2020.3.10
レッスン39
私の聖性が私の救済である。
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罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか?
この「ワークブック」は「テキスト」を習得するために書かれているが、
「テキスト」と同じように、演習に使われている主題概念はきわめて単純明快であり、少しも曖昧ではない。
私たちは、知的な技巧にも論理の遊戯にも関心はない。
私たちはきわめて明白なものごとのみを扱っている。
あなたは複雑さの中で自分が考えていると思っているが、
その複雑さの雲に隠れて、その明白なことが見落とされている。
(1:1~4)
罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか。
これは少しも難しいことではない。
あなたがそれに答えることをためらうのは、その質問が曖昧だからではない。
そもそもあなたは、罪悪感が地獄であると信じているだろうか。
もしそう信じていたなら、「テキスト」がいかに単刀直入で簡明なものか、
すぐにわかっていただろうし、
「ワークブック」もまったく必要なかったことだろう。
誰も、すでに自分のものであるものを習得するための練習など、
必要としていない。
(2:1~6)
あなたの聖性が世界の救済であると、すでに述べた。
あなた自身の救済についてはどうだろうか。
あなたは自分に無いものを与えることはできない。
救い主は救われていなければならない。
それ以外にどのようにして彼が救済を教えることができるだろう。
今日の概念はあなたに該当するものであり、
あなたの救済は世界の救済にとって欠かせないものであることを認識する。
あなたが自分の世界に演習を適用するとき、世界全体がその恩恵に浴する。
(3:1~7)
あなたの聖性こそが、これまでに問われたことのある質問や、
現在や未来に問われる質問のすべてに対する答えである。
あなたの聖性が罪悪感の終わりを意味し、
したがって、地獄の終わりを意味する。
あなたの聖性が世界の救済であり、あなた自身の救済である。
あなたの聖性はあなたに属するというのに、
どうしてあなたが聖性から除外されたりすることがあるだろう。
神は神聖ならざるものを知らない。
神が神の子を知らないなどということがあるだろうか。
(4:1~6)
いつものように、まず今日の概念を自分に繰り返すことから練習を始める。
その後、目を閉じて、心の中を探し、
不安、憂鬱感、怒り、怖れ、心配、攻撃、不安定感など、
さまざまな形で現れる愛のない考えを見つけ出す。
どんな形をとろうとも、そうした考えは愛のないものであり、
したがって、怖れに満ちている。
だから、あなたは、そうした考えから救われなけでばならない。
(6:1~4)
あなたがあらゆる種類の愛のない考えに結びつけて考える具体的な状況、
出来事、人物などが、今日の演習にふさわしい題材である。
あなたの救済のためには、
それらをこれまでと違った見方でみることがぜひとも必要である。
そして、あなたがそれらを祝福することが、
いずれあなたを救い、あなたに心眼を与えることになる。
(7:1~3)
意識的に選択することなく、誰か特定の人だけに過度に重点を置くことなく、
ゆっくりと心の中を探して、
あなたとあなたの救済の間に立ちはだかるあらゆる考えを見つけ出す。
そうした考えの一つひとつに、今日の概念を次のように適用する。
○○についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。
(8:1~4)
集中を持続することは、最初は非常に難しい。
あなたの心がもっと訓練されて、
散漫でなくなるにつれて、ずっと容易になるだろう。
(9:3.4)
私の聖性が、このことから私を救う。
(11:3)
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・あの人についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・自分の過去についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・両親についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・過去の恋愛についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・自分の身体についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
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「個別」「特別」を信じ、それを守らなきゃいけない、という思い込みが全ての悲劇を生み出していました。
「個別」「特別」では無い!?なんて、クレイジー過ぎる考えだと思い込んでいました。
ですが、「個別」「特別」という考えのほうがクレイジーだったのですね。
本当に冷静に考えればそうですよね。
「個別」「特別」を保持するためには、闘うか防衛するか?に参戦するしかないのです。
ここにきて、ようやく「聖性」が何なのか?の自覚が起きてきております。
「聖性」という「全体」という安らかな喜びが私たちの本質だったのですね。
それは本当にもの凄くシンプルなことです。
「個別」「特別」を保持するために、マイノリティや複雑さを好んできて、かなりのこだわりの執着に埋没し、
深い深い闇に埋もれておりました。
【私たちは、知的な技巧にも論理の遊戯にも関心はない。
私たちはきわめて明白なものごとのみを扱っている。
あなたは複雑さの中で自分が考えていると思っているが、
その複雑さの雲に隠れて、その明白なことが見落とされている。】
あまりにも、シンプル過ぎて、明る過ぎる光に興味が持てませんでした。
あまりにも、当たり前過ぎて、拍子抜けですから・・・。
本当に「放蕩息子」だったです。
散々、暴れました。
怒られると思っていましたらか怖かったのです。
「個別」「特別」の概念のコートをそっと脱ぎます。
コートの下にある「聖性」そのものを自覚します。
そうして「聖性」の全体性の中へと溶け込みます。
これは「祝福」そのものです。