【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り 序・Ⅰ.真の祈り

「祈り」の意図の再確認。

 

さいころから「祈り」ってなんだろうって考えていた。

そして、懇願ではないなぁと、懇願は苦しいなぁと、もし懇願なら「祈り」はできないなぁと、ジレンマだった。

 

それでも、このマニュアルにずっと提示されている「祈り」のあり方に対して、腰を据えられなかったのは、「自我」の最後の最後の抗いなんだと、今日、あらためて感じた。

 

「祈り」こそが、生きがいなのだ。

 

「祈り」以外、なにも必要ないのだ。

 

「祈り」が与えられている。

 

「祈り」が夢から覚める唯一のもの。

 

「祈り」は実相への超特急だ。

 

「祈り」に許可が下りた。

 

これは、「ゆるし」の成就のしるし。

 

 

 

・・・

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 

 

第一章 祈り 

 

 

祈りとは、神がわが子を創造したときに、彼を祝福して授けた最大の贈り物である。

そのときの祈りは、祈りというものがいずれ成るべき姿そのままであった。

すなわち、創造主と被造物が共有する単一の声であり、子が父へ向かってうたう歌であり、その歌が父に捧げる感謝を父が子へ与え返す歌でもあった。

そのハーモニーに終わりはなく、父と子が互いに与え合う愛の喜びあふれる協和音にも終わりはない。

そしてその中で、創造が延長される。

神はわが子の中でご自身が延長されることに感謝する。

神の子は、父の名において創造する彼がうたう歌の中で、自らが創造されたことへの感謝を捧げる。

時間が終わったとき、父と子が共有する愛が、常しえに祈りのすべてとなる。

なぜなら、祈りとは、時間が存在するかに見え始める以前は、そうしたものだったからである。

 

少しの間、時間の中に居るあなたにとって、祈りはあなたの必要に最もふさわしい形をとることになる。

あなたには一つの必要しかない。

神が一なるものとして創造したものは、自らの一体性を認識しなければならず、幻想の数々が分離させたかに見えたものが神の心では永遠にひとつであることを、喜ばなければならない。

祈りは今や、神の子が個別のゴールや利害の数々を後にするための手段とならねばならず、それにより、彼は聖なる歓喜のうちに自分自身と父の中にある融合という真理へと向かう。

 

聖なる神の子よ、あなたの見ている夢を手放しなさい。

神が創造したままのあなたとして立ち上がり、偶像を捨てて神を思い出しなさい。

祈りが、今あなたを支えるだろう。

そして、わき上がる歌と共にあなたがこころを神に向けるとき、祈りがあなたを祝福するだろう。

その歌は、高見からさらなる高みへと昇っていき、ついには高きも低きもどちらも消え去るところへと達するだろう。

あなたが天国の芝生と平安の門へと続く輝かしい階段を上っていくとき、自分のゴールに対する信が深まり、それがあなたの支えとなるだろう。

なぜなら、これが祈りであり、ここに救済があるからである。

これこそが、道である。

それは神からあなたへの贈り物である。

 

 

Ⅰ.真の祈り

 

祈りとは、神に到達するために聖霊により差し出されている道である。

それは、単なる質問でも祈願でもない。

祈りが何も求めてないということをあなたが悟るまでは、祈りはうまくいかない。

そうでなければどのようにして、祈りがその目的を果たせるだろう。

偶像を求めて祈りながら、神に到達することを望んでも、それは不可能である。

真の祈りは、願いを叶えてもらおうとして求めるという落とし穴を回避しなければならない。

そのように求めるのではなく、すでに与えられているものを受け取ることができるように、すなわち、すでにそこにあるものを受け入れられるようにと、求めなさい。

 

あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊に尋ねるようにと告げられ、その必要があるなら具体的な答えを受け取るだろうと教わってきた。

あなたはまた、一つの問題と一つの答えがあるだけだとも、教えられてきた。

祈りにおいては、これは矛盾していない。

ここでは、決定すべきことがらがあり、それらは幻想であろうとなかろうと決定されなければならない。

あなたが認識できるレベルの必要を超えた答えを受け入れるようにと、あなたに求めることはできない。

したがって、重要なのは質問の形ではなく、その尋ね方でもない。

答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、あなたが見ている通りのあなたの必要に合致するだろう。

これは、単に、神の声からの返答のエコーにすぎない。

真の音源は常に、感謝と愛の歌である。

 

それならば、あなたはエコーを求めることはできない。

贈り物は、歌そのものである。

歌と一緒に、倍音や和音やエコーが生じるが、これらは副次的なものである。

真の祈りにおいては、あなたは歌だけを聞く。

他のすべては、単に添えて与えられるものにすぎない。

あなたはまずはじめに神の国を求めたのであり、だからこそ他のすべてが確かにあなたに与えられたのである。

 

真の祈りの秘訣は、あなたが自分に必要だと思っている諸事を忘れることにある。

具体的なものを求めるということは、罪を見咎めておいて、それからそれを赦すのとよく似ている。

祈りにおいても同様に、あなたは自分が見ている諸々の具体的な必要は意に介さず、それらを神の御手の中へと委ねるのである。

そこにおいて、それらはあなたから神への贈り物となる。

なぜなら、それらの贈り物が、「あなたは神の他に何ものをも神々とせず、神の愛の他に愛を求めない」と、神に伝えるものだからである。

神の答えとは、あなたが神を思い出すこと以外の何であり得るだろう。

これを、つかの間の問題についての少しばかりの些細な助言と交換できるだろうか。

神は、永遠のためにのみ答える。

しかしそれでも、その中には、すべての小さな答えが内包されている。

 

祈りとは、脇に退くことであり、手放すことである。

また、耳を澄まして愛するための静かな時間のことでもある。

それは、いかなる種類の懇願とも混同されるべきものではない。

なぜなら、祈りとはあなたが自分の聖性を思い出すための道だからである。

愛が差し出す一切を充分に受け取ることができる聖性が、なぜ、懇願したりする必要があるだろう。

そして、祈りの中であなたが向かうところは愛である。

祈りとは捧げ物であり、愛とひとつになるためにあなた自身を手放すことである。

もはや欲すべきものは何も残っていないので、求めるべきものは何もない。

その空の状態が神の祭壇となる。

そしてそれは神の中では消え去る。

 

