【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

祈りの歌 第二章 赦し  Ⅲ.救済のための赦し

「わからない」

「理解し得ない」

「わかる必要がない」

 

その「信頼」の中に入る。

 

平安になんの条件も必要はない。

 

判断をやめて、しずかにすみやかに無条件の幸せのなかへと。

・・・

 

第二章 赦し  

 

Ⅲ.救済のための赦し

 

「救済のための赦し」には一つの形があり、その一つがあるだけである。

それは無垢性の証拠を求めることはなく、いかなる種類の支払いも求めない。

議論することはなく、見過ごしたいと望んでいる誤りについて価値を見きわめようとはしない。

裏切りながら贈り物を差し出すことはなく、死を要求しながら自由を約束することもない。

神があなたを欺くだろうか。

神はただ、信頼と、自由になる方法を学ぼうとする意欲とを求めているだけである。

神は、求める者や、神の意志を理解しようとする者なら誰にでも、神の教師を与える。

神がいかに喜んで与えようとしているかは、あなたの理解やあなたが容易に把握できる範囲をはるかに超えている。

だが、神はあなたが神に戻る道を学ぶことを意志した。

そして、神が意志しているのだから、それは確実である。

 

神の子供よ、神の贈り物は、あなた自身の計画によってではなく神聖なる神の意志によって、あなたのものである。

赦しとは何か、そして、どのようにして神が意志する通りに赦しを与えるのかを、神の声があなたに教えるだろう。

だから、今はまだあなたを超越しているものを、理解しようとするのはやめなさい。

そうではなく、それを、あなたを引き上げるための一つの方法とならしめ、あなたがキリストの目を自分の視覚とすることを選ぶ地点まで引き上げてもらいなさい。

その他のすべては放棄しなさい。

なぜなら、それ以外には何もないからである。

誰かが何らかの形で助けを求めるとき、あなたに代わって答える存在がキリストである。

あなたがすべき唯一のことは、一歩退いて、邪魔しないことだけである。

「救済のための赦し」は、キリストの任務であり、あなたに代わって応答するのは彼である。

 

キリストによる赦しが表れる形がどのようなものとなるべきかを、自分で定めてはならない。

あなたがついに父の家へと急ぐために立ち上がるとき、一つひとつの呼びかけがあなたにとって助けとなるようにする方法を、彼は知っている。

今、彼はあなたの足取りを確かにし、あなた自身の誠実さによってではなく、彼自身の誠実さによって、そうするのである。

あなたがどのようにして赦すかについては、彼に責任をもってもらいなさい。

そうすれば、一つひとつの状況が、天国と平安へと向かうさらなる一歩となるだろう。

 

あなたは幽閉されていることに倦み疲れてはいないだろうか。

神はこの嘆かわしい道程をあなたのために選びはしなかった。

あなたが選んだものは、依然として取り消しが可能である。祈りは慈悲深く、神は公平だからである。

神の正義には理解できる正義であるが、あなたにはまだ理解できない。

それでも神は、あなやが神から学ぶための手段をあなたに与える。

そして、咎めは実在しておらず、その邪悪な名において幻想を作り出しているということを、あなたがついに知ることができるようにする。

とはいえ、夢が纏っているかに見える形態は問題ではない。

幻想は真実ではない。

神の意志が真理であり、あなたは意志と目的において神とひとつである。

ここにおいて、すべての夢が終わる。

 

「あなたの聖なる子である彼のために、私は何をすればようのでしょうか」ーこれが、助けを必要とされ、赦しが求められているときにあなたが尋ねるべき唯一のことである。

赦しがどのような形で求められているかについては、あなたが判断する必要はない。

そして、赦しが神の子を救いにくる形態を、あなたが自分で定めることのないようにしなさい。

彼の中に居るキリストの光が、彼の解放であり、彼からの呼びかけに応えるのはこの光である。

あなたがすべきことだとキリストが決めている通りに、彼を赦しなさい。

そして、あなたがキリストを代弁して語りなさい。

彼は必要とされているものを知っている。

すなわち質問と答えを知っている。

彼は、あなたが理解できて使うこともできる言葉で、まさに何をすべきかを語ってくれるだろう。

彼の機能をあなた自身のそれと混同してはならない。

彼が応えである。

あなたはそれを聞く者である。

 

そして彼は何について、あなたに語るだろうか。

救済について、そして平安という贈り物についてである。

罪と罪悪感と死の終わりについてである。

そしてまた、彼の中で赦しがもつ役割についてである。

あなたはただ耳を澄ましなさい。

なぜなら、キリストの名に呼びかけ、自分の赦しをキリストの手にゆだねる者なら誰にでも、彼の語ることが聞こえるからである。

赦しは、彼が教えるべきものとして彼に与えられた。

それは、赦しを破壊から救うため、そして、分離と罪と死の手段が再び神の聖なる贈り物となるようにするためであった。

祈りとは、真の赦しが彼の永遠なる見守りと愛から生じるままにされたときに、自由になって救うことができるようになる神ご自身の右手である。

耳を傾け、学びなさい。

そして裁いてはならない。

あなたが自分のすべきことを聞くために頼るのは、神である。

神の答えは夜明けのごとく明らかであり、神の赦しも、あなたが赦しだと思っているものとは違っている。

 

