「祈り」の意図の再確認。
小さいころから「祈り」ってなんだろうって考えていた。
そして、懇願ではないなぁと、懇願は苦しいなぁと、もし懇願なら「祈り」はできないなぁと、ジレンマだった。
それでも、このマニュアルにずっと提示されている「祈り」のあり方に対して、腰を据えられなかったのは、「自我」の最後の最後の抗いなんだと、今日、あらためて感じた。
「祈り」こそが、生きがいなのだ。
「祈り」以外、なにも必要ないのだ。
「祈り」が与えられている。
「祈り」が夢から覚める唯一のもの。
「祈り」は実相への超特急だ。
「祈り」に許可が下りた。
これは、「ゆるし」の成就のしるし。
・・・
祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~
第一章 祈り
序
祈りとは、神がわが子を創造したときに、彼を祝福して授けた最大の贈り物である。
そのときの祈りは、祈りというものがいずれ成るべき姿そのままであった。
すなわち、創造主と被造物が共有する単一の声であり、子が父へ向かってうたう歌であり、その歌が父に捧げる感謝を父が子へ与え返す歌でもあった。
そのハーモニーに終わりはなく、父と子が互いに与え合う愛の喜びあふれる協和音にも終わりはない。
そしてその中で、創造が延長される。
神はわが子の中でご自身が延長されることに感謝する。
神の子は、父の名において創造する彼がうたう歌の中で、自らが創造されたことへの感謝を捧げる。
時間が終わったとき、父と子が共有する愛が、常しえに祈りのすべてとなる。
なぜなら、祈りとは、時間が存在するかに見え始める以前は、そうしたものだったからである。
少しの間、時間の中に居るあなたにとって、祈りはあなたの必要に最もふさわしい形をとることになる。
あなたには一つの必要しかない。
神が一なるものとして創造したものは、自らの一体性を認識しなければならず、幻想の数々が分離させたかに見えたものが神の心では永遠にひとつであることを、喜ばなければならない。
祈りは今や、神の子が個別のゴールや利害の数々を後にするための手段とならねばならず、それにより、彼は聖なる歓喜のうちに自分自身と父の中にある融合という真理へと向かう。
聖なる神の子よ、あなたの見ている夢を手放しなさい。
神が創造したままのあなたとして立ち上がり、偶像を捨てて神を思い出しなさい。
祈りが、今あなたを支えるだろう。
そして、わき上がる歌と共にあなたがこころを神に向けるとき、祈りがあなたを祝福するだろう。
その歌は、高見からさらなる高みへと昇っていき、ついには高きも低きもどちらも消え去るところへと達するだろう。
あなたが天国の芝生と平安の門へと続く輝かしい階段を上っていくとき、自分のゴールに対する信が深まり、それがあなたの支えとなるだろう。
なぜなら、これが祈りであり、ここに救済があるからである。
これこそが、道である。
それは神からあなたへの贈り物である。
Ⅰ.真の祈り
祈りとは、神に到達するために聖霊により差し出されている道である。
それは、単なる質問でも祈願でもない。
祈りが何も求めてないということをあなたが悟るまでは、祈りはうまくいかない。
そうでなければどのようにして、祈りがその目的を果たせるだろう。
偶像を求めて祈りながら、神に到達することを望んでも、それは不可能である。
真の祈りは、願いを叶えてもらおうとして求めるという落とし穴を回避しなければならない。
そのように求めるのではなく、すでに与えられているものを受け取ることができるように、すなわち、すでにそこにあるものを受け入れられるようにと、求めなさい。
あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊に尋ねるようにと告げられ、その必要があるなら具体的な答えを受け取るだろうと教わってきた。
あなたはまた、一つの問題と一つの答えがあるだけだとも、教えられてきた。
祈りにおいては、これは矛盾していない。
ここでは、決定すべきことがらがあり、それらは幻想であろうとなかろうと決定されなければならない。
あなたが認識できるレベルの必要を超えた答えを受け入れるようにと、あなたに求めることはできない。
したがって、重要なのは質問の形ではなく、その尋ね方でもない。
答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、あなたが見ている通りのあなたの必要に合致するだろう。
これは、単に、神の声からの返答のエコーにすぎない。
真の音源は常に、感謝と愛の歌である。
それならば、あなたはエコーを求めることはできない。
贈り物は、歌そのものである。
歌と一緒に、倍音や和音やエコーが生じるが、これらは副次的なものである。
真の祈りにおいては、あなたは歌だけを聞く。
他のすべては、単に添えて与えられるものにすぎない。
あなたはまずはじめに神の国を求めたのであり、だからこそ他のすべてが確かにあなたに与えられたのである。
真の祈りの秘訣は、あなたが自分に必要だと思っている諸事を忘れることにある。
具体的なものを求めるということは、罪を見咎めておいて、それからそれを赦すのとよく似ている。
祈りにおいても同様に、あなたは自分が見ている諸々の具体的な必要は意に介さず、それらを神の御手の中へと委ねるのである。
そこにおいて、それらはあなたから神への贈り物となる。
なぜなら、それらの贈り物が、「あなたは神の他に何ものをも神々とせず、神の愛の他に愛を求めない」と、神に伝えるものだからである。
神の答えとは、あなたが神を思い出すこと以外の何であり得るだろう。
これを、つかの間の問題についての少しばかりの些細な助言と交換できるだろうか。
神は、永遠のためにのみ答える。
しかしそれでも、その中には、すべての小さな答えが内包されている。
祈りとは、脇に退くことであり、手放すことである。
また、耳を澄まして愛するための静かな時間のことでもある。
それは、いかなる種類の懇願とも混同されるべきものではない。
なぜなら、祈りとはあなたが自分の聖性を思い出すための道だからである。
愛が差し出す一切を充分に受け取ることができる聖性が、なぜ、懇願したりする必要があるだろう。
そして、祈りの中であなたが向かうところは愛である。
祈りとは捧げ物であり、愛とひとつになるためにあなた自身を手放すことである。
もはや欲すべきものは何も残っていないので、求めるべきものは何もない。
その空の状態が神の祭壇となる。
そしてそれは神の中では消え去る。
これはまた、誰もが達成できるレベルの祈りではない。
そこに達していない者たちは、依然として祈りにおいてあなたの助けを必要としている。
なぜなら、彼らの求め方はまだ受容に基づくものではないからである。
祈りにおける助けとは、あなたと神の間を別の者がとりなすという意味ではない。
しかしそれは、他者があなたの傍らに立ち、あなたを神のもとへ引き上げる助けをする、ということは意味する。
神の善性を認識した者は、恐れを抱かずに祈る。
そして、恐れを抱かずに祈る者が神に到達しないということはあり得ない。
それゆえに、そのような者はまた、神の子がどこにいていかなる形を纏っているように見えようとも、彼にも達することができる。
誰の中にでも居るキリストに祈ることが、真の祈りである。
なぜなら、それは彼の父への感謝という贈り物だからである。
キリストがただキリスト自身であるようにと求めることは、祈願ではない。
それはあなたの本性について感謝を捧げる歌である。
ここに、祈りの力が宿っている。
それは何も求めず、一切を受け取る。
この祈りは、すべての者のために受け取るので、共有されることが可能である。
このことが真実だと知っている者と共に祈ることが、答えを与えられるということである。
おそらく、具体的な問題のための具体的な形の解決があなたがたのどちらか一方に訪れるだろう。
それがどちらであるかは問題ではない。
もしくは、二人が真に互いに同調している場合は、その両方が元に届くかもしれない。
それが訪れる理由は、あなたが、キリストはあなたがた両方の中に居ると認識したからである。
それがその唯一の真理である。