これはまた、誰もが達成できるレベルの祈りではない。

そこに達していない者たちは、依然として祈りにおいてあなたの助けを必要としている。

なぜなら、彼らの求め方はまだ受容に基づくものではないからである。

祈りにおける助けとは、あなたと神の間を別の者がとりなすという意味ではない。

しかしそれは、他者があなたの傍らに立ち、あなたを神のもとへ引き上げる助けをする、ということは意味する。

神の善性を認識した者は、恐れを抱かずに祈る。

そして、恐れを抱かずに祈る者が神に到達しないということはあり得ない。

それゆえに、そのような者はまた、神の子がどこにいていかなる形を纏っているように見えようとも、彼にも達することができる。

 

誰の中にでも居るキリストに祈ることが、真の祈りである。

なぜなら、それは彼の父への感謝という贈り物だからである。

キリストがただキリスト自身であるようにと求めることは、祈願ではない。

それはあなたの本性について感謝を捧げる歌である。

ここに、祈りの力が宿っている。

それは何も求めず、一切を受け取る。

この祈りは、すべての者のために受け取るので、共有されることが可能である。

このことが真実だと知っている者と共に祈ることが、答えを与えられるということである。

おそらく、具体的な問題のための具体的な形の解決があなたがたのどちらか一方に訪れるだろう。

それがどちらであるかは問題ではない。

もしくは、二人が真に互いに同調している場合は、その両方が元に届くかもしれない。

それが訪れる理由は、あなたが、キリストはあなたがた両方の中に居ると認識したからである。

それがその唯一の真理である。

第三章 精神療法という職業  Ⅲ.支払いの問題

この世界の憂い事は全部、ゆだねる。

 

そして、ひたすらに、「静寂」をわかち合う。

 

ただそれだけでいいんだなぁ。

 

・・・

第三章 精神療法という職業  

 

Ⅲ.支払いの問題

 

誰も治療のために代金を支払うことはできない。

癒しは神からのものであり、神は何も求めないからである。

しかし、聖霊によりこの世界の一切が神の計画の遂行を助けるために使われることが、その計画の一部をなしている。

進歩したセラピストにさえ、ここに居る限りは、いくらかの地上的な必要というものがある。

もし彼に金銭が必要なら、それは与えられる。

支払いとしてではなく、彼がその計画にさらに役立つように助けるためである。

金銭は悪ではない。

それは無である。

しかし、ここに居る者は誰でも、まったく幻想をもたずに生きることはできない。

なぜなら、彼はまだこれから、最後の幻想があらゆるところであらゆる者に受け入れられるように、尽力しなければならないからである。

彼には、この一つの目的における強力な役割があり、彼はそのために来たのである。

彼はそのために来たのである。

彼は、このためだけに、ここにとどまる。

そして、彼がとどまっている間は、とどまるのに必要なものが彼に与えられるだろう。

 

癒されていないヒーラーのみが、金銭のために癒そうとするだろう。

そして彼は、金銭に価値を置いている度合いに比例して、癒すことに失敗するだろう。

また彼は、その過程で、自分の癒しを見出すこともない。

聖霊の目的のために、聖霊からいくらかの支払いを求められる者たちがいるだろう。

聖霊から何も求められない者たちもいるだろう。

こうしたことを決めるのはセラピストであってはならない。

支払いと代償の間には違いがある。

神の計画が配分するところに金銭を与えることには、代償はない。

それが正しく属するところにそれを与えずにおくことには、莫大な代償が伴う。

こうしたことを行おうとするセラピストは、ヒーラーの名を失うだろう。

なぜなら、彼は癒しとは何であるかを決して理解できないからである。

彼はそれを与えることができず、それゆえに、それをもっていない。

 

この世界のセラピストたちは、実のところ、世界の救済にとっては役に立たない。

彼らは要求するので、与えることができない。

患者は、幻想を幻想と取り替えるためだけに支払うことしかできない。

このようなものは、まさに、支払いを要求することになり、その代償は大きい。

「購入された」関係は、すべての癒しが達成される手段となる唯一の贈り物を提供することができない。

聖霊の唯一の夢である癒しに、代償があってはならない。

というのは、もし代償があるとすれば、それは再び神の子を磔にするだけだからである。

これが、彼が赦される手段であり得るだろうか。

これが、罪という夢が終わる手段であり得るだろうか。

 

生きる権利とは、そのために誰も戦う必要のないものである。

それは彼に約束されており、神により保証されている。

それゆえに、それは、セラピストと患者が同様に共有している権利である。

もし彼らの関係が神聖であるべきものなら、何であれひとりが必要としているものは、もうひとりによって与えられ、何であれひとりに欠けているものは、もうひとりが供給する。

ここにおいて、その関係は神聖になる。

なぜなら、ここにおいて、両方が癒されるからである。

セラピストは、感謝の気持ちで患者に報い、患者も同じようにセラピストに報いる。

どちらにも代償は伴わない。

しかし、どちらに対しても、長きにわたる幽閉と疑念からの解放のゆえに、感謝が支払われるべきである。

このような贈り物について、感謝しない者がいるだろうか。

それでも、それを金銭で購入できるなどと思う者がいるだろうか。

 

もっている人には与えられると、よく言われてきた。

彼はもっているがゆえに、与えることができるからである。

そして、与えるがゆえに、与えられるだろう。

これは神の法則であり、世界の法則ではない。

そして、神のヒーラーたちについても同様である。

彼らは、神の言葉を聞き、それを理解したからこそ、与えるのである。

したがって、彼らが必要としているものはすべて与えられる。

しかし、彼らは、自分がもっているものはすべて神のみからきているということを覚えておかない限り、この理解を失うだろう。

もし自分が兄弟からの何かを必要としていると信じるなら、彼らはもはや彼を兄弟として認識しなくなる。

そしてもし彼らがそのように信じるなら、天国においてすら光が消えてしまう。

神の子が自分自身に敵対するところでは、彼には闇しか見えなくなる。

彼は自らに光を否定したので、見ることができない。

 

常に守られるべき原則が一つある。

それは、「誰のことも、代金を支払えないという理由で拒んではならない」というものである。

誰でも、誰かのところに、偶然送られてくるのではない。

関係とは、常に目的をもったものである。

聖霊がそこに入ってくる前にそれらの関係の目的がどんなものであったにせよ、それらは常に、聖霊の神殿となる可能性をもったものである。

すなわち、キリストの憩う場所であり、神ご自身の家である。

来る者は誰でも送られてきたのである。

ことによると、彼が送られてきたのは、彼の兄弟が必要としていた金銭を与えるためだったかもしれない。

それにより、両方が祝福されるだろう。

あるいはまた、セラピストがどれほど赦しを必要としているかを教え、そしてそれに比べれば金銭などいかに無価値なものであるかを教えるために、彼は送られてきたのかもしれない。