それでも神は知っている。

そしてそれで充分である。

赦しには教師がおり、その教師は何ごとにおいても失敗することがない。

このことの中で、しばし安らぎなさい。

赦しを判断しようとしたり、地上的な枠組みに入れようとしてはならない。

それをキリストのもとまで上昇させなさい。

キリストはそれを神への贈り物として歓迎するだろう。

神は慰めもなくあなたを放っておくことはしない。

また、神ご自身の名においてあなたに答えるために、神の天使たちを遣わすことに失敗することもない。

神は扉の傍らに立っており、赦しはその扉を開く唯一の鍵である。

あなたの代わりに神に使ってもらえるように、それを神に渡しなさい。

そうすれば、音もなく扉が開いてキリストの輝く顔が顕わになるのを、あなたは見るだろう。

その扉の向こうに居るあなたの兄弟を眺めなさい。

それが、神が創造したままの神の子である。

祈りの歌 第二章 赦し Ⅱ.破壊するための赦し

この世界に「解釈」を持ち込まなくていい。

 

自分でいろいろ決めていたんだなぁと。

 

これは罪で、これは大丈夫・・・・など。

 

わたしが、本当に知っていることなど何「あっただろうか?

 

何にもない。

 

何にもわからない。

 

わからない、を認めたら、ホッとした。

 

「解釈」から解放されることが「自由」をもたらしてくれる。

 

もう、なにも決めつける必要がない。

 

まずは、このシンプルすぎることへの抵抗を素直に感じ、休らうさまを見届けよう。

 

わからないはゆるし。

 

忘れたもゆるし。

 

優しい事実に抱きしめられる。

 

・・・

第二章 赦し 

 

Ⅱ.破壊するための赦し

 

「破壊するための赦し」は形態の世界の武器であり、数多くの形で現れる。

そのすべてがすぐそれをわかるものではなく、そのいくつかは、慈愛のごとく見えるものの背後に注意深く隠蔽されている。

だが、それが纏っているかに見えるすべての形には、単一のゴールしかない。

それらの形が目的としているのは、分離することであり、神が同じものとして創造したものを異なるものにすることである。

この相違が明白に表れているいくつかの形態においては、仕組まれている通りの対比が見逃せないものとなっているだけではなく、実のところ、見逃せないように意図されている。

 

この範疇においては、まず最初に、「より善良な」者がもったいなくも腰を低めて、「卑劣な」者をその真の卑劣さから救い出してやるための数々の形態がある。

ここにおいて赦しは、恵みをたれる高貴な者といった態度の上に成り立っており、そうした態度はあまりにも愛からかけ離れているため、そこから傲慢さを除去することは不可能である。

誰が赦しながら軽蔑することなどできるだろう。

そして相手に向って彼が罪にまみれていると告げておきながら、彼を神の子と知覚することができる者がいるだろうか。

奴隷を作り出しておいて、自由とは何かを教えられる者がいるだろうか。

ここには融合ではなく、悲嘆があるのみである。

これは実際のところ慈悲ではない。

死である。

 

もう一つの形態は、もし理解されるなら、依然として最初のものと非常によく似ているが、それほど露骨な傲慢さには見えない。

他者を赦そうとする者が、自分のほうが善良だと主張することはしない。

その代わりに今や彼は、ここに罪深さを自分と共有している相手が居ると言う。

なぜなら、二人とも卑劣だったので、神の怒りによる天罰を受けるに値するからである。

これは謙虚な考えのように見え、実際に、罪深さと罪悪感のついての競争心を生み出すこともある。

これは神の被造物への愛ではなく、永遠なる神の贈り物である聖性でもない。

神の子が自分自身を咎めていながら、それでも神を思い出すことなどできるだろうか。

 

ここにおけるゴールは、神の愛するわが子を神から分離させ、彼を源から離しておくことである。

このゴールはまた、他人の手にかかって死ぬ殉教者の役割を求める者によっても希求されている。

ここにおいて、この目標がはっきりと見られなけれなならない。

なぜなら、これが残忍さではなく柔和さや慈愛としてまかり通ることがあるからである。

他人の悪意に対して寛容であり、沈黙と優しい微笑みだけをもって応じるというのは、親切なことではないだろうか。

見よ、他人がもたらす怒りや傷を、忍耐と、聖人のごとき気高さで耐え忍び、自分が感じている激しい苦痛を表に出さないあなたは、何と善良であることだろう。

 

「破壊するための赦し」は、しばしば、こうした覆いの後ろに身を隠す。

罪悪と、罪による惨害とを、無言で証明するものとして、苦しみと痛みの顔をちらつかせる。

こうしたものが敵どころか救済者となることのできる相手に対して、この種の赦しが差し出す証言である。

しかし、敵にされてしまった彼は、罪悪と、そのようにして彼に負わされた重度の譴責を、受け入れるしかない。

これが愛だろうか。

それともむしろ、罪悪感の苦痛からの救済を必要とする者に対する背信だろうか。

その目的は、罪悪の証人を愛から離しておくこと以外の何だろう。

 

「破壊するための赦し」はまた、駆け引きと妥協の形をとることもある。

「もしあなたが私の必要を満たしてくれるなら、私はあなたを赦そう。あなたの奴隷の中に、私の解放があるのだから」。

誰かに対してこう言うなら、あなたは奴隷である。

そして、あなたはさらなる駆け引きにおいて、自分の罪悪感を取り除こうとするが、それはあなたに望みを与えることはできず、より大きな苦痛と不幸を与えるだけである。

そうなると、赦しとは何と恐ろしいものになることだろう。

それが追求する結末は、なんと歪曲されていることだろう。

このような駆け引きをするあなた自身を哀れみなさい。

神は与えるのであって、返礼は求めない。

神が与える通りに与える以外に、与えるということはできない。

それ以外のすべては、紛いものである。

なぜなら、神の子と駆け引きとしようとしながら、彼の聖性について彼の父に感謝する者などいないからである。

 

