【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 二十.神の平安とは

今、マニュアルだけに集中できていて、深く心に浸みていきます。

 

これまでの「気を取られていた」状態とは、「今」以外のどこかに意識が向いているわけで、それはどうしてか?というと、ここ以外のどこかの方が重要だ、価値がある、と思い込んでいるから。

 

未来や過去に期待をしてる。

 

でも、それが思考の仕業。

 

相変わらず思考してても、その思考に取り合わずに、静けさに飛び込む。

 

「とぽん」。

 

おぉ。

 

なにもかもが完全。

 

・・

 

「死」は思考が作った。

本当にそうだ。

 

生命以外になにもない。

 

 

・・・

二十.神の平安とは

 

この世のものではない平安があると言われてきた。

それはどのようにして認識されるのだろうか。

どのようにして見つかるのだろうか。

そして見つかったなら、どうすればそれを維持できるのだろうか。

これらの質問はそれぞれ、この道における別々の段階を反映しているので、一つずつ考えてみよう。

 

まず最初に、どうすれば神の平安を認識できるのだろうか。

神の平安は、まず、一つのことによって認識される。

それは、それがこれまでのすべての体験とはあらゆる点においてまったく違っている、ということである。

それ以前に起こったことは何一つ、心に喚起されることがない。

過去からの連想はまったく伴わない。

それはまったく新しいものである。

もちろん、このことと過去のすべてのこととの間に対照性はある。

しかし、奇妙にも、それは真の相違による対照性ではない。

過去はただ消え去り、その代わりに、永遠の静けさがある。

それだけである。

最初に知覚された対照性はただ過ぎ去った。

静けさが広がり、すべてを包み込んでいる。

 

この静けさはどうすれば見つかるだろう。

その条件を探し求める者なら、誰でも必ず見つけることができる。

怒りのあるところに神の平安は決して訪れない。

なぜなら、怒りは、平安が存在するということを否定せざるを得ないからである。

いかなる形や状況においてであれ怒りを正当化できるものと見なす者は、平安は無意味だと宣言しており、平安は存在し得ないと信じている。

この状態では平安は見つからない。

それゆえに、赦しこそが、神の平安を見つけるための必要条件なのである。

それだけではなく、赦しがあれば、そこには必ず平安もある。

攻撃以外の何が、争いの対極だろう。

ここに、最初の対照性が、明確に、際立って見えている。

だが、平安が見出されたときには、争いは無意味である。

そしてそのときには、葛藤のほうが、存在しない非実在のものと知覚される。

 

ひとたび神の平安が見出されたなら、それはどのようにして保持されるのだろうか。

いかなる形においてであれ戻ってくる怒りは、再び重たい垂れ幕を下ろすことになる。

そして、平安など存在し得ないという信念が確実に戻ってくる。

再び、争いが唯一の現実として受け入れられてしまう。

このときあなたは、もう一度、剣を置く必要があるのだが、自分ではそれをまた手に取っていることに気づいていない。

しかし、それを持っていなかったときにはどのような幸せが自分のものであったか、そのことをかすかにでも思い出すにつれ、自分を防衛するためにまた剣を手にしたに違いないとわかるようになってくる。

そこでしばらく静かにして、次のことを考えてみなさい。

自分が望むのは葛藤だろうか、それとも神の平安のほうがよりよい選択肢だろうか。

どちらのほうが自分により多くを与えるだろうか、と。

静かな心は、小さな贈り物ではない。

あなたは死を選ぶより、むしろ生きることを望むのではないだろうか。

 

生きることは喜びであるが、死はただ涙を流すのみである。

あなたは、自分が作り出したものからの逃げ道を、死の中に見ている。

しかし、あなたが見ていないことがある。

それは、自分自身が死を作り出したということ、そして、死は終焉の幻想にすぎないということである。

死が逃げ道であるはずがない。

生命の中に問題が存在しているわけではないからである。

生命に対極はない。

それは神のものだからである。

生と死は相反するもののように見えるが、その理由は、あなた自身が、死が生命を終わらせると決めたからである。

世界を赦しさえすれば、あなたは、神が創造した一切に終わりはなく、神が創造しなかったものは実在しないということを理解するだろう。

この一文の中に、このコースが要約されている。

この一文の中に、私たちの練習が進むべき唯一の方向が示されている。

そしてこの一文の中に、聖霊のカリキュラム全体が、まさにありのままに明示されている。

 

神の平安とは何だろう。

それは、神の意志にはまったく対極がないという単純な理解であり、それ以上のものではない。

神の意志と矛盾していながら、それでも真実である想念というものはない。

神の意志とあなたの意志との間の相違は、実在するものであるかに見えているだけである。

真理においては、葛藤など存在していなかった。

なぜなら、神の意志はあなたの意志でもあるからである。

今や、神ご自身の強力な意志が、神からあなたへの贈り物である。

神はそれをご自身のためだけにとっておこうとはしない。

なぜあなたは、自分の微小で儚い想像の産物を、神から離しておこうとするのだろうか。

神の意志はひとつであり、存在するすべてである。

それはあなたが受け継いでいる賜物である。

太陽や星々を超え、あなたが思い浮かべることのできるすべての想念をも超える全宇宙が、あなたに属している。

神の平安が神の意志のための条件である。

神の平安に達成しなさい。

そうすれば、あなたは神を思い出すだろう。

マニュアル編 十九. 正義とは何か

ここで述べられる「正義」は、物質世界で言われている「正義」とは逆。

 

見るところを正すという意味での「正義」のこと。

 