ここでも同様に、両方が祝福されるだろう。

代償という観点においてのみ、ひとりがもうひとりより多くをもつことができるということになる。

共有においては、誰もが代償なしに祝福を得ることしかできない。

 

支払いについてのこの見解は、非実用的に見えるかもしれない。

そして、世界の目においては、その通りである。

しかし、世界の考えは一つとして真に実用的ではない。

幻想のために努力することによって、どれだけのものが獲得できるのだろう。

神を投げ捨てることによって、どれだけのものが失われるのだろう。

そもそも、神を投げ捨てることが可能だろうか。

言うまでもなく、無のために努力したり、不可能なことを試みたりすることこそ、非実用的である。

それならば、少しの間、じっとして考えてみなさい。

自分が、どこを探せばいいかわからないまま、救済を探し求めてきたのかもしれない、と。

あなたの助けを求めてくる者なら誰でも、それがどこにあるのかをあなたに示すことができる。

これ以上に大いなる贈り物が、あなたに与えられることがあり得るだろうか。

あなたが与えたい贈り物のうち、これ以上に大いなる贈り物があるだろうか。

 

医者も、ヒーラーよ、セラピストよ、教師よ、汝自身を癒しなさい。

もしあなたが選択するなら、多くの者が癒しの贈り物を携えてあなたを訪れるだろう。

聖霊は、中に入ってあなたのもとにとどまってほしいという招待を、決して断りはしない。

あなたの救済への扉を開くために、無数の機会をあなたに与えてくれるだろう。

それが聖霊の機能だからである。

聖霊はまた、あらゆる状況とすべての時におけるあなたの機能とはいったい何なのかを、あなたに告げるだろう。

聖霊があなたのもとに送る者はみな、自分の友に向かって手を差し伸べつつ、あなたのところに来るだろう。

あなたの中のキリストに、彼を歓迎してもらいなさい。

その同じキリストが、彼の中にも居るからである。

彼が入ってくるのを拒むなら、あなたは自分の中のキリストを拒んだのである。

世界の悲しい作り話と、救済の喜ばしい福音を思い出しなさい。

喜びを平安の回復のための神の計画を、思い出しなさい。

そして、神の道がいかに単純であるかを、忘れてはならない。

 

光を求めるまで、あなたは世界の闇の中で道に迷っていた。

それゆえに神は、あなたに光を与えるべく神の子を送ったのである。

 

 

第三章 精神療法という職業 Ⅱ.精神療法は専門職であるか

わたしが「セラピスト」になりたい!という心の中のわけのわからない揺さぶられに従ったとき、辺り一面「光」が煌めいた!!!

 

だけど、それからは、葛藤続きだった。

 

「セラピスト」という職業は、自分を「特別」な存在、「個人」だと実証するためのものになってしまった。

 

そして、その分離感や、違和感や、不自然さから、「セラピスト」とはなんだろう?とあらためて「奇跡講座」で見直すことになった。

 

そして、裁くことを忘れる瞬間が生じたとき、心がひとつになった。

 

「対等性」のわかち合い。

 

これだけが。

 

肉体の夢の中で、唯一の機能として、「対等性」を思い出す機会のみ。

 

これだけが心の中の「光」として瞬いている。

 

・・・

第三章 精神療法という職業 

 

Ⅱ.精神療法は専門職であるか

 

厳密に言えば、答えは「否」である。

一つの個別の専門職が、どうして、万人が携わるものであり得るだろう。

そして、誰もが自分の関わるあらゆる関係において患者とセラピストの両方であるというのなら、そのような関わり合いに対して、何らかの限界を課すことなど、どうしてできるだろう。

しかし、実用面から言えば、自分の主な機能として、何らかの種類の癒しに自分自身を捧げることを主目的としている者たちがいると述べることは、依然として可能である。

そして、彼らのもとへ、他の大勢の人々が助けを求めて頼ってくる。

事実上、これが治療を専門とする職業である。

したがってこれが、「正式」に、助力者と言える者たちである。

彼らは、自分の専門的活動における特定の種類の必要に献身しているが、そうした活動の枠外でのほうがはるかに有能な教師であるという場合もある。

もちろん、これらの専門的活動に携わる者たちに特別なルールは必要ない。

しかし、彼らが一般的な癒しの原理を特別に応用した形を用いるように求めることはあるかもしれない。

 

第一に、専門的セラピストは、癒しに難しさの序列がないということを実証するのに格好の立場にいる。

しかし、そのためには、彼には特別な訓練が必要である。

なぜなら、彼がセラピストになるために学んだカリキュラムは、おそらく、彼に癒しの真の原理について、ほとんど、またはまったく、教えてくれなかったはずだからである。

実のところ、おそらくそのカリキュラムは、癒しを不可能にする方法を彼に教えたに違いない。

世界の教えのほとんどは、裁きについてのカリキュラムに従っており、セラピストを審判者にすることを狙いとしている。

 

このようなカリキュラムですら、聖霊は使うことができるし、ほんのわずかでも招待されれば、確かにそれを使うだろう。

癒されていないヒーラーは、傲慢であったり、利己的かつ無関心であったり、実際に不誠実であったりするかもしれない。

彼は、癒しに対し自分の主要なゴールとしての関心はもってないかもしれない。

しかし、彼はヒーラーになる選択をしたとき、たとえどんなに間違った導きによりその方向を選んでいたとしても、ほんのわずかであれ彼に何かが起こったのである。

その「何か」で充分である。

遅かれ早かれ、その何かが頭をもたげ、大きくなっていくだろう。

患者のひとりが彼を感動させ、セラピストである彼が静かにその患者に助けを求めることになるだろう。

彼は自分自身にセラピストを見つけたのである。

彼は聖霊に、その関係の中に入ってきてそれを癒してくれるようにと求めた。

彼は、自分自身に贖罪を受け入れたのである。

 