あなたは兄弟に何を見せたいだろうか。

あなたは彼の罪悪感を強化して、それによって自分自身のそれをも強化したいだろうか。

赦しは、あなたの脱出のための手段である。

それを、さらなる隷属と苦痛のための手段にするとは、何と哀れなことだろう。

相対立するものでできているこの世界の中にも、神のゴールのための赦しを使い、神があなたに差し出している平安を見つけることのできる道がある。

それ以外の何を受け取ることもやめなさい。

さもなければ、あなたは自分の死を求めたのであり、自分の自己から分離することを祈ったのである。

キリストはすべての者の中に居るので、すべての者のために存在している。

赦しがあなたに見せるのは、キリストの顔である。

そしてあなたは、キリストの顔の中に自分の顔を見るのである。

 

赦しが纏う形で、怒りや咎めやあらゆる種類の比較から離れる方向へと導かない形はすべて、死である。

なぜなら、それが、そうした形がもつ目的が定めたものだからである。

それらに騙されてはならない。

その代わり、それらを無価値なものと見なして、それらが差し出している痛ましい者の中に置き去っていきなさい。

あなたは隷属状態の中にとどまることを望んではいない。

神を恐れることも望まない。

あなたは陽光を見たいと望み、罪から救われ、神の愛に抱かれて、地の面を照らす天からの光を見たいと望んでいる。

ここからなら、祈りは、あなたと共に解き放たれる。

あなたの翼は自由になり、祈りがあなたを引き上げ、神があなたを住まわせたいと望む家へと、あなたを連れ帰るだろう。

祈りの歌 第二章 赦し 序 Ⅰ.自分を赦すこと

「結果」の世界に、赦しを持ち込むのではなく、「結果」の世界を見過ごすことが赦し。

 

他者に罪を見るとき、それは、わたしがそう決めたから。

 

それを「罪」と見ようと。

 

本当は何も起こっていない。

 

その「わからなさ」にゆだねる。

 

「無垢性」にまかせる。

 

「静けさ」にくつろぐ。

 

そうしているうちに、この世界は、本当になにも起こっていなかったんだと気づいていく。

 

対人関係で杞憂されたさまざまな出来事は祝福に変わる。

 

嘆きは終わっていく。

 

優しさに包まれている。

 

わたしはわたしという実相に赦され、癒され、くつろがれていく。

 

・・・

祈りの歌

第二章 赦し

 

序 

 

赦しは祈りに翼を与え、その飛翔を容易にし、その進歩を速やかにする。

赦しによる強力な支えがなければ、祈りの階梯の最下段より上に進もうとすることは無駄であり、そもそも上ろうとする試みさえもが無駄ということになるだろう。

赦しは、祈りの同盟者である。

また、あなたの救済のための計画においては、祈りの姉妹である。

両者が揃うことが必要であり、それがあなたを支え、足どりを安全に保ち、目的を確固として不変のものとする。

あなたが神に到達するまでの間、あなたと共にあるようにと神が定めた最大の助けを、よく見てみなさい。

これと共に幻想の終わりがくるのである。

赦しの姉妹である祈りの超時的な特質とは異なり、赦しには終わりがある。

上昇が完了したときには、赦しは必要なくなるからである。

だが今は、赦しには目的がある。

あなたがその目的を超えて進むことはできないが、その必要もない。

この目的を達成しなさい。

そうすれば、あなたは救われたことになる。

これを達成しなさい。

そうすれば、あなたは変容を遂げたことになる。

これを達成しなさい。

そうすれば、あなたは世界を救うだろう。

・・

 

Ⅰ.自分を赦すこと

 

天国からの贈り物で赦しほど誤解されてきたものはない。

実は、それは苦行となり果ててしまった。

赦しはそれが祝福するはずだった場で呪いとなり、恩寵と真似た残酷な紛いものとなり、神の聖なる平安の戯画化となっている。

だが、まだ祈りの諸階段を上り始めることを選択していない者たちは、赦しをそのように使うことしかできない。

赦しの優しさははじめのうちは曖昧である。

なぜなら、救済が理解されておらず、真に求められてもいないからである。

癒すはずだったものが、傷つけるために使われている。

赦しが望まれていないからである。

罪悪感が救済となっていまい、治療法のほうが、生命に代わる恐ろしい選択肢のように見えている。

 

したがって、赦しの真の目的よりも、また、赦しのゴール達成のための誠実な手段よりも「破壊するための赦し」のほうが、この世界の目的にはるかに適するものとなる。

「破壊するための赦し」は、自らが探し求め、見つけて「愛する」ことのできる罪や罪悪はどれ一つ、見逃さない。

それは誤りを大切にしているため、その視界には数々の間違いが大きく立ち現れ、増大し、膨れ上がっていく。

それは注意深くすべての邪悪はものごとを拾い出し、愛するものについては、疫病を避けるかのごとく目を向けず、危険や死のように憎むべきものと見ている。

「破滅するための赦し」そのものが死であり、それは自らが見る一切の中に死を見て、それを憎む。

こうして神の慈悲が、神が愛する聖なる神の子を破壊しようとするねじれた短剣となってしまったのである。

 

