2020.3.6
レッスン35
私の心は神の心の一部である。
私はとても神聖だ。
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今日の主題概念は、
今のあなたが自分自身をどのように見ているかを描写しているのではない。
それは、心眼があなたに見せてくれることになっているものについて描写している。
自分がこの世界に存在していると思っている者にとっては、自分についてこのことを信じるのは難しい。
しかし、これを信じていないからこそ、自分がこの世界に存在していると考えているのである。
(1:1~4)
あなたは自分が存在していると思っている場所で、自分がその一部であると信じる。
なぜなら、あなたは、自分が望む環境で自分自身を取り囲むからである。
そして、あなたは自分で作り出したあなたのイメージを、
その環境に保護してもらいたいと思っている。
その自分像もこの環境の一部である。
自分がその環境の中に居ると信じている間は、
あなたが見るものは、その自分像のもつ目を通して見られる。
これは心眼(ビジョン)ではない。
形象には見るということはできない。
(2:1~6)
今日の概念は、あなた自身についてのまったく違った見解を提示する。
あなたの源を確立することによって、あなたのアイデンティティーを確立し、
真理においてあなたがそうであるはずの存在として、あなた描写する。
(3:2)
今日は五分間の練習を三回行うが、
毎回、今日の概念を自分に向かって繰り返すことから始める。
その後、目を閉じて、心の中を探し、
あなたが自分を見るときに用いる様々な表現を見つける。
肯定的なものも否定的なものも、望ましいものも望ましくないものも、
遠大なものも低俗なものも、
あなたが自分のものとしている自我に基づいた属性のすべてを対象とする。
それらすべてが等しく実在性のないものである。
なぜなら、あなたは聖性の目を通して自分を見ていないからである。
(4:1~3)
心の探索の初めのほうでは、おそらく、
自分についての知覚の中でも否定的と自分で見なしている側面のほうばかりが意識されるだろう。
それでも、演習の後半には、自己賞賛的な表現も浮かんでくるかもしれない。
自分についての空想がどちらの方向のものかは問題ではないと認識しなさい。
実際、幻想に方向性はない。
それらは、単に真実ではないというだけである。
(5:1~5)
それらは、自分自身が関わっているさまざまな状況や、
人格、出来事などが心によぎるときに、思い浮かんでくる事柄である。
思いついたさまざまな具体的状況を取り上げ、
その状況に対し自分の示す反応にあてはまると感じられる言葉や表現を見つけ出し、
それらを具体的に表現した後、次のようにつけ加える。
しかし、私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。
(7:2~5)
その時間を埋めるために無理をして具体的な事柄を考え出すことはない。
ただくつろいで、何かを思いつくまで、今日の概念をゆっくり繰り返せばよい。
(8:2)
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・私は自分が弱いと見ている。
・私は自分の身体から脅かされていると見ている。
・私は自分が落ちこぼれだと見ている。
・私は自分が正しいと見ている。
・私は自分が犠牲者だと見ている。
・私は自分が優しいと見ている。
・私は自分が不器用だと見ている。
・私は自分が優れていると見ている。
・私は自分が損害を受けていると見ている。
・私は自分が慈悲深いと見ている。
しかし、私の心は神の一部である。私はとても神聖だ。
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自分で自分を作り上げた全部は、この世界の何か対象物と比較をして作り上げていました。
だけど、この世界の全部が作り上げられた(でっち上げられた)ものだとすれば、
今、思い込んでいる自分もでっち上げられているんですね。
本当の自分は、
でっち上げられる前に、すでに創造されていたのですね。
なかなか受け入れがたい内容でしたが、
コースのワークでは、
とにかくただ淡々と、そして具体的に心の中を見つめて、確かにしましょうと。
できるだけ頻繁に自我の信念を見つけて、
その後、「しかし、私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。」
と述べるのです。
最初は疑心暗鬼。
そんなはずはない。
私は罪深いのだから!という抵抗が出てきます。
自我が自分だという思い込みはもの凄く根深いので、やはり、出てきます。
そしたら、「浄化」をします。
「罪深い」と嘆く感覚を一緒に感じてあげて、気が済むまで一緒にいてあげます。
そうして、作ってきた自分や記憶が、
少しずつ「本当かなー?」と、薄まっていきます。
自我が薄まった分だけ、
私は神聖なのかもしれない、とうっすらその感覚に信頼が出てきます。
その感覚には安心します。