神は、ご自身が創造したものすべてを見て、良しとしたと言われている。

しかしそうではなく、神はそれが完全無欠であると宣言したのであり、だからそのようになったのである。

そして、神の被造物たちは変わることがなく、常しえに永続するのだから、それは今もそのままである。

しかし、完全無欠なセラピストというものも、完全無欠な患者というものも、とうてい存在不可能である。

セラピストも患者も自分の完全無欠性をすでに否定しているはずである。

なぜなら、彼らがお互いを必要としているということ自体が、欠乏感があることを示唆しているからである。

一対一の関係は、一なる関係とは違う。

それでもそれは、帰還のための手段であり、神の子の帰還のために神が選択した道である。

そうした不可思議な夢の中には、不可思議な訂正が入っていかなければならない。

というのも、それだけが、目覚めへの呼びかけだからである。

そして、それ以外の何が、治療と言えるだろう。

目覚めて、喜びなさい。

あなたのすべての罪は赦されているからである。

これが、二人の者が互いに与えるべき唯一のメッセージである。

 

患者とセラピストの出会いの一つひとつから、必ず何か善きものが生じるはずである。

そしてその善きものは、彼らが自分たちの間の関係においてそれだけが実在するものだったと認識できる日のために、双方のためにとっておかれる。

それが認識されるとき、その善きものは、創造主からの愛のしるしの贈り物として、聖霊により祝福され、彼らに戻される。

というのも、治療のための関係は、必ず父と子の関係と同質のものとなっていくからである。

この他に関係というものはない。

他には何もないからである。

この世界のセラピストたちは、このような結果を期待してはいない。

また、もし期待していたなら、彼らの患者の多くは、彼らから助けを受け入れることができないだろう。

だが、実際には、セラピストが自分に関わっている関係のゴールを定めるのではない。

彼の理解は、このことを認識することから始まり、そこから進展していく。

 

癒しは、セラピストが患者を裁くことを忘れるその瞬間において生じる。

決してこの地点に達することのない関係もある。

だがその場合でも、そのプロセスの中で患者とセラピストの両方が自分たちの夢を変化させるということはあるだろう。

だが、それは、彼らの両方にとって同一の夢とはならないので、両者をいつか目覚めさせることになるような赦しの夢ではない。

善きものは保存されるし、実際、大切にされる。

しかし、時間はほんの少し省かれるだけである。

新しい夢は一時的な魅力を失い、恐れの夢に変わるだろう。

恐れがすべての夢の内容である。

だが、自分が受け取る準備ができている以上のものを受け入れることのできる患者はいないし、自分がもっていると信じている以上のものを差し出すことのできるセラピストのいない。

それゆえに、この世界には、すべての関係のための場があり、それらは、各人が受け入れて使うことができる限りの善きものをもたらすことになる。

 

だが、癒しが生じるのは、裁きが止むときである。

なぜなら、そのときにのみ、癒しに難しさの序列はないということが理解され得るからである。

これが、癒されたヒーラーにとって不可欠な理解だからである。

彼は、兄弟を一つの夢から目覚めさせることのほうが、別の夢から目覚めさせることよりも難しいわけではないということを、学んだのである。

職業的セラピストの中で、この理解を一貫して自分の心の中に保ち、自分を訪れるすべての者に差し出すことができる者は一人もいない。

この世界にも、その非常に近くまで到達した者たちはいるが、彼らはこの贈り物を完全に受け取ることはしていない。

それは、時間の終わりまでここに居て、自らの理解を地上にとどめるためである。

彼らは職業的セラピストと呼ぶことなどできない者たちである。

彼らは神の使者である。

世界の救済者である。

彼らの姿はここにとどまっている。

彼らがそうであることを選んだからである。

彼らはその他のさまざまな姿に取って代わり、優しい夢を用いて助けるのである。

 

ひとたび「心はつながっている」ということを悟ったなら、職業的セラピストはさらに、癒しにおける難しさの序列には意味がないということも認識できるようになる。

だが、時間の中においてこの地点に到達するよりずっと以前から、彼はそこに向かって進むことができる。

その道中で、多くの聖なる瞬間が彼のものとなり得る。

ゴールとは、旅の始まりではなく終わりを示すものであり、一つのゴールが達成されたとき、もう一つのゴールが、前方にかすかに見えてくる。

ほとんどの職業的セラピストたちは、まだ、最初の旅の初歩的段階が始まったばかりの地点にいる。

自分が何をしなければならないかを理解し始めた者たちでさえ、依然として、それに着手することに抵抗するかもしれない。

それでも、すべての癒しの法則は、一瞬のうちに、彼らのものとなり得る。

夢の中を別にすれば、旅は長いものではない。

 

職業的セラピストには、正しく使用されたなら莫大な時間を省くことができるような、一つの利点がある。

彼は、自分の役割を誤用したくなる誘惑が非常に大きい道を選んだのである。

このことにより、もし彼が自分に与えられていない機能を引き受けてしまいたくなる誘惑を逃れることができるなら、平安への障害の多くを実に速やかに通り過ぎることが可能になる。

癒しに難しさの序列がないことを理解するには、彼はさらに自分自身と患者の対等性についても認識しなければならない。

これには、中間点はない。

対等であるか、どうでないか、どちらか一つである。

この点で妥協しようとするセラピストたちの試みは、まことに奇妙なものである。

ある者たちは、自分の聖堂で礼拝する肉体たちを集めるためだけに、その関係を利用する。

そしてこれを、癒しと見なしている。

多くの患者もまた、この珍妙な方式を救済だと考えている。

それでも、一つひとつの出会いの中には一なる存在が居て、「兄弟よ、もう一度、選び直しなさい」と言っているのである。

 

いかなる形の特別性も防衛されずにはいないし、必ず防衛されることになるということを、忘れてはならない。

防衛しないセラピストは神からの強さを身につけているが、防衛するセラピストは、自分の救済の源を見失っている。

彼は見ることもなく、聞くこともない。

では、彼はどのようにして教えることができるのだろう。

それができる理由は、彼が救済計画の中の自分の持ち場につくことが、神の意志だからである。

また、彼の患者がそこで助けられて彼とつながることが、神の意志だからである。

そしてまた、それができる理由は、彼が見ることも聞くこともできないということが、いかようにも聖霊を制限することはないからである。

しかし時間の中は例外である。

時間の中では、癒しが差し出されてから受け入れられるまでの間に、大きな時差があり得る。

これが、キリストの顔にかかったベールである。

それでも、それは幻想でしかあり得ない。

なぜなら、時間は存在しておらず、神の意志は、いつでもまさに今あるままにあり続けてきたからである。

第三章 精神療法という職業 Ⅰ.患者の選択

真実は身体を超えている。

 

だから、身体、五感を超越している。

 

心において「親密」であるだけ。

 

心に「感謝」の通り道を促すだけ。

 