こうしたことを行っているあなたは自分自身を赦したいだろうか。

それならば、平安のうちに神へと戻ることを可能にする手段を、神があなたに与えたいということを学びなさい。

誤りを見てはならない。

それを実在のものとしてはならない。

その誤りの代わりにキリストの顔を選ぶことにより、愛あるものを選択し、罪を赦しなさい。

それ以外にどのようにして、祈りが神のもとへと戻っていくことができるだろう。

神はわが子を愛している。

神を記憶にとどめていながら、神の創造したものを憎むことなどできるだろうか。

もしあなたが神の愛する子を憎むなら、あなたは彼の父をも憎むことになる。

なぜなら、あなたは自分が神の子を見る通りに自分自身を見るのであり、あなたにとっての神は、あなたが自分自身を見る通りのものだからである。

 

祈りが常にあなた自身のためのものであるのと同様に、赦しもまた、常にあなた自身に与えられている。

他者を赦すということは不可能である。

なぜなら、あなたが彼の中に見ているのはあなたの罪のみだからである。

あなたはそれを自分の中ではなく、そこに見たいのである。

だからこそ、他者を赦すことは幻想なのである。

それでも、それはこの世界でただ一つの幸せな夢である。

あなたを死に導くことのない唯一の夢である。

他者の中においてのみ、あなたは自分自身を赦すことができる。

なぜなら、あなたが自分の罪を着せて彼を有罪と呼んだので、今では、あなたの無垢性を彼の中に見つけなければならなくなっているからである。

罪深き者以外に、赦される必要のある者などいない。

そしてあなたは、自分自身以外の誰かの中に罪を見ることができるなどと、決して思ってはならない。

 

こうしたことが、この世界の巨大な欺瞞であり、あなたは、自分自身を欺くことに長けた詐欺師である。

邪悪なのは常に他人であるように見え、その他人の罪の中で、傷ついている者はあなたである。

これが事実であったなら、どのようにして自由が可能になるというのだろう。

あなたはすべての者の奴隷ということになる。

なぜなら、相手が行うことが、あなたの運命や感情を決め、絶望か希望か、惨めさか喜びかを決めることになるからである。

彼が自由をあなたに与えない限り、あなたには自由がないことになる。

そして邪悪である彼には、彼自身の邪悪さしか与えることができないということになる。

あなたは彼の罪を見て自分の罪を見ないということはできない。

しかし、あなたは彼を解放して、自分自身も一緒に解放することができる。

 

真に差し出される赦しは、あなたが自由になれる唯一の希望を内包する道である。

世界という幻想があなたの家であるように見えている限り、他人たちは間違いを犯すし、あなたも同様である。

だが、神ご自身がすべての神の子に、彼らが見ていると思っているすべての幻想を癒す治療法をすでに与えている。

キリストの心眼があなたの目を使うことはないが、あなたは彼の目を通して見ることができ、彼のように見ることを学ぶことができる。

間違いというものは、すぐに消えてしまう微小な影であるから、キリストの顔をほんの一瞬だけ隠すように見えるものにすぎない。

すべての間違いの背後には、キリストの顔が今も変わらぬままにあり続ける。

彼の恒常性は、穏やかな静寂と完全なる平安の中にとどまっている。

彼は影というものを知らない。

彼の目は、誤りを見過ごしてあなたの内なるキリストを見る目である。

 

それならば、彼からの助けを求めなさい。

そして、彼の心眼がそこに見ている通りの赦しを学ぶ方法を、彼に尋ねなさい。

あなたが彼に与えるものを必要としている。

そして、あなたの救済は、このことを彼から学ぶことにかかっている。

「破壊するための赦し」があなたのもとにとどまっている間は、祈りが天国へと解き放たれることは不可能である。

神の慈悲は、あなたの神聖な心からこの萎びて毒された思考を取り去ろうとする。

キリストはあなたを赦した。

そして、彼の視界の中で、世界は彼自身と同じく神聖になる。

世界の中に悪を見ない者は、彼が見るのと同じように見るのである。

なぜなら、彼が赦したものは、罪を犯したことのないものであり、罪悪はもはや存在し得ないからでる。

救済の計画は完了した。

そして、正気が訪れたのである。

 

赦しは正気への呼びかけである。

というのも、キリストの顔を見ることができるときに罪を見ていようとする者など、狂人以外にはいないからである。

そしてこれが、あなたの行う選択である。

それはもっとも単純な選択だが、あなたにできる唯一の選択である。

キリストの愛を差し出すことにより神の子を死から救い出すようにと、神はあなたに呼びかけている。

これがあなたの必要としているものであり、神はその贈り物をあなたに差し出している。

神が与えようとしている通りに、あなたも与えなければならない。

そのようにして、祈りは無形性を回復し、あらゆる限界を超越して超時性の中へと戻っていく。

そこには、全被造物が神に向かってうたう絶えることなき歌の中へと、祈りが再び融合するのを引き止めるような、過去からのものは何もない。

 

しかし、この最終目標を達成するためには、学びの終わる地点に達するまで、あなたはまず学ばねばならない。

赦しは鍵であるが、その鍵だけが差し込めるように造られた鍵穴のなる扉を見失っているときに、誰がその鍵を使えるだろう。

だから私たちは区別する。

それにより、祈りが闇から光に解き放たれることが可能になる。

赦しの役割が逆転されなければならず、邪悪な用途や忌むべきゴールから清められなければならない。

「破壊するための赦し」は、その裏切りのすべてにおいて顕わにされ、それから、それを限りに永遠に、放棄されなければならない。

帰還のために神が定めた計画がついて達成されて学びが完了するためには、その痕跡も残されてはならない。

 

ここは、相対立する者でできている世界である。

そして、この世界があなたに対し実在性を維持している間は、あなたは毎瞬、相対立するもののどちらかを選択しなければならない。

しかしあなたは、選択できる選択肢を学ばねばならない。

さもなければ、あなたは自分の自由を達成することができない。

それならば、あなたにとって赦しとは厳密に何を意味しているのかを、あなた自身に対して明らかにしなさい。

そして、自分を自由にするために、赦しとはいかなるものであるべきかを学びなさい。

あなたの祈りのレベルはこのことにかかっている。

なぜなら、祈りはここで、混沌の世界を超えて平安へと上昇していく自由を持っているからである。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り Ⅴ.階梯の終わり

「無私性」が自己!