今まで見ている世界がただ間違っている。

 

間違っているところをみて間違っているとずっと叫んでいる。

 

だから、それはそれで、間違っていない。

 

わたしたちはずっと間違いを作り出している世界を嘆いている。

 

これ以上の罰はない。

 

そして罪を信じているからこそ、見続けている。

 

永遠に解決不可能な世界に自らとどまっている。

 

そして、この間違ったところ自体から目を離しなさいと促しているのがコースの「正義」なのだ。

 

「もうそこから目を離していいよ」

 

「目を離したからといって、何にも怖いことは起こらないよ」

 

「逆に、安らぎ、喜びに満ち溢れるよ」と。

 

コースの正義は裁かない。

 

コースの正義は慈悲、慈愛そのもの。

・・・

十九. 正義とは何か

 

正義とは、不正義に対する神による訂正である。

不正義が、世界のすべての裁きの根拠である。

正義は、不正義が引き起こす解釈を訂正し、相殺する。

天国には正義も不正義も存在しない。

誤りは起こり得ず、訂正は無意味だからである。

しかし、この世界では、赦しは正義に依拠している。

すべての攻撃は不正でしかあり得ないからである。

正義とは、聖霊が世界に下す判決のことである。

聖霊の審判によらなければ、正義は不可能である。

なぜなら、この世界には、公平な解釈だけをして、すべての不正義を退けることのできる者はいないからである。

神の子が公平に審判されていれば、救済の必要はないはずである。

分離の想念など、永遠に、思いもよらないものだっただろう。

 

正義も、その対極と同様に、一つの解釈ではある。

しかしそれは、真理に至る唯一の解釈である。

これが可能となる理由は、正義はそれ自体では真実ではないとはいえ、真理に対立するものを何一つ含んでいないからである。

正義と真理の間には何ら本質的な葛藤はなく、一方は他方へ向かう最初の小さな一歩にすぎない。

進んでいくにつれ、この道はかなり違ったものとなっていく。

また、旅を続けるにつれて目前に現れてくる壮大さや、雄大な景観や、広々と開けていく眺望のすべてについて、あらかじめ知ることはできない。

だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みまで達するとはいえ、そうしたものでさえ、この道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない。

しかし、人はどこからか出発しなければならない。

正義がその始まりである。

 

あなたの兄弟やあなた自身についてのあらゆる概念や、未来の状態に対する過去に関する懸念のすべては、不正義から生じる。

これは肉体の目の前に掲げられて、知覚を歪めているレンズであり、これが、そのレンズを作り出して大切にしている心へと、歪んだ世界の証しをもち帰る。

世界の概念はどれもみな、まさにこの方法で、選択的かつ独断的に構築されている。

「罪」は、入念な選択により知覚され、正当化され、その選択性の中では、全一性に関するすべての想念が失われている。

そのような計略の中には、赦しの居場所はない。

どの「罪」も永遠に真実であるかに見えるからである。

 

救済とは神の正義である。

それは、決裂して分離したものとして知覚されている無数の断片の本来の全一性を、あなたが再び自覚できるようにする。

これが、死に対する恐れを克服する。

なぜなら、分離した断片は朽ちて死ぬ以外にないが、全一性は不滅だからである。

それは創造主とひとつであるから、いつまでも永遠に、創造主と同質であり続ける。

神の審判が、神の正義である。

このまったく咎めのない審判の上に、そして、完全に愛だけに基づく評価の上に、あなたは自分の不正義を投影した。

そして、自分が見るときに使っている歪曲された知覚のレンズを、神にも付与した。

そうして今や、不正義は神に属し、あなたには属していないことになる。

あなたは神を恐れており、自分が自らを敵として憎み恐れているということが見えなくなっている。

 

神の正義のために祈りなさい。

そして、神の慈悲をあなた自身の狂気と混同してはならない。

知覚は、心が見たいと望むどのような映像でも描き出すことができる。

このことを覚えておきなさい。

この中に、あなたの選ぶままに、天国か地獄かのどちらかがある。

神の正義は、まったく偽りなく公平であるからこそ、天国を指し示す。

それは、自らの前に差し出されるすべての証拠を受け入れ、何も除外せず、何も他のすべてから隔離されて切り離されたものと見なすことはない。

それは、ただこの一なる見地から、そしてそれのみから、審判を下す。

ここでは、すべての攻撃と咎めが無意味となり、弁護の余地なきものとなる。

知覚は停止し、心は静まり、光が再び戻ってくる。

今や、心眼が回復する。

失われていたものが、今、見つかった。

神の平安が全世界に天下り、私たちは見ることができる。

見ることができるのである!

マニュアル編 十八.訂正はどのようにして行われるか

「外」に違いをみて、それに不満を感じて、裁きたくなったときは、間違っている。

けど、ずっと裁く人生だった。

 

もうへとへとだ。

 

それに、だからといって、もう責めることはない。

素直に静けさに入っていくだけ。

 

今はとにかく、静かにいたい。

いっぱい愛に抱きしめられよう。

迷子になっていた分、幻想の時間をたっぷり余すことなく使って、ゴロゴロと甘えよう。

・・・

十八.訂正はどのようにして行われるか

 

神の教師が解釈を事実と混同したり、幻想を真理と混同したりすることがなくなるまでは、永続する訂正が行われることはない。

そして、永続する訂正のみが、真の訂正である。

もし彼が何らかの魔術的な考えについて自分の生徒と論争し、それを攻撃し、それが誤りであることを立証しようとしたり、その誤謬性を論証しようとしたりするなら、彼はそうした考えが実在していると証言しているにすぎない。