それがつながり。

 

それが働き。

 

喜び。

・・・

第三章 精神療法という職業 

 

Ⅰ.患者の選択

 

あなたのもとへ送られてくる誰もが、あなたの患者である。

これは、あなたが患者を選ぶという意味ではなく、あなたが適切な治療の種類を選ぶという意味でもない。

しかし、間違ってあなたを訪れる者は一人もいないということは、確かに意味している。

神の計画に誤りはない。

しかし、訪れる者の一人ひとりに対して何を提供すべきかについてあなたが知っていると見なすことは、誤りである。

それを決めるのはあなたではない。

あなたには自分は、訪れる者たちのために自分自身を犠牲にするようにと絶えず求められている」と思い込む傾向がある。

これはおよそ真実ではあり得ない。

自分自身に犠牲を要求するというのは、神に犠牲を要求することであるが、神は犠牲については何も知らない。

完全無欠なるのものに不完全であれと求めることなど、誰にできるだろう。

 

それでは、一人ひとりの兄弟が何を必要としているのかを決めるのは、誰だろう。

もちろん、あなたではない。

あなたはまだ、誰が求めているのかを認識してもいない。

もしあなたが耳を澄まして聞くならそれをあなたに告げる何かが、彼の中に存在している。

そして、それが答えである。

だから聞きなさい。

要求してはならない。

決めてもいけないし、犠牲にしてもいけない。

ただ聞きなさい。

あなたに聞こえることは真実である。

神がわが子をあなたのもとに送っておきながら、あなたが彼の必要を認識するかどうかを神ご自身が確信していないということがあるだろうか。

神があなたに何を語っているのかを考えなさい。

神はご自身を代弁して語るあなたの声を必要としているのである。

これ以上に神聖なことがあるだろうか。

あるいはまた、あなたにとって、これ以上に大いなる贈り物があるだろうか。

あなたは誰が神となるかを選びたいだろうか。

それとも、あなたの中に居る神からの声を聞きたいだろうか。

 

あなたが神の名において自分の患者の役に立つためには、彼が物理的にあなたの目の前に居る必要はない。

これを覚えておくのは難しいかもしれないが、神は、あなたへの贈り物を、あなたが実際に会う少数の者へと限定することはない。

あなたはそれ以外の者たちにも会うことができる。

会うということは肉眼へと限定せれてはいないからである。

ある者たちは、あなたが物理的に目の前に居ることを必要としない。

彼らは、送り出された瞬間にあなたを必要としており、それはあなたが彼らを必要としているのと同じか、それ以上の必要であるかもしれない。

あなたは彼らを、双方にとって最も助けになる何らかの形で認識するだろう。

どのようにして彼らがやってくるかは問題ではない。

彼らは、どんな形態であれ最も助けになる形態を纏って送られてくる。

たとえば、名前、考え、画像、アイデアであったり、あるいは、どこかに居る誰かに手を差し伸べているような感覚ということもあるかもしれない。

つながり合うということは、聖霊の手中にある。

それが達成されずに終わることはあり得ない。

 

神聖なセラピストは進歩した神の教師であり、彼は一つのことを決して忘れない。

すなわち、自分が救済のカリキュラムを作ったのではなく、その中における自分の役割を確立したのでもない、ということである。

彼は、自分の役割が全体にとって必要であると理解しており、それを通して、自分の役割が完了したときに自分は全体を認識するということも理解している。

それまでの間、彼は学ばねばならず、彼の患者たちこそが、彼のもとに送られてくる彼の学びの手段である。

彼らについて、また彼らに対し、感謝すること以外に、彼には何ができるというのだろう。

彼らは神を連れて、やってくるのである。

彼は、この贈り物を石塊と交換に、拒絶したいのだろうか。

あるいは、世界の救済者に扉を閉ざして、亡霊を中に入らせたいのだろうか。

彼に神の子を裏切らせてはならない。

誰が彼に呼びかけているのかは、彼の理解をはるかに超えている。

しかし、呼びかける者に応えることによってのみその呼びかけを聞くことができ、それが自分自身の呼びかけでもあると理解できるというときに、彼は自分が応えることができることを喜びたくはないだろうか。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅶ.患者とセラピストの理想的な関係

誰かの中に見る「罪」のようなものは、わたしの「罪」のようなもの。

 

そして、それはなんでもないもの。

 

そうして、見抜かれ、消えていく。

 

何も起こっていなかったことにうろたえるけど、ちゃんとうろたえたら、その後は安堵と至福につつまれる。

 

気楽さの中の祝福になる。

 

・・・

【第二章 精神療法のプロセス】 

 

Ⅶ.患者とセラピストの理想的な関係

 

では、誰がセラピストであり、誰が患者なのだろう。

最終的には、誰もがその両方である。

癒しを必要としている者は、癒さなければならない。

医者よ、汝自身を癒しなさい。

他に癒すべき誰がいるというのだろう。

そして、他の誰が、癒されることを必要としているだろう。

セラピストを訪れる患者の一人ひとりが、セラピストに自分自身を癒す機会を差し出している。

それゆえに、患者はセラピストのセラピストである。

そして、セラピストも、自分のもとへやってくる患者の一人ひとりから、癒すことを学ばねばならない。

そのようにして、セラピストは患者の患者となる。

神は分離のことを知らない。

神が知っているのは、ご自身にはひとりの子が居るということだけである。

神の知識は、患者とセラピストの理想的な関係に反映される。

神は呼びかける者のもとにやってくる。

そして呼びかけた者は神の中に神ご自身を認識する。

 

教師でありセラピストである者よ、あなたが誰のために祈るのか、誰が癒しを必要としているのかを、注意深く考えてみなさい。

治療とは祈りであり、癒しはその目標であると同時にその結果でもある。

祈りとは、キリストが中に入ってこられるような関係の中で心と心がつながり合うこと以外の何だろう。

これがキリストの家であり、精神療法はその家の中へと彼を招き入れる。

いつでも選べる別の症状があるというときに、症状の治療など何になるだろう。

しかし、ひとたびキリストが中に入ってくれば、彼にとどまってもらう以外に選択の余地はなくなる。

これ以上は何も必要ない。

それがすべてだからである。

癒しはここにある。

これらが、患者とセラピストの理想的な関係の「症状」であり、患者が助けを求めてやってきたときの症状と入れ替わる。

 