 

祈りは、「無私性」、「共有」部分への賛美。

 

内なるキリストを認める。

 

この時空へ流れていく意識は、感情感覚を素直に感じることで忘れられていく。

 

すべてがあるのだから。

 

限定した小さくて脆弱な輪郭は消える。

 

永遠の賛美。

 

・・・

第一章 祈り

 

Ⅴ.階梯の終わり

 

祈りは、真の謙遜への道である。

ここでも、祈りはゆっくりと上昇し、力強さと愛と聖性を増してゆく。

祈りが神に向かって昇り始めるこの地上から、それがただ離れてゆくままにさせなさい。

そうすれば、真の謙虚がついに訪れて、自分がたったひとりで世界に立ち向かっていると考えていた心に、恩寵を与えるだろう。

謙遜は平安を運んでくる。

なぜなら、謙遜は、自分が宇宙を支配しなければならないとは主張せず、すべてのものごとを自分が望む通りに判断することもないからである。

すべての小さき神々を、謙遜は喜んで脇に寄せる。

しかも、憤りによってではなく、正直さと、それらの神々が役に立たないという認識において、そうするのである。

 

幻想と謙遜は、それぞれまったくかけ離れたゴールをもっているので、両者が共存することはできない。

また、両者が出会えるような住居を共有することもできない。

一方が訪れたところでは、他方は消え失せる。

真に謙虚な者には、神以外のゴールはない。

なぜなら、彼らはどんな偶像も必要とせず、防衛はもはや何の目的にも役立たないからである。

今や敵たちは無用となる。

謙遜が敵対することはないからである。

謙遜は、創造が神の意志であることを知っており、自らの本性に満足しているので、恥じ入って隠れることはない。

その無私性が自己であり、これを、謙遜はすべての出会いの中に見る。

そこでは、それはすべての神の子と喜んでつながり、神の子の清らかさを自らも彼と共有していると認識する。

 

今や、祈りは、ものごとや肉体やあらゆる種類の神々から成る世界から引き上げられ、あなたはついに聖性の中で休らうことができる。

謙遜は、どのようにすればあなたが神の子としての自分の栄光を理解して罪の傲慢さを認識できるのか、その方法を教えるためにやってきた。

一つの夢が、あなたからキリストの顔を隠してきた。

今、あなたは彼の無罪性を見ることができる。

階梯は高く聳え立つまでになった。

あなたは、ほとんど天国の近くまできている。

旅が終わるまでの間に学ぶべきことは、あとわずかしかない。

今では、祈りにおいてあなたとつながるすべての者に対し、あなたは次のように言うことができる。

 

私はあなたがいなければ進むことができない。

あなたは私の一部なのだから。

 

そして真理においては、彼はその通りのものである。

今では、あなたは彼と真に共有しているもののみを求めて祈ることしかできない。

なぜならあなたは、彼が一度も去ってはいなかったということや、孤独だと思えた自分が彼とひとつのものだということを、理解したからである。

 

これとともに階梯は終わる。

これ以上、学びは必要ないからである。

今、あなたは天国の門の前に立ち、あなたの兄弟もそこであなたの傍らに立っている。

芝生は深々として、静かである。

ここでは、あなたが来るべき時のために約束されていた場所が、長い間あなたを待っていた。

ここで時間は永遠に終わる。

この門で、永遠そのものが、あなたとひとつにつながるだろう。

祈りは、本来それが意図されていたものとなった。

あなたが自分の中のキリストを認識したからである。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り Ⅳ.他者と共に祈る

心はひとつであり、そこに向かうことだけが共有される。

 

心をそろえる。

 

個人個人の目論みが手放されるときに、ゆるぎないくつろぎが広がる。

 

これまで間違ってきたけど、それも一緒にとけていく。

 

すべてのひとの中のゆるぎなさを讃える祈り。

 

・・・

第一章 祈り 

 

Ⅳ.他者と共に祈る

 

少なくとも第二のレベルが始まるまでは、人は祈りを共有できない。

というのは、その地点に達するまでは、一人ひとりがそれぞれ異なるものを求めずにはいられないからである。

しかし、ひとたび他者を敵としておく必要が疑問視されたなら、そして、そうする理由がほんの一瞬だけでも認識されたなら、祈りにおいてつながることが可能となる。

敵同士は一つのゴールを共有しない。

このことの中でこそ、彼らの敵意が保たれている。

彼らの個別の願望が、彼らの武器であり、憎しみの中の要塞である。

祈りにおいてさらなる上昇を遂げるための鍵は、次のような単純な考え、すなわち心の変化にある。

 

あなたと私は、連れ立って進む。

 