そうなると、憂鬱は避けられなくなる。

なぜなら、彼は自分の生徒と自分自身に対して、実在するものから逃れることが自分たちの任務だと「証明」したことになるからである。

そしてそのようなことをするのは不可能である。

実相は不変である。

魔術的想念は単なる幻想である。

そうでなければ、救済もまた、昔ながらの不可能な夢が形を変えただけのものにすぎないということになる。

だが、救済の夢には新しい内容がある。

異なっているのは、形のみではない。

 

神の教師にとっての主要なレッスンは、魔術的想念に対しまったく怒りを抱かずに反応する方法を学ぶことである。

それを学ぶことによってのみ、彼らは自分自身についての真理を宣言することができる。

今や、彼らを通して、聖霊が神の子の実相について語ることができるようになる。

こうして、聖霊は世界に無罪性を思い出させることができる。

無罪性とは、神が創造したすべてのものの状態であり、唯一の不変にして変更不可能な状態である。

今や、聖霊は聞こうとする耳に神の言葉を語り、見える目にキリストの心眼をもたらすことができるようになる。

今や、聖霊は、すべての心たちに心とはいかなるものであるかという真理を教えられるようになり、それによってすべての心たちは、喜び勇んで神のもとへと戻っていく。

そうして今や罪悪は、キリストの視覚と神の言葉において完全に看過されて、赦される。

 

怒りは、ただ「罪悪は実在する!」と金切り声をあげる。

この狂った信念が神の言葉の代わりとして受け入れられるとき、実相は抹消されてしまう。

今や、肉体の目が「見る」ことができ、肉体の耳だけが「聞く」ことができるということになる。

そのわずかな空間とかすかな息づかいが、実在性の尺度となる。

そして真理は矮小で無意味なものとなる。

これらすべてと、それに立脚している世界に対し、訂正はただ次のような一つの答えを差し出す。

 

あなたは解釈を真理と取り違えているだけである。

そしてあなたは間違っている。

しかし間違いは罪ではなく、あなたの間違いによって実相はその玉座を奪われてはいない。

神は永遠に君臨し、神の法則だけが、あなたとこの世界を支配している。

神の愛のみが、存在する唯一のものであり続ける。

怖れは幻想である。

あなたは神と同質のものだからである。

 

したがって、癒すためには、神の教師が自らの間違いをすべて訂正してもらうことが不可欠となる。

彼が誰かに応答する際に、たとえかすかにでもいらだちを感知してたなら、その瞬間ただちに、自分が真実ではない解釈をしたと彼に認識させなければならない。

その後、彼を内なる永遠の導き手に向かわせ、どう返答すべきかをその導き手に判断してもらわなければならない。

そのようにして彼は癒され、彼の癒しにおいて、彼の生徒も彼と共に癒される。

彼の教師の唯一の責任は、贖罪を自分に受け入れることだけである。

贖罪とは訂正であり、誤りを取り消すという意味である。

これが達成されたとき、神の教師は、奇跡を行う者になったと定義される。

彼の罪は赦されており、彼はもはや自分自身を咎めることはしない。

そのとき、彼に誰かを咎めることなどできるだろうか。

そして、彼による赦しが癒すことのできないような誰かがいるだろうか。

マニュアル編 十七.神の教師は、魔術的想念にどのように対処すべきか

「魔術的想念」は、この世界をリアルだと思って、この世界の中での人や物事を動かすことに力を使うこと。

 

でも、だからといって、「魔術的想念」を信じている人を、裁いて、否定したり、咎めたりすることは、「魔術」の世界がリアルだとでっちあげられることになる。

 

「魔術的想念」にとどまっている人を「助けたい」という気持ちがあるとき、わたしはまだこの世界になんらかの期待がある。

 

だけど、この世界に「助けなければならない人」などいない。

 

みな、すでに救われている。

 

そして、その本人がそのことに気づくだけ。

 

そのとき、一緒に笑い合えばいい。

 

「早く一緒に笑い合いたい」と焦っていたとき、わたしはこの世界にまだ期待していたのだ。

 

待つ必要はない。

 

期待も必要ない。

 

待ったり、期待したり、苛立ったりしているときは、すでに成就していた愛を認めていないことに気づく機会。

 

それを兄弟が教えてくれている。

 

そう気づくと、ありがたさだけがある。

 

自由がある。

 

永遠の慈しみに満ちる。

 

「魔術的想念」と出会っても、リラックスと祝福だけでいい。

 

これが正真正銘の素直な反応。

 

この素直さの中にとどまりたい。

 

どちらにしても、わたしたち、愛の中にいる。

 

この愛から逃げることは不可能。

 

そういう意味で、自我は絶望的なのだ。

 

どんな魔術の深い夢を見ていようと、それには何の力もない。

 

リラックスし、笑い合い、祝福であることにためらわないことを止めないでいたい。

 

今、愛の中で満たされてる。

 

このそのものの賛美と共にいる。

 

 

・・・

十七.神の教師は、魔術的想念にどのように対処すべきか

 

これは教師と生徒にとって、要となる質問である。

もしこの問題が誤って扱われているなら、神の教師は自分自身を傷つけ、自分の生徒も攻撃したことになる。

これは恐れを強め、双方にとって魔術を非常に実在性のあるものに見せる。

それゆえに、魔術にどのように対処するかが、神の教師が習得すべき主要なレッスンとなる。

ここにおける彼の最初の責任は、それを攻撃しないことである。

もし一つの魔術的な考えが何らかの形の怒りを喚起するとしたら、神の教師は罪を信じる自分の信念を強めてしまい、自分自身に有罪宣告したと思って間違いない。

また彼は、憂鬱、苦痛、恐れ、災厄が自分のもとに訪れることを自分で求めたということも、確信してよい。

それならば、彼が教えたいのはこのようなことではないと、彼に思い出させよう。

なぜなら、彼が学びたいことはこのようなことではないからである。

 