この関係の中で生じるプロセスは、実際のところ、セラピストが胸の中で患者に、彼の罪はすべて、セラピスト自身の罪とともに赦されたと告げるプロセスである。

癒しと赦しの間に、どんな相違があり得るだろう。

そして自らの無罪性を知っているキリストだけが、赦すのである。

キリストの心眼が知覚を癒し、病気は消滅する。

また、ひとたびその原因が取り去られたなら、それが再び戻ってくることはない。

しかし、これには、非常に進歩したセラピストの助けが必要である。

そうしたセラピストは神聖な関係の中で患者とつながることができ、その関係の中では、すべての分離の感覚がついに克服される。

 

このためには、一つのことが必要であり、しかもその一つだけが必要である。

それは、セラピストが決して自分自身を神と混同しないということである。

すべての「癒されていないヒーラー」は、何らかの形でこの根本的な混乱をきたしている。

なぜなら、彼らは自分自身を、神に創造されたものではなく、自分により創造されたものと見なさずにはいられないからである。

この混同が仮に自覚されることがあったとしても、それはきわめて稀である。

そうでなかったら、癒されていないヒーラーは、ただちに、自分の人生を真の癒しの機能のために捧げる神の教師となることだろう。

その地点に達する以前の彼は、自分には治療のプロセスが任されていると考え、それゆえに自分はその結果に責任があると思っていた。

それゆえに、彼の患者の間違いは、彼自身の失敗となり、罪悪感が暗く強力な覆いとなって、キリストの聖性であるはずのものを隠していた。

決断をするにあたって自分の判断を用いる者たちを通して聖霊に語ってもらう者たちにおいては、罪悪感は不可能である。

 

罪悪感の消滅が、治療の真の目標であり、赦しの当然の目標でもある。

このことの中に、両者がひとつのものであることが、はっきりと見て取れる。

しかし、兄弟のための導き手という役割の中で兄弟について責任を感じていながら、罪悪感の終わりを経験できる者などいるだろうか。

こうした機能は、ここに居る者は誰ももつことができないような見識を前提としている。

すなわち、過去、現在、未来についての確信、および、それらの中で生じるかもしれないすべての結果に対する確信である。

この全知の観点からのみ、このような役割は可能となる。

だが、いかなる知覚も全知ではなく、また、たったひとりで宇宙に対抗している微小な自己は、狂気の中でない限り、自分がそのような叡智をもっているなどと思い込むことはできない。

多くのセラピストが狂っているということは、言うまでもない。

癒されていないヒーラーは、誰も完全に正気ということはあり得ない。

 

しかし、神があなたに与えた機能を受け入れないことは、神が与えなかった機能をでっちあげることと同じく、狂っている。

進歩したセラピストには、自分の中にある力を疑うということがまったくできない。

また、彼がその源を疑うこともない。

彼は自分がそのようなセラピストであるがゆえに天と地におけるすべての力が自分に属しているということを理解している。

そして彼は、彼の創造主のゆえに、そうした存在である。

彼の中には創造主の愛があり、創造主が失敗することはあり得ない。

これが何を意味しているかを考えてみなさい。

彼は神ご自身という贈り物をもっており、それを与えることができるということである。

彼の患者たちは、彼の神聖さに頼ってそれを自分のものにしようとしている神の聖人たちである。

そして、彼がその神聖さを彼らに与えるとき、彼らは、キリストの輝く顔が自分たちを見つけ返しているのを見るのである。

 

狂った者たちは自分が神だと思っており、神の子に対して弱さを差し出すことを怖れない。

しかし彼らは、このことのゆえに自分が神の子の中に見るものを、本当に恐れているのである。

癒されていないヒーラーは、自分の患者たちを怖れずにはいられない。

そして自分の中に見ている裏切りが患者たちの中にあるに違いないと疑ってかかる。

彼は癒そうとしているので、ときには、癒すかもしれない。

しかし彼は、ほんのわずかの間、ある程度までしか成果をあげられないだろう。

彼は、呼びかけている者の中にキリストを見ない。

異邦人のように見えている者に対し、癒されていないヒーラーがどんな答えを与えることができるというのだろう。

彼はその異邦人を、真理にとっては異質で叡智に乏しい者、また、神をもたないので神を与えてもらわなければならない者として見ているのである。

その異邦人の中に、あなたの神を見なさい。

なぜなら、あなたが見るものが、あなたにとっての答えとなるからである。

 

二人の兄弟がつながり合うということが、真に何を意味しているか、考えてみなさい。

そしてそれから、世界を忘れ、世界の小さな勝利や死の夢をすべて忘れてしまいなさい。

同じ者たちはひとつのものである。

だから今では、罪悪の世界について何も思い出すことはできない。

部屋は神殿となり、街路は、病んだ夢のすべてを軽くなぞりながら通り過ぎていく星々の流れとなる。

完全無欠であるものは癒しを必要としないのだから、癒しは完了している。

そして罪のない所では、赦されなければならない何が残っているというのだろう。

 

セラピストよ、感謝しなさい。

あなたは、もし自分の正しい役割を理解しさえすれば、こうしたものごとをこのように見ることができるのである。

しかし、もしそれを理解し損なうなら、あなたは神があなたを創造したということを否定したのであり、それゆえに、自分が神の子であると知ることはないだろう。

そうなったとき、誰があなたの兄弟だろう。

どんな聖人が、あなたを一緒に家に連れ帰ることができるだろう。

あなたは道に迷ってしまったのである。

そのときあなたは、自分自身が与えることを拒否してきた答えを、彼の中に見ることなど期待できるだろうか。

癒して、癒されなさい。

この他に、平安へと導くことのできる道の選択肢はない。

さあ、あなたの患者を招き入れなさい。

彼は神のもとからあなたのところに来たからである。

彼の聖性だけで、神についてのあなたの記憶を目覚めさせるに充分ではないだろうか。

 

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅵ.癒しの定義

「過去」と「未来」に気持ちをもってくる人たちに対して、「過去」も「未来」もありません、とただキッパリと伝える。

 

「過去」と「未来」を信じているかぎり、「分離」が原因で、「分離」が結果になる。

 

それは「罪」を信じていることになる。

 

そして、問われているのはわたし自身のことだ。

 

わたしは、今、目のまえにいる方と共に、「今」だけにいる。

 

罪はどこにもない。

 

わたしは、わたしの「過去」と「未来」を知らない。

 

わたしは、その人の「過去」と「未来」を知らない。

 

「今」という永遠の存在だけを認めているし、それだけがリアルだと認める。

 

わたしの中の「今」は、目の前の人の中の「今」だ。

 