今や、祈りにおいて助けることが可能となり、そうすることで、あなた自身の上に進むことができる。

この段階から、より速やかな上昇が始まるが、それでもまだ、学ぶべき多くのレッスンがある、

道は開かれており、希望を抱いても大丈夫である。

それでも、最初のうちは、祈りのおいてつながる者たちでさえ、祈りが真に追求すべきゴールではないものを求めがちである。

共に祈るときでも、あなた方はものごとを求めることがあり、それにより、共有しているゴールという幻想を打ち立てるだけとなる。

具体的なものを共に求めていながら、自分たちが原因を抜きにして結果だけを求めているということに気づいていないこともある。

そして、あなた方はこれを手に入れることができない。

というのも、結果を生じさせることのない原因に向かって、結果を与えてくれるよう求めて、結果だけを受け取ることができる者などいないからである。

 

それならば、共に祈る者たちがまずはじめに何が神の意志であるかを尋ねるのでなければ、そうしたつながり合いでさえ充分ではない。

この原因からしか、すべての具体的なものごとを満足させる答えが生じることはあり得ない。

そしてその答えの中では、すべての個別の願望がひとつに統合されている。

具体的なものごとを求める祈りは、常に、何らかの形で過去が繰り返されることを求めている。

かつて楽しまれていたもの、そのように見えたもの、また、他の人のものでその人が好んでいるように見えたものなどーーこれらすべてが、過去からの幻想にすぎない。

祈りの目指すところは、現在が引きずっている過去の幻想の連鎖から現在を解放することである。

そしてまた、間違いを表していた選択の一つひとつから癒されるための治療法として、祈りが自由に選択されるようになることである。

祈りが、今、差し出すことができるものは、あなたが以前に求めたもののすべてをはるかに凌駕するのだから、それ以下のもので満足するのは嘆かわしいことである。

 

あなたは祈る度に、新たな機会を選択してきたのである。

それなのにあなたは、往古の牢獄のすべてから即座に自分自身を解放できる機会が訪れたというときに、その機会を抑え込んで、再び牢獄に閉じ込めておきたいのだろうか。

自分の求め方を限定してはならない。

祈りは、神の平安をもたらすことができる。

崩れて塵に返るときまでしか存続しない狭い空間において、時間に縛られているどんなものが、これ以上のものをあなたに与えることができるだろう。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り Ⅲ.他者のために祈る

心の中にある「気がかり」を気がかりとして、まだ、見ている。

 

この「気がかり」を本当に、ただゆるし、「なんでもないもの」をしてそこに置く。

 

もう一度、あらためて、見つめてみる。

 

・・・

 

実家の祖父の異常な恐怖による抑圧と支配、両親の葛藤、その両親の離婚と、その後の両親のメンタルへの気遣い、親戚の叔父叔母への気遣い、田舎の古いしきたり、古い家、それらから逃げた。

そのときに、一人の叔母から「あんたを一生許さない」と言われた。

 

本当に逃げたかったのは、「不幸」を信じている、その分離意識の集合体。

 

みんな、内側にある確かさにさえつながっていれば、お互いを、微妙な恐怖で縛るような関係にはならなかっただろうに、それをわからない大人たちが、ゆるせなかった。

 

長男の父はびくびくとみんなに気を使いいつも疲弊していて、母が去ったことで傷つき、心ここに在らずでお金を散在し、離婚の原因になった実家なのに、大切にするどころか、放置してゴミ屋敷。

 

近くのわたしたちの家を奪った叔父叔母は、しらっと我関せずで、見栄ばかりはり、マウントしてくる。

地元を離れた叔父叔母も、同じ。

子供じみていて、話にならない。

 

それでも、その叔父叔母も、みんな信じている「生活」を守る必要があるのだから、仕方なかった、父母も、同じだ。

 

抗議しようがない、だから去るしかなかった。

 

みんな狂ってる。

 

みんな自分のことばかり。

気ちがいの祖父からや、劣悪な環境から、誰も助けてはくれなかった。

 

そして、叔母の「一生許さない」という言葉がまだわたしの中に刺さっている。

 

なんで、わたしがこんなことを言われなきゃいけないのか?

 

わたし以外、みんな狂ってる。

 

・・・

 

ここで書いた実家のストーリーが、まさか、わたしが書いた自我ストーリーなのか?!

 

信じられない!

 

でも、そうなのだ・・・。

 

わたしが狂っているんだ。

 

わたしがこの世界に力を見て、この世界を裁くことで、この世界をリアルにしている。

忘れないことで、リアルにしている。

この狂った世界をまともなものにしょうと期待している。

罪悪のイメージをずっと反芻している。

わたしという個人を信じてしまっている。

 

罪悪、”狂っている”ことを、驚くことも、怒ることも、嘆くこともないんだなぁ。

 

罪悪、”狂っている”ことに、力を見る必要がないんだ。

 

だって、幻だもの。

 

両手を差し出し、それが通り過ぎるときに感じる感覚にゆだね、開け放ってある方向に向くだけなんだ。

・・・

 

本当は誰もいない。

 

ゴールは神のみ。

 

空だけがある。

 

・・・

第一章 祈り 

 

Ⅲ.他者のために祈る

 

私たちは、祈りとは常にあなた自身のためのものであると述べた。

そして、それはその通りである。

それでは、いったいなぜ、他者のために祈る必要があるのだろうか。

また、もしそうする必要があるのなら、どのようにして、それを行うべきなのだろうか。

正しく理解されるなら、他者のための祈りとは、あなたが自分の罪悪感の投影を兄弟から取り去るため、および、自分を傷つけているのは彼ではないということを認識できるようになるための、手段となるものである。

