてしまっていることを示唆する。

そのような自己のみが疑いの対象となり得るからである。

この幻想は多くの形を取る。

そこには弱さと傷つやすさに対する恐れがあるかもしれない。

力不足の感覚に伴う失敗や恥を恐れる気持ちがあるかもしれない。

あるいは、偽りの謙遜から生じる後ろめたい決まり悪さかもしれない。

間違いの形は重要ではない。

重要なことは、ただ間違いを間違いと認識することだけである。

 

この間違いとは常に、患者を除外して自分だけについて案じるという懸念の何らかの形である。

これは、彼を自己の一部と認識することができていないということであり、したがって、アイデンティティーにおける混乱を表している。

あなたの本性についての葛藤が心に入り込み、あなたは自分自身について欺かれてしまった。

そしてあなたが自分自身について欺かれている理由は、あなたが自分を創造した源を否定したからである。

もしあなたが癒しだけを差し出しているのなら、疑うことはできない。

もしあなたが真に問題の解決を望むなら、疑うことはできない。

もし問題は何なのかについて確信があったなら、疑うことはできない。

疑念とは、葛藤する複数の願望によりもたらされるものである。

自分が何を望んでいるかをはっきりさせなさい。

そうすれば疑念は不可能となる。