それ以上でも以下でもない。

 

昨日を知らない。

 

明日も知らない。

 

今という静寂。

 

今という無垢。

 

それだけがリアル。

 

それだけが実相。

 

すべてがひとつ。

 

わたしもその人も実相。

 

・・・

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 

 

Ⅵ.癒しの定義

 

それならば、精神療法のプロセスは、単に赦しであると定義できる。

いかなる癒しもそれ以外のものではあり得ないからである。

赦そうとしない者は、自分が赦されていないと信じているので、病んでいる。

罪悪にしがみつき、寄り添うようにそれを匿い、愛を込めて保護し、用心深く防衛するといったすべてが、赦すことに対する断固とした拒絶に他ならない。

「神はここに入ってはならない」と、病んだ者たちは幾度となく繰り返し、その間ずっと、自分の失ったものを嘆きながらもそれを喜んでいる。

癒しは、患者が自分の歌っている葬送歌を聞き始め、その妥当性を疑うようになるときに生じる。

それを聞くまでは、それを自分に向かって歌っているのは自分自身だということを、彼は理解できない。

それを聞くことが、回復の第一歩である。

その次に、それを疑うことが彼の選択とならなければならない。

 

一つの非常に強い傾向として、「一瞬だけこの死の歌を聞いて、その後はそれを未訂正のまま無視してしまう」というものがある。

そうしたつかの間の自覚は、文字通り「自分の歌の旋律を変える」ために私たちに与えられる多くの機会を表している。

その旋律の代わりに、癒しの調べを聞くことは可能である。

しかしまず、咎めの歌の「真実性」を疑問視しようとする意欲が生じなければならない。

自己概念の中に分かちがたく織り込まれた奇妙な歪曲が、その自己概念自体が疑似の被造物でしかないというのに、この耳障りな音を真に美しいもののごとくに思わせている。

けたたましい不協和音の叫び声が聞こえる代わりに、「宇宙のリズム」や、「天の御使いの歌」などといったものや、さらにもっと多くのものが聞こえてくるのである。

 

耳は翻訳するのであって、聞くことはしない。

目は再現するのであって、見ることはしない。

耳や目の任務は、何であれ要請されているものを、それがどんなに好ましくないものであっても好ましいものにすることである。

耳も目も心の決断に答えているのであり、心の欲求を再現し、それらを受け入れやすく心地よい形態へと翻訳する。

ときには、形態の奥にある想念がほんのわずかな間だけ漏れ出てきて、心が次第におびえるようになり、自分の正気を疑い始めることもある。

それでも、心は奴隷たちに、彼らが見る形や、聞く音を変えることを許可しない。

これらがその心による「治療法」であり、狂気からの「保護手段」なのである。

 

五感が運んでくるこれらの証言には、ただ一つの目的しかない。

すなわち、攻撃を正当化し、それにより、赦そうとしない思いの正体を認識されないままに保つことである。

あからさまに見られたなら、これは耐えがたいものである。

保護されていなければ、これが存続することはできない。

ここれは、すべての病気が大切に保たれている。

ただし、これがそのようなものだという認識は伴われていない。

というのも、赦そうとしない思いが認識されていないときには、それが纏う形は何か別のもののように見えるからである。

そして今や、その「何か別のもの」が恐怖を引き起こしているかに見える。

しかし、癒されることが可能なものは、その「何か別のもの」ではない。

それは病んでいないので、治療法を必要としていない。

あなたの癒しの努力をここに集中させることは、不毛なことでしかない。

病むことがあり得ないものを、誰が治療したり、回復させたりできるだろう。

 

病気は数多くの形をとるが、赦そうとしない思いも同様である。

一方が纏うさまざまな形態は、もう一方が纏うさまざまな形態を再現しているにすぎない。

というのも、それらは同一の幻想だからである。

一方はもう一方へときわめて忠実に翻訳されるので、ある病気の形態を注意深く研究すれば、それに表象されている赦そうとしない思いの形態をきわめて明確に指摘できるだろう。

しかし、これがわかったとしても、治療をもたらすことにはならない。

治療は、ただ一つの認識によってのみ達成される。

すなわち、赦しのみが赦そうとしない思いを癒し、赦そうとしない思いのみが、何らかの形の病気を引き起こすことができる、という認識である。

 

この認識が、精神療法の最終的なゴールである。

それはどのようにして達成されるのだろうか。

セラピストは、自分自身の中でまだ赦していないすべてを患者の中に見る。

そして、それにより、それらを直視する新たな機会を与えられ、それらを再評価し赦すことが可能になる。

これが起こるとき、彼は自分の罪を、もはやここには存在しない過去の中へと去っていったものとして見ることになる。

これを行うまでは、彼は悪というものを、今ここで彼につきまとっているものと考えざるを得ない。

患者は、セラピストの罪が投影されるスクリーンであり、その罪をセラピストが手放すことを可能にする。

彼が自分の見ているものの中にたった一つでも罪の汚点を保つなら、彼の解放は部分的なものとなり、確かなものではなくなるだろう。

 

誰もひとりだけでは癒されない。

これが、救済の声を聞くすべての者に向かって、救済がうたう喜ばしい歌である。

この言葉は、自分自身をセラピストと見なしている者たちの誰もが、何度でも繰り返して思い出すべきものである。

彼らの患者たちは、赦しを運んでくる者と見なされることしかできない者たちである。

というのは、未だに罪はそこに存在していて見ることができると信じている目に対し、自らの無罪性を実証しにくるのは、患者たちだからである。

だが、患者の中に見られてセラピストの中で受け入れられる無罪性の証拠は、両者の心に一つの聖約を差し出すことになる。

それにより、彼らは出会い、つながり合ってひとつのものとなる。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅴ.癒しのプロセス

以前は「説得」がどうにも苦しかった。

 

「その苦しみは、思い込みだ」とわかって欲しくても、警戒されたり、抵抗されたり、攻撃とみなされたり。

 

自分で、どうにか説得しなきゃいけないと、自力に頼り、高みに上らないと説得できないと、論破のための準備や学びに余念がなかった。

 

だけど、警戒も、抵抗も、攻撃も、それはわたしが作ったもの。

 

どんなに警戒されても、抵抗されても、攻撃されても、大丈夫なのだった。

 

それを感じるたびに、「わからなさ」にゆだねる。

 

警戒も、抵抗も、攻撃も、内側で生じた感覚は感じ取られて見抜かれて、消えていく。

 