けれども、魔術を強化するような形で魔術に応答したくなる誘惑というものはある。

しかも、これは必ずしも常にそれとわかるようなものではない。

実はそれは、助けたいという願望の背後に容易に隠されてしまうことがある。

この二重の願望が、その助けをほとんど価値のないものとし、望ましくない結果へと導かずにはいない。

さらに忘れてならないのは、もたらされる結果は常に教師と生徒の両方に訪れるということである。

あなたが与えるものは自分自身に与えているにすぎないと、何度強調されてきたことだろう。

このことは、神の教師が自分の援助を必要としている者たちに差し出す助けの種類において、何よりもよく示されるのではないだろうか。

ここにおいて、彼への贈り物が最もはっきりと彼に与えられる。

なぜなら、彼は自分自身のために選んだものだけを与えることになるからである。

そしてこの贈り物の中に、聖なる神の子についての彼自身による審判がある。

 

誤りを訂正するには、それが一番よく目につくところで行うのが最も容易である。

そして、誤りというものは、それがもたらす結果によって認識できる。

真に教えられたレッスンは、一つの意図を共有した教師と生徒を、ただ解放に導くだけである。

攻撃が入りこめるのは、別々のゴールについての知覚が侵入したときだけである。

そして、結果が喜び以外のものであるなら、確かにそれが侵入したに違いない。

教師がもつ単一の目標が、生徒の分割されたゴールを一つの方向に向かわせ、助けを求める叫びかけが生徒の唯一の懇願となる。

そうなれば、その懇願にはただ一つの答えで容易に応答することができるようになり、この答えが教師の心に確実に入ってくる。

そこから、それが生徒の心を照らし、彼の心を教師の心とひとつにする。

 

誰も事実に対して怒ることはできないと憶えておくことが、おそらく役に立つだろう。

否定的な感情を引き起こすのは常に、解釈である。

たとえ、事実のごとく見える何かがそうした感情を正当化しているように見えていても、それとは無関係である。

また、喚起されている怒りがどのくらい激しいかということとも、無関係である。

その怒りは、はっきりと認識することすらできないような単なる軽いいらだちかもしれない。

あるいはまた、激しい激怒の形をとり、それに従って暴力の考えが空想されたり、目に見えるように行動に移されたりするかもしれない。

そうしたことは問題にならない。

これらの反応はすべて同じものである。

それらはみな真理を覆い隠すのであり、このことは決して程度の差の問題とはなり得ない。

真理は明白であるか、そうでないか、どちらか一方でしかない。

それが部分的に認識されることはあり得ない。

真理を自覚していない者は、幻想を見る以外にない。

 

知覚された魔術的想念に対する反応としての怒りが、恐れの根本的原因である。

この反応が何を意味するかよく考えてみなさい。

そうすれば、この世界の思考体系においてそれが中心的な位置を占めていることが明らかになる。

魔術的な考えは、それが一つでも存在しているだけで、神からの分離を認めていることになる。

それが最も明らかな形で述べられていることは、自分が神の意志に反抗できる分離した意志をもっていると信じる心は、自分はそれをうまくやり遂げられるとも信じているということである

このようなことはおよそ事実ではあり得ないということは、明白である。

しかし、それを事実であるかのように信じることができるということも、同様に明白である。

そしてここに、罪悪の起源がある。

神の地位を横領し、それを自分のものとする者には、今や不倶戴天の「敵」がいることになる。

そして彼はひとりで自分を守らねばならず、決して静まらない憤激と、飽くことなき復讐心から自分自身を安全に守るために、盾を作り出さなければならない。

 

このような不公平な戦いが、どうして解決され得るだろう。

それがもたらすものは死に違いないのだから、それが終わることは避けられない。

それならば、自分を防衛できるものがあると信じることなど、どうしてできるだろう。

ここで再び、魔術に助けてもらわねばならない。

戦いのことは忘れてしまえ。

それを事実として受け入れて、それから、それを忘れてしまえ。

自分に勝ち目がないということは思い出してはいけない。

「敵」の巨大さについても思い出さず、それと比べた自分の虚弱さについても考えてはいけない。

自分の分離を受け入れるのはいいが、それがどのようにして生じたかは思い出してはいけない。

自分は戦いに勝ったと信じるのはいいが、自分の大いなる「敵」が実際には誰だったかについては少しでも覚えていてはいけない。

こうして自分の「忘却」をその存在に投影することで、あなたには、その存在もまたそれを忘れてしまったように思える。

 

しかしこうなると、すべての魔術的想念に対するあなたの反応はどのようなものとなるだろう。

それらは、あなたが隠していただけで手放してはいなかった眠れる罪悪感を、再び目覚めさせることにしかなり得ない。

その一つひとつが、あなたの怯えた心に向かってはっきりと次のように言う。

「あなたは神の地位を横領した。神がそれを忘れたと思ってはならない」。

ここに、神に対する恐れが最も歴然と表現されている。

なぜなら、その考えの中で、罪悪感はすでに、狂気を神の玉座に据えてしまったからである。

そうなると、望みは絶たれてしまう。

殺すしかない。

今や、ここに救済がある。

怒った父親が罪を犯したわが子を追いかける。

殺すか、殺されるか、選択できるのはこれだけだからである。

これ以外に選択肢はない。

なぜなら、すでに為されたことは、もはやそれ無しですませることはできないからである。

染みついた血痕は決して消すことはできず、この血痕を帯びている者は誰でも死ぬ以外にない。

 

