2020.2.17
レッスン17
私は中庸(ニュートラル)なものは見ていない。
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あなたは中庸な考えをもっていないので、中庸なものを見ていない。
その逆であると信じたいかもしれないが、常に考えのほうが先行する。
この世界はそのように考えることはしないが、
あなたは自分の思考がそのようなものであることを学ばなければならない。
もしもそうでなかったら、知覚を生じさせる原因はなく、
知覚自体が実相を作る原因だということになる。
知覚の非常に変わりやすい性質から考えて、
それはまずありえそうにもない。
(1:2~6)
私は中庸なものを見ていない。それは、私には中庸な考えがないからである。
(2:2)
いつもと同じく、対象が生物か無生物か、快か不快かなど、
あなたがそれをどういうものだと信じているかによって区別しないことが肝心である。
何を信じているにせよ、
あなたは真に生きているもの、真に喜ばしいものは何も見ていない。
あなたはまだ、本当に真実な考えを、
つまり、真に幸福な考えを自覚していないからである。
(3:1~3)
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・私は中庸な家を見ていない。
それは、家についての私の考えが中庸ではないからである。
・私は中庸な身体を見ていない。
それは、身体についての私の考えが中庸ではないからである。
・私は中庸な動画をみていない。
それは、動画についての私の考えが中庸ではないからである。
・私は中庸な床をみていない。
それは、床についての私の考えが中庸ではないからである。
・私は中庸なあの人をみていない。
それは、あの人についての私の考えが中庸ではないからである。
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【知覚の非常に変わりやすい性質から考えて、それはまずありえそうにもない。
何を信じているにせよ、
あなたは真に生きているもの、真に喜ばしいものは何も見ていない。
あなたはまだ、本当に真実な考えを、
つまり、真に幸福な考えを自覚していないからである。】
「知覚」は常にあやふやにコロコロと変わるもの。
「知覚」とは「不確か」さ。
これまで「自分の考え」を通して見てきたものは、
対象物ではなくて、
「自分の考え」を見ていたのです。
全部が「自分の考え」なのですね・・・。
何も本当には見ていないのですね。
自分の中で自分だけを見ているのですね。
何にも見ていなかった。
外を見ていたと思っていましたが、
自分をずっと見ていたのです。
「真に見たいです」
まずはそのためには、
「今まで、私は盲目でした」と認めます。