こうして、わたしと兄弟はひとつだと気づく機会になる。

 

「空」をわかち合うための、「説得」に積極的であろう。

 

 

 

・・・

【第二章 精神療法のプロセス】

 

Ⅴ.癒しのプロセス

 

真理は単純であるとはいえ、果てしない複雑さの迷路の中ですでに道に迷ってしまった者たちに対しては、依然として、教えなければならないものである。

これが、巨大な幻想である。

その結果として必然的に生じる信念が、「安全であるためには、人は未知のものを制御しなければならない」というものである。

この奇妙な信念は、決して意識されることのない特定のステップを拠りどころとしている。

まずはじめに、それは、「ともかく生きているためには克服されるべきいくつもの勢力がある」という信念によって招き入れられる。

そして次に、あたかもこれらの勢力は、肥大した自意識によってのみ、遠ざけて置くことができるものであるかに見える。

そしてこの自意識は、真に感じていることを闇の中に保持し、幻想のほうを明るみに出しておこうとしている。

 

助けを求めて私たちのところにやってくる者たちは激しく恐れているということを、覚えておこう。

助けになると彼らが信じているものは、害になるだけであり、害になると彼らが信じているものだけが、助けになる。

患者が世界を見ているねじれたやり方を、すなわち彼自身を見ているねじれたやり方を逆転させよう。

患者本人を説得できるまでは、進歩は不可能である。

真理は単純である。

しかし、真理が自分たちに危険をさらすと思っている者たちには、真理を教えなければならない。

危険にさらされていると感じているがゆえに攻撃する者たちや、何にもまして防衛しない態度を養うレッスンを必要としている者たちに対しては、強さとは何かを示すために、真理を教えなければならない。

 

もしこの世界が理想的なものであったなら、おそらく理想的な治療もあり得ただろう。

とはいえ、理想的な状況においてはそのようなものは無用である。

私たちは、理想的な教師が長くとどまることのできないような世界における理想的な教え方について話している。

そこでは、完璧なサイコセラピストなど、まだ思われたこともない想念のかすかな光にすぎない。

しかし、それでも私たちは、達成可能な範囲内で、狂気の者たちを助けるために今のところ何ができるかについて、話ているのである。

彼らが病んでいる間は、彼らを助けることはできるし、助けなければならない。

それ以上のことは、精神療法には要求されていない。

また、自分がもっていて与えることのできるすべてよりも少ないようなものは、セラピストにふさわしくはない。

なぜなら、神ご自身が、彼の兄弟を、世界から彼を救う救済者として差し出しているからである。

 

癒しは神聖である。

この世界において、助けを求める者を助ける以上に神聖なことはない。

そして、たとえいかに限定されていようと、いかに誠意に欠けていようと、二人の者はこの試みにおいて神にきわめて接近するのである。

二人の者が癒しのためにつながり合ったところには、神が居る。

そして、神は、真に彼らのことを聞き、彼らに応えると、保証している。

癒しは神が指揮しているプロセスであると、彼らは確信してよい。

なぜなら、癒しは神の意志に従っているからである。

兄弟を助けようとするとき、私たちには、私たちを導いてくれる神の言葉がある。

自分たちだけでは非力であることを忘れずにいよう。

そして、何を学び、何を教えるかについても、自分たちの小さな範囲を超越した強さを頼みとしよう。

 

援助を探し求めている兄弟は、いかなる夢の中で知覚される高みをも超えた贈り物を、私たちにもたらすことができる。

彼は私たちに救助を差し出すのである。

というのも、彼はキリストおよび救済者として、私たちのもとのやってくるからである。

彼が求めるものは、彼を通して神が求めるものである。

そして、私たちが彼のために為すことは、私たちが神に与える贈り物となる。

聖なる神の子が自ら知覚している苦悩の中で助けを求めているとき、その神聖な呼びかけに応えることのできるのは彼の父のみである。

しかし、神は、ご自身の神聖な言葉を語るための声を必要としている。

神の子に差し伸べ、彼のこころに触れるための手を必要としている。

このようなプロセスにおいて、誰が癒されずにいられるだろう。

この神聖な関わり合いが、神ご自身の計画であり、それにより神の子が救われる。

 

二人の者がつながり合ったからである。

そして今や、神の約束が神のより守られる。

患者とセラピストの両方に課せられている限界は無いも同然となる。

癒しが始まったからである。

彼らが始めなければならないことは、父が完了させるだろう。

なぜなら、神はこれまで一度として、ほんの小さな意欲と最小限の進歩と、神の名を囁くかすかな声以上のものは求めたことがないからである。

いかなる形を取ろうとも、助けを求めるということは、ただ神に呼びかけることであるにすぎない。

そして神は、神の子の現在の必要のすべてに最も役立つことのできるセラピストを通して、神の答えを送るだろう。

その答えは天国からの贈り物であるようには見えないかもしれない。

それが助けではなく状況の悪化と見えることさえあるかもしれない。

しかし、結果を私たち自身で裁くことはしないでいよう。

 

すべての神の贈り物はどこかで必ず受け取られる。

時間の中で努力が無駄になることはあり得ない。

癒そうとする試みにおいて私たちに求められるものは、自分の完璧さではない。

癒しの必要というものが存在すると思っているのなら、私たちはすでに欺かれている。

そして、真理は、病気という私たちの夢を共有しているかに見える者を通してのみ、私たちのもとに訪れる。

彼が原因もなく自分自身を咎めようとして使ってきたすべての罪過について自分自身を赦せるように、彼を助けよう。

彼の癒しは私たち自身の癒しである。

そして、神の子を覆っていた罪悪のベール越しに彼の無罪性が輝くのが見えるとき、私たちは彼の中にキリストの顔を見て、それが私たち自身の顔に他ならないことを理解するだろう。

 

私たちは無言で神の意志の前に立ち、その意志が、私たちが為すべきと選んだことを為そう。

すべての夢が始まったところへと行き着く道は、ただ一つしかない。

そしてそこにおいて、私たちはそれらの夢を手放し、平安の内に永遠にそこに立ち去る。

兄弟が助けを求めているのを聞き、彼に答えなさい。

あなたが神を呼んだからである。

神の声を聞くための道は他にない。

神の子を探すための道は他にない。

あなたの自己を見つけるための道は他にない。

癒しは聖なるものである。

その優しい抱擁を通して、神の子が天国へ帰るからである。

癒しは神を代弁する声を通して、彼のすべての罪は赦されたと彼に告げるからである。