この絶望的状況に、神は教師たちを遣わす。

彼らは神からの希望の光を運ぶ。

脱出を可能にする方法がある。

それは学ぶことも教えることもできるが、それには忍耐と多大な意欲が必要である。

それを前提とする限り、このレッスンの明らかな単純さは、暗い地平線を背景にした真っ白な光のように、くっきりと浮かび上がる。

それはまさにそうしたものだからである。

怒りは事実からではなく解釈から生じるというのなら、怒りは決して正当化できない。

たとえぼんやりとでもこのことが把握されたなら、道は開かれる。

今や、次の一歩を踏み出すことが可能になる。

ついに解釈を変えることができる。

魔術的想念は、咎められる必要はない。

なぜなら、それらには実際に罪悪を生じさせる力はないからである。

それゆえに、それらは看過させ得るものであり、真の意味で忘れることのできるものである。

 

狂気は、恐ろしく見えるだけである。

真理においては、それには何を作り出す力もない。

その僕となる魔術と同様、それは攻撃することも保護することもしない。

それを見てその思考体系を認識するということは、無を見ることである。

無が怒りを喚起できるだろうか。

できはしない。

だから、神の教師よ、怒りとは、存在していないものを一つの現実として認識することだと覚えておきなさい。

しかし、その怒りは、あなたがそれを事実として信じているということの確かな証拠である。

そうなったときあなたは、自分で自分自身の解釈に応答したのであり、その解釈は自分が外界に投影したものだということがわかるまでは、脱出不可能となる。

この残虐な剣を、今、あなたから取り除いてもらいなさい。

死は存在しない。

この剣は存在していない。

神に対する恐れは無因のものである。

しかし、神の愛は、あらゆる恐れを超える一切のものの原因であり、したがって、永遠に実在し、常に真実である。

マニュアル編 十六.神の教師は、どのように一日を過ごすべきか

この世界という時間軸の中に喜びや満足を期待していたときは、いつも苦しかったなぁと。

 

今まで、無いところに何かを見つけようとする罰ゲームを続けていたけど、もうそれをやめることをゆるした。

 

時間の中、思考の中、そして身体の中に未練がなくなっていくたびに、喜びと満足がある。

 

"ここ"以外のどこにも最初からいなかった。

 

最初からここにいた。

 

時間、思考、身体の夢はそっと優しく閉じられた。

 

どのように1日を過ごすか?

 

いつも"ここ"に過ごす。

 

・・・

十六.神の教師は、どのように一日を過ごすべきか

 

進歩した神の教師にとっては、この質問は無意味である。

レッスンは日々変化するので、学習要目といったものはない。

だが、神の教師は一つのことだけは確信している。

すなわち、レッスンがでたらめに変化するわけではないということである。

このことを見て取り、それが真実だと理解しているので、彼は満足している。

彼は、今日も明日も、毎日、自分が果たすべき役割のすべてについて教えられるだろう。

そして、その役割を彼と共有する者たちは彼を見つけ出し、それにより、その日のレッスンを共に学べるようになる。

彼に必要な者がひとりでもそこに不在ということはない。

また、その日にこそ学べる学習目標があらかじめ定められていないままで送られてくる者はひとりもいない。

それならば、進歩した神の教師には、この質問は無用である。

それはすでに問われて、答えられており、彼はその答えと恒常的に接触を保っている。

彼には準備ができており、自ら歩む道が確実かつなだらかに目の前に伸びているのを見ている。

 

しかし、まだこうした確信に達していない者たちはどうだろうか。

彼らはまだ、自分自身の役割に枠組みを設けずにいられるだけの準備はできていない。

一日を神に捧げることを習慣にするには、彼らは何をしなければならないのだろうか。

該当する一般的なルールはいくつかあるが、それらは各自が自分なりの最善のやり方でつかわなければならない。

そうしたルールをそのまま日課とすることは、危険である。

なぜなら、日課それ自体が神々となりやすく、日課が達成しょうとしていたゴールそのものを脅かしがちだからである。

それゆえに、大まかに言えば、一日を正しく始めるのがよいということは言える。

一日の始め方を間違えたとしても、いつでもやりなおすことはできる。

しかし、時間を省くという意味では、正しく始めることには明らかな利点がある。

 

最初のうちは、時間という観点から考えるのが賢明である。

これは決して究極の基準ではないが、初期の段階ではおそらく最も容易に遵守できるものである。

時間を省くことが初期において不可欠な強調点であり、これは学びの全過程にわたり重要であり続けるとはいえ、先へ進むにつれて次第に強調されなくなる。

初期の段階では、一日を正しく始めることに捧げた時間が確実に時間を省くことになると言ってもさしつかえない。

どのくらいの時間をそのように過ごすべきだろうか。

これは神の教師自身に任されなければならない。

彼は「ワークブック」を学び終えるまでは、「神の教師」という肩書きを自分のものと主張することはできない。

私たちはこのコースの枠内で学んでいるからである。

「ワークブック」に含まれているような、枠組みが設けられた練習期間を修了したのちであれば、おもに個々人の必要が考慮の対象となる。

 