あなたが罪悪感から救われることが可能になるには、その前に、彼こそがあなたの敵であり邪悪な相手方であり仇であるという有毒な想念が、放棄されなければならない。

そのための手段が祈りである。

それは、上昇する力と、神にさえも届くところまで上っていくというゴールをもった祈りである。

 

階梯の下段を成す祈りの初期の諸形態は、妬みや恨みから自由ではない。

それらの形態の祈りは、愛ではなく復讐を要求する。

また、それらが死を求める呼びかけであることや、罪悪感を大切にする者たちにより恐れから作り出されたものだということを理解している者は、そのように祈ることはしない。

罪悪感を大切にする者たちは執念深い神に呼びかけ、それらに応えるように見えるのはその神である。

地獄を他者のために求めておいて、その後に、それを求めた者自身が地獄から逃れることは不可能である。

地獄の中に居る者たちのみが、地獄を求めることができる。

赦されて、自らの赦しを受け入れた者たちは、決してそのようなことを祈ることはできない。

 

ということは、これらのレベルにおける学習目標は、「祈りは、祈られた形においてのみ、答えられる」ということを認識することでなければならない。

それで充分である。

ここからは、次のレベルへと続くたやすい歩みとなるだろう。

次の上昇は意かの考えで始まる。

 

私が兄弟のために求めたものは、私自身が自分の身に起こってほしいと思うようなものではない。

だから、私は彼を私の敵にしてしまったのである。

 

他者を自由にすることの中に自分自身にとっての価値や利点を見ていない者が、この段階に到達できないことは、明らかである。

この段階に到達するのが、長い間、遅れることがあるかもしれない。

なぜなら、それが、慈悲深いものではなく危険なものに見えることがあるからである。

罪悪感を抱いている者たちにとっては、敵がいるということに真の利点があるかに見えており、敵たちが解放されるには、この想像上の利得が放棄されなければならない。

 

罪悪感は隠蔽されるのではなく、手放されなければならない。

また、これを少しも苦痛を感じずに行うことはできない。

そして、この段階の慈悲深い特徴を垣間見た後でも、しばらくは、恐れの中に深く後退することがある。

なぜなら、恐れの防衛はそれ自体で恐ろしいものであり、そうした防衛の数々が認識されるとき、それらは恐れも一緒に連れてくるからである。

だが、脱出手段のように見えるだけの幻想が、囚人にどんな利益をもたらしたことがあるだろう。

彼が真に罪悪感から逃れるには、罪悪は消え去っていると認識する以外にない。

そして、彼が罪悪を他者の中に隠していて、それが彼自身のものだとわかっていない間は、どうしてこのことを認識することができるだろう。

脱出に対する恐れにより、自由を歓迎することが困難になっており、敵を牢獄の番人にしてしまうことが安全であるかに見えている。

それならば、敵が解放されることが、あなた自身に狂気のような恐れを抱かせないということが、あり得るだろうか。

あなたは彼を、あなたの救済として、あなたの罪悪感からの脱出手段としてきたのである。

この脱出手段へのあなたの執着は深く、これを手放すことに対するあなたの恐れは激しい。

 

今、一瞬の間、立ち止まりなさい。

そして、あなたが何をしてきたか考えなさい。

それを行ったのはあなたであり、それを手放せるのもあなただということを、忘れてはならない。

両手を差し出しなさい。

この敵は、あなたを祝福しにやってきたのである。

彼の祝福を受け取り、そうすることで、あなたのこころが高揚して、恐れが手放されるのを感じなさい。

怖れにしがみついてはならない。

また、彼にしがみついてもいけない。

彼は、あなたと共に、神の子である。

彼は牢番などではなく、キリストの使者である。

あなたが彼をそう見られるように、あなた自身が彼にとってキリストの使者でありなさい。

 

ものごとや地位や人間の愛や、その他のあらゆる種類の外的な「贈り物」を求める祈りは、常に、牢番を仕立て上げて罪悪感から隠れるために作り出されているのだが、このことに気づくのは容易ではない。

これらのものごとは、神の代替となるゴールのため、したがって祈りの目的を歪曲するようなゴールのために使われている。

そうしたものごとを欲求すること自体が、そのような祈りである。

はっきりと求める必要はない。

神というゴールは、それ以下のいかなるゴールの探究においても失われてしまい、祈りは敵を求める要請となる。

ここにおいてさえ、祈りの力はかなり明確に認識できる。

敵を欲する者が敵を見つけそこなうことはない。

しかし、それと同じように確実に、彼は自分に与えられている唯一の真のゴールを失うことになる。

その代償について考え、それをよく理解しなさい。

他のすべてのゴールは、神を失うという代償を払わせるものである。

祈りの歌 ~祈り、赦し、癒し~ 第一章 祈り Ⅱ.祈りの階梯

「祈り」は一番気楽なものだ。

 

当たり前のことを当たり前だと認めている感覚。

 

自分が自由であることは、すべての人が自由であること。

 

誰一人、イメージの中、夢の中に、押し込めずに。

 

夢から放つ。

 

空を愛でる。

 

・・・

Ⅱ.祈りの階梯

 

祈りには始まりもなく終わりもない。

それは生命の一部である。

しかし、形においては変化し、学びと共に成長し、いずれは、無形となる状態に達し、神との全的な親交の中へと溶け込んでいく。

「求める」という形の祈りにおいては、神に訴えることや神を信じることさえ必要ではなく、多くの場合、そのどちらも伴うこともない。

これらのレベルにおいては、祈りとは単に、欠乏や欠如の感覚から生じる欲求であるにすぎない。

 