このコースは常に実用的である。

神の教師が朝目覚めたときに、静かな思いに浸れる状況にないということもあるかもしれない。

そのような場合には、可能になり次第すぐに神と共に時を過ごすことを選ぼうとだけ覚えておき、そのようにすればよい。

時間の長さはさほど重要ではない。

目を閉じて一時間坐っていても、何も達成されないということはよくある。

ほんの一瞬を神に捧げて、その一瞬のうちに、神と完全につながるということも、同様に容易に起こり得る。

おそらく、一つの一般論としては次のように言うことができる。

目が覚めた後、できる限り早いうちに静かな時間をもち、それが難しいと感じ始めた後も、一、二分は続けてみる。

その難しさは減少し、消えてしまうかもしれない。

もしそうならなければ、その時が、やめるべき時である。

 

夜も同じようにする。

もし、静かに過ごす時間を就寝の直前にとることができそうもなければ、その夜の比較的早い時間にそれを行うのがよいだろう。

横になって行うのは賢明ではない。

あなたが好む姿勢で、きちんと坐って行うのがよい。

「ワークブック」を修了したあなたは、この点についてはすでに何らかの結論に達していることだろう。

しかし、できるなら、就寝の直前が、神に捧げるのに望ましい時間である。

それはあなたの心を休息しやすい状態にし、あなたを怖れから離れる方向へ向かわせる。

この時間を早めにとるほうが都合のよい場合でも、就寝直前にもほんの一瞬でよいから目を閉じて、神について考えるわずかな時間をもつことだけは忘れないようにしなさい。

 

特に、一日中覚えておくべき一つの想念がある。

それは、純粋な喜びの想念である。

すなわち、平安の想念でもあり、限界のない解放の想念でもある。

限界がないというのは、その中ではすべてのものごとが解き放たれているからである。

あなたは、自分で自分のために安全の場所を作り出したと考えている。

夢の中で見る恐ろしいものごとのすべてから自分を救える力を、自分で作り出したと考えている。

それは事実ではない。

あなたの安全はそこにはない。

あなやが放棄するのは、幻想を保護しているという幻想だけである。

そしてあなたが恐れているのはこのことであり、ただ、これだけである。

無でしかないものをこんなにも恐れているとは、何と愚かなことだろう!

まったくの無でしかないというのに!

あなたの防衛がうまくいくことはないが、あなたは危険にさらされてはいない。

防衛など必要ないのである。

これを認識しなさい。

そうすれば、それは消えてしまうだろう。

そしてそのときこそ、あなたは真に自分を保護してくれるものを受け入れるだろう。

 

神の庇護を受け入れた神の教師にとって、時間は、何と簡素に楽々と過ぎていくことだろう!

それまで安全という名目で彼が行っていたすべてのことが、もはや彼の興味を引かなくなる。

なぜなら、彼は安全であり、また、自分が安全だと知っているからである。

彼には、決して失敗することのない導き手がいる。

彼は自分が知覚しているいくつもの問題に、何の区別をつける必要もない。

なぜなら、それらすべての問題を抱える彼が頼みとしている聖霊は、それらの解決において難しさの序列を認めていないからである。

彼は、幻想を心に受け入れる以前や手放した後と同じく、現在においても安全である。

異なった時間や、異なった場所にあっても、彼の状態にはいかなる相違もない。

それらは、神のとってはみな同一だからである。

これが彼の安全性である。

そして彼には、これ以上のことは必要ない。

 

だが、神の教師がこれから旅する道にはさまざまな誘惑があるので、一日を通して、自分が守られていることを自分自身に思い出させる必要はある。

どのようにすれば彼にそれができるのだろうか。

とりわけ、彼の心が外的なものごとに囚われているときには、どうすればよいのだろうか。

ただやってみるしかない。

そして、うまくいくかどうかは、自分がうまくやれるという彼自身の確信にかかっている。

彼が確信しているべきことは、成功は自分がもたらすのではなく、自分がそれを呼び求めるときにはいつでも、どこでも、どんな状況でも、与えられるということである。

彼の確信が揺らぐときはあるだろう。

そして、それが起こった瞬間には、彼は自分のみに頼ろうとする以前のやり方に戻ってしまうだろう。

これが魔術であることを忘れてはならない。

そして魔術とは、真の援助の粗末な代替である。

そのようなものでは神の子には不充分なので、神の教師にも不充分である。

 

魔術の回避とは、誘惑の回避である。

というのも、すべての誘惑は、神の意志を別な意志で代用しようとする試み以上のものではないからである。

こうした試みは確かに恐ろしく見えるかもしれないが、単に哀れなものであるにすぎない。

それらは何の結果ももたらさない。

良くもなく悪くもなく、報奨をもたらすことも犠牲を要求することもせず、癒すでもなく破壊するでもなく、安心させるものでも恐ろしいものでもない。

すべての魔術が単なる無として認識されたとき、神の教師は最も進歩した状態に達したことになる。

そこに至るまでのレッスンはみな、ただそこに導いていき、そのゴールを認識しやすくするだけである。

なぜなら、いかなる形をしたいかなる種類の魔術であれ、それが行うことはまったくの無だからである。

その無力性こそが、そこから容易に逃れられる理由である。

何の結果も生み出さないものが、恐怖をもたらすことなどできるはずもない。

 

神の意志に代替はない。

端的に言えば、神の教師はこの事実に対して一日を捧げるのである。

実在するものとして彼が受け入れる代替は、どれもただ彼を欺くだけである。

しかし彼自身は、自分でそう決めればすべての欺瞞から安全に守られる。

彼は次の言葉を覚えておくことが必要かもしれない。

「神が私と共に居る。私は欺かれることはあり得ない」。

あるいは、彼が好むのは、別の表現であったり、一つの単語であったり、無言でいることであったりするかもしれない。

しかし、魔術を真実として受け入れたい誘惑はどれも、彼が自ら認識して、手放さなければならない。

それが恐ろしいからでも、罪深いからでも、危険だからでもなく、単に無意味だからである。

一つの誤りの二つの側面にすぎないもの、すなわち犠牲と分離に根ざしているので、彼はただ、もとより一度ももっていたことのないものを手放す選択をするだけである。

そしてこの「犠牲」と引き換えに、天国が彼の自覚に戻ってくる。

 

この交換こそが、あなたの望むものではないだろうか。

世界は、そのような交換ができると知ったなら、喜んでそうするだろう。

それができるということを、神の教師たちが教えなければならない。

それゆえに、それを確実に学ぶことが彼らの機能である。

あなたが魔術を信頼しない限り、一日中、いかなる危険もあり得ない。

苦痛へと行き着くのは魔術への信頼だけだからである。

「神の意志の他に意志はない」。

神の教師たちは、これが確かにそうだと知っており、これ以外の一切は魔術だということを学んでいる。

魔術を信じる信念のすべては、「それには効果がある」という、ただ一つの単純な幻想によって維持されている。

神の教師の訓練期間中、毎日、毎時、毎分、そして刻一刻、魔術のさまざまな形を認識し、その無意味さを知覚することを学ばなければならない。

それらの形から恐れが取り去られ、それゆえに、それらは消え去る。

そのようにして、天国の門は再び開かれ、その光が安らかな心を再び照らすことができるようになる。

 

マニュアル編 十五.最後には一人ひとりが審判されるのか

神の審判って、恐ろしい裁きなどではない。

子供のころに見せられた「地獄絵図」は、身体ありきの描写でしかなかった。

だけど、自分が身体だと思い込んでいたし、身体と心はくっついてると思い込んでいた。

 

身体と心がくっついてる、この不便さ、煩わしさ、複雑さが本当に苦痛だった。

 

でも、心底信じていたし、逃れられないと思っていた。

 

そして、このくっついた状態が永遠に続くという夢を見ていたのだ。

 

そして、くっついてる間のことを輪廻と言うのだ。

 

身体はわたしたちが勝手に作ったもので、だからこそ、勝手に作ったことへの罪の意識があり、破壊願望がある。

 

作ったり、壊したり、忙しいし騒がしい。

 

だけど、「静まれば」、その騒がしい夢から目が覚める。

 

神の審判とは、「身体」という罰ゲームを全部取り除いてくれる。

 

「身体」は裁かれることなく、静けさを伝えるための優しい器になる。

 

この真実に本当に救われた・・・・・。

 

怖い夢をやめることができた。

 

この世界を光で包む。

 

光の粒子は愛の発光体。

 

・・・

十五.最後には一人ひとりが審判されるのか

 

まさしく、その通りである!

神の最後の審判から逃れられる者はいない。

いったい誰が、真理から永遠に逃げ果せるだろう。

しかし、最後の審判は、それがもはや恐れと結びつけて考えられなくなるときまでは訪れない。

いつの日か、誰もがそれを歓迎するようになる。

その日こそ、それが彼に与えられる。

自分に対する神の最後の審判を受け取るとき、彼は、世界中のあらゆるところで自分の無罪性が宣言されて世界を解放するのを聞くだろう。

これが審判であり、その中に救済が内包されている。

これが、彼を自由にする審判である。

この審判の中で彼と共にすべてが解放される。

永遠が近づくと時間は停止し、世界は静まりかえり、すべての者が神の子についてのこの審判を聞くだろう。

 

あなたは神聖なる者、永遠にして自由であり、全一なる者。

神のこころの中で永久に安らかな者。

どこに世界があり、どこに悲しみがあるだろう。

 

神の教師よ、これが自分自身に対するあなたの審判だろうか。

これが完全に真実だと、あなたは信じているだろうか。

いや、今はまだ、信じてはいない。

しかし、依然として、これがあなたのゴールであり、それがあなたがここに居る理由である。

あなたの機能は、この審判を聞き、それが真実であると認識できるように自分自身を準備することである。

このことを完全に信じる一瞬があれば、あなたは信念を超えて確かさへと移行する。

時間の外の一瞬があれば、時間の終わりをもたらし得る。

裁かずにいなさい。

なぜなら、あなたが裁くのは自分自身だけであり、それによりこの最後の審判を遅らせることになるからである。

神の教師よ、世界についてのあなたの審判はどのようなものだろうか。

あなたは脇に退いて自分の内なる審判の声から聞くことを、もう学んだだろうか。

それとも、依然として聖霊からその役割を取り上げようとしているだろうか。

静かにすることを学びなさい。

なぜなら、聖霊の声は静寂の中で聞こえるからである。

そして聖霊の審判は、脇に退いて静かに耳をすまし、聖霊を待つすべての者に訪れる。

 

あなたは、ときには悲しみ、ときには憤り、またあるときは、自分に当然与えられるべきものが与えられていないと感じ、自分の最善の努力が感謝されないばかりか軽蔑されていると感じることがある。

こうした愚かな考えは放棄しなさい!