「必要から求める」という、こうした祈りの形態は、常に弱さと力不足の気持ちを伴っており、自らが誰であるかを知っている神の子によって作り出されることはあり得ない。

それゆえに、自らのアイデンティティーを確信している者は誰も、こうした形態で祈ることはできない。

だが、自分のアイデンティティーに確信のない者が、このようなやり方で祈ることは避けられないということも、また真実である。

そして祈りとは、生命そのものと同じく絶え間なく続いているものである。

誰もが絶えず祈っている。

求めなさい。

そうすれば、あなたはすでに受け取っている。

なぜなら、あなたは自分が望むものは何かを明確にしたからである。

 

また「必要から求めること」の高次の形態に達することも可能である。

というのも、この世界では、祈りは修復的なものであり、したがって、段階的に進む学びが必要となっているからである。

この段階では、求めることが、誠実に信じる気持ちと共に神に向けられているかもしれないが、まだ理解を伴っていない。

概して言えば、漠然としている上に通常は不安定な自己認識の感覚が達成されていはいるが、それは根深い罪の感覚により不明瞭なものとなりがちである。

このレベルにおいては、さまざまな形をしたこの世界のものごとを求め続けることがあり得ると同時に、正直さや善良さといった賜物を求めることもあり得る。

とりわけ、必要からの祈りの根底には必ず横たわっている罪悪感の数多くの源のゆえに、赦しが求められる。

罪悪感がなければ、欠乏は存在しない。

罪なき者に、必要というものはない。

 

このレベルにおいてはまた、「敵のために祈れ」として知られているあの奇妙に矛盾した言葉が生じる。

この矛盾は、実際に使われている語句にあるのではなく、それに付与されている一般的な解釈にある。

自分に敵が居ると信じている間は、あなたは祈りをこの世界の法則へと限定したのであり、さらには、受け取って受け入れるための自分の能力をも、同じ狭い範囲に限定したのである。

それでも、もしあなたに敵がいるのなら、あなたは祈りを必要としており、しかも、多いに必要としている。

この言葉は本当は何を意味しているのだろうか。

あなたがキリストを幽閉しようとすることのないのように、そしてそれによって、あなた自身のアイデンティティーの認識を失うことのないように、自分自身のために祈れ、という意味である。

誰に対しても裏切り者となってはならない。

そのようなことをすでば、あなたは自分自身に対して不実な者となるだろう。

 

敵とは、幽閉されたキリストの象徴である。

そして、キリストとは、あなた以外の誰であり得るだろう。

したがって、敵のための祈りが、自分自身の自由のための祈りとなる。

そうなれば、それはもはや矛盾した言葉ではなくなる。

それは、キリストの一体性の表明と、彼の無罪性の認識となった。

そして今や、それは神聖となったのである。

なぜなら、それが神の子を彼が創造されたままに認知するからである。

 

祈りとは、いかなるレベルにおいても、常に自分自身のためのものであることを、決して忘れてはならない。

もしあなたが祈りの中で誰かと結びつくなら、あなたは彼を自分の一部とする。

敵とはあなたであり、キリストもあなたである。

それならば、祈りは神聖になり得る前に、選択されるべきものとなる。

あなたは他者のために選択するのではない。

自分のために選択できるだけである。

あなたの敵のために、本気で祈りなさい。

そこにこそ、あなた自身の救済があるからである。

あなた自身の罪について、彼らを赦しなさい。

そうすれば、あなたは確実に赦されるだろう。

 

祈りは天国にまで届く階梯である。

その最上段においては、あなた自身の変容と同じような変容が起こる。

なぜなら、祈りはあなたの一部だからである。

地上のものごとは一つも思い出されることなく、置き去られる。

欠乏が存在しないので、求めるということがなくなる。

キリストの中のアイデンティティーは、永遠に定められたものとして、また、あらゆる変化を超越した不朽のものとして、完全に認識される。

もはや光は明滅することなく、決して消えることもない。

今や、いかなる類いの必要もなくなり、神がわが子であるあなたへの贈り物とした清らかな無罪性に永遠に包まれて、祈りは再び、本来それが意図されていたものとなることができる。

なぜなら、今や、祈りは、あなたの創造主への感謝の歌として立ち昇るからである。

それは、言葉も想念も、またむなしい欲求も伴わずにうたわれる歌であり、今ではまったく何も必要としていない祈りである。

それゆえに、祈りは、本来意図された通り、延長していく。

そして、このように与えることについて、神ご自身が感謝する。

 

神がすべての祈りのゴールであり、それが祈りに終焉の代わりに超時性を与える。

また、祈りには始まりもない。

そのゴールは一度も変化したことはないからである。

祈りの初期の諸形態は幻想である。

なぜなら、一度も自分が後にしたことのないものに到達するための階梯など、必要としないからである。

それでも祈りは、同じく幻想である赦しが達成されていない間は、赦しの一部である。

学びのゴールが達成されるまでは、祈りは学びと連携している。

その後、すべてのものが一緒に変容し、穢れなきままで、神の心の中へと戻される。

この状態は、学びを超越したものであるから、それを描写することはできない。

それでも、今も死の幻想と神への恐れを抱いて生きる神の子に平安を回復させるには、その状態の達成に必要な諸階段が理解される必要がある。