それらはあまりに卑小かつ無意味であり、これ以上一瞬たりともあなたの聖なる心を占領すべきものではない。

神の審判はあなたを自由にしようとして、あなたを待っている。

世界の贈り物をあなたがどのように審判しているかは別として、世界は、あなたが手に入れたいと思うような何を差し出すことができるというのだろう。

あなたは審判されることになるが、それは公正で誠実な審判である。

神には欺瞞はない。

神の約束は確かである。

ただそれだけを覚えておきなさい。

最後に受け入れられるのは神による審判であり、ただそれのみであることが、あなたの機能である。

神の審判を大切に胸に抱き、それを安全に保つために全世界を差し出すことが、あなたの機能である。

マニュアル編 十四.世界はどのように終わるのか

目の前のひとりの人に、ただのひとつも「違い」を見なくなる。

 

それは、「思考」が捨て去られた、ということ。

 

その「思考」は、止める必要はない。

 

それはただ見過ごされていく。

 

この解放以外の解放はない。

 

そもそも、始まってなどいなかった。

 

思考の中で作られている物語りでしかない。

 

全体という祝福、光だけがあった。

・・・

十四.世界はどのように終わるのか

 

始まってもいないものに、真に終わりがあり得るだろうか。

世界は、それが始まったときと同じく、幻想の中で終わる。

だが、その結末は慈悲という幻想である。

誰も除外せず、限りなく優しい完全な赦しという幻想が、それを包み、すべての悪を隠し、すべての罪を覆い、罪悪を永遠に終わらせるだろう。

そのようにして、罪悪が作り出した世界は終わる。

なぜなら、そのときそれには目的がなくなり、それは消え去っているからである。

幻想を生み出した父とは、幻想に目的があるという信念である。

すなわち、幻想が何らかの必要に応え、望みをかなえるという信念である。

目的のないものとして知覚されたなら、もはやそれらが見られることはなくなる。

それらの無用性が認識され、消えてしまう。

これ以外にどのようにして、すべての幻想が終わるだろうか。

それらは真理のもとに運ばれており、真理はそれらを見なかった。

真理はただ無意味なものを見過ごしただけである。

 

赦しが完了するまでは、世界には確かに目的がある。

それは、赦しの発祥の地となり、そこで赦しが成長し、力を増し、すべてを包み込むようになる。

ここでそれが必要とされるので、ここでそれが育まれる。

それは、罪が作り出されて、罪悪が実在するかに見える場所で生まれた、優しい救済者である。

ここに彼の家がある。

なぜなら、ここでこそまさしく彼が必要とされているからである。

彼が自ら世界の終わりを運んでくる。

神の教師たちは彼の呼びかけに応えるのであり、彼の言葉を受け取るために、静かに彼のほうを向く。

世界の中にあるすべてのものが、彼の審判によって正しく裁かれたとき、この世界は終わる。

世界は聖性の祝福を受けて終わるだろう。

罪の想念が一つも残っていないとき、世界は過ぎ去る。

破壊されることも、攻撃されることもなく、触られることさえない。

ただ、存在しているように見えることをやめるだけである。

 

確かに、これははるか遠い未来のことのように思える。

「罪の想念が一つも残っていないとき」とは、まさに長期にわたって目指すゴールであるかに見える。

しかし、時間は静止して神の教師のゴール達成を待っている

神の教師の誰かひとりが贖罪を受け入れた瞬間に、罪の想念は一つも残っていないだろう。

一つの罪を赦すほうがすべての罪を赦すより易しいということはない。

難しさの序列という幻想は、神の教師が、通り過ぎ、後にしなければならない障害である。

ひとりの神の教師により完全に赦された罪が、救済を完全なものにする。

あなたにこれが理解できるだろうか。

できはしない。

ここに居る誰にとっても、それは意味をなさない。

それでも、それが最後のレッスンであり、そこにおいて一体性が回復される。

それは世界の思考のすべてに逆行するものであるが、天国もまた、世界の思考に逆行するものである。

 

世界の思考体系が完全に逆転したときに、世界は終わる。

それまでは、世界の思考の断片の数々が、依然として良識あるものに見えることだろう。

世界の終わりをもたらす最後のレッスンは、世界を離れてその狭い領域を超えて進む用意がまだできていない者たちに、把握できるものではない。

それならば、この締めくくりのレッスンにおける神の教師の機能とは何だろうか。

彼に必要なのは、どうすればそれに近づけるかを学ぶことだけであり、その方向に進もうという意欲をもつことだけである。

それが彼に学ぶことのできるレッスンだと神の声が言うのなら、自分はそれを学べると、彼はただ信頼すればよい。

彼はそれを難しいとも易しいとも判断しない。

彼の教師がそれを指し示してくれる。

そしてそれを学ぶ方法をその教師が教えてくれることを、彼は信頼する。

 

世界は悲しみの場所であるから、喜びの中で終わることになる。

喜びが訪れたときには、世界の目的は過ぎ去っている。

世界は争いの場所であるから、平安の中で終わることになる。

平安が訪れたときには、世界にどんな目的があるというのだろう。

世界は涙の場所であるから、笑い声の中で終わることになる。

笑い声のあるところで、誰が泣き続けていられるというのだろう。

そして完全な赦しのみが、これらすべてをもたらし、世界を祝福する。

世界は祝福の中で去っていく。

それは、始まった通りには終わらないからである。

地獄を天国に変えることが、神の教師たちの機能である。

彼らが教えるのは、天国が反映されているレッスンだからである。

だから今、真に謙虚になって坐り、神があなたにさせようとすることならあなたにはできると悟りなさい。

傲慢にも、あなたには神ご自身のカリキュラムを習得できないなどと言ってはならない。

神の言葉はそうは言っていない。

神の意志は行われる。

それ以外ではあり得ない。

だから、それであることに感謝しなさい。