【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

未だかって一度もひとりぼっちの時などなかった(W レッスン41)

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2020.3.12

 

レッスン41

 

私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

 

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今日の主題概念が、最終的には、

分離している者たちの誰もが味わう孤独感や見捨てられた感覚を完全に克服する。

 

憂鬱感は分離の必然の結果である。

 

不安、心配、深い無力感、惨めさ、苦しみ、損失に対する激しい恐れなども

同様である。

(1:1~3)

 

分離している者たちは、

「この世の悪」だと自分で信じているものに対して多くの「解決策」を発案してきた。

けれども、一つだけ彼らがしていないことが、その問題の実在性を問うことである。

しかし、

問題が実在のものではないのだから、

その結果が解決されるということはありえない。

今日の概念には、こうした愚かさのすべてを永遠に終わらせる力がある。

そして、どれほど深刻で悲劇的な形をとろうとも、

それが愚かさであることは間違いない。

(2:1~5)

 

あなた自身の奥深くには、

あなたを通して、今にも世界の中へと輝きを放つことのできる、

完璧なものの一切がある。

それは、こうしたものが実在すると考え、

それらに忠実に従うことで苦しんできた心を癒すので、

すべての悲しみや苦痛や恐れや損実を解決するだろう。

(3:1~2)

 

あなたから完璧な聖性が奪われることはありえない。

あなたがどこへ行こうと、聖性の源があなたとともにどこへでも行くからである。

あなたが苦しむということはありえない。

あなたがどこへ行こうと、すべての喜びの源があなたと共に行くからである。

あなたが孤独になることはありえない。

あなたがどこへ行こうと、すべての生命の源があなたとともに行くからである。

何ものもあなたの心の平安を壊すことはできない。

あなたがどこへ行こうと、神があなたとともに行くからである。

(4:1~4)

 

あなたがこのすべてを信じていないということは、わかっている。

重く垂れ込める暗雲のような狂った想念の奥深くに真理が隠され、

光を通さず一切を覆い隠す想念だけがあなたに見えるすべてだというときに、

どうしてあなたにそれが信じられるだろう。

 

今日、私たちは、この重く垂れ込めた暗雲を通り抜け、

その向こうにある光にまで達することに、初めて真剣に取り組む。

(5:1~3)

 

練習のはじめにまず今日の概念をゆっくり繰り返す。

その後は、何も考えようとしなくてよい。

そのかわりに、世界の無意味な考えをすべてやり過ごし、

内へ内へと向かう感じをつかむようにする。

あなたの注意を散漫にさせる考えを避けながら、

自分の心の非常に奥深くまで入っていくように努める。

(6:3~6)

 

もし役に立つようなら、ときどき、主題概念を繰り返してもよい。

しかし。何よりもまず、世界から、そして世界の愚かな考えの全てから離れて、

内側へ、より深いところへと沈んでいくように試みる。

あなたは、そうしたものすべてを通り抜けたところへ至ろうとしている。

(7:1~4)

 

神に到達することは可能である。

実際、それは非常に容易なことである。

なぜなら、それは世界で最も自然なことだからである。

世界で唯一の自然なことだとさえ言えるかもしれない。

あなたがそれが可能だと信じるなら、道は開かれるだろう。

この演習は、初めて試みた場合ですら、驚くような結果をもたらすこともありえるし、

遅かれ早かれ、常にうまくいくようになる。

この種の練習については、先に進むにつれて、もっと詳しく取り上げることになる。

ともかく、それは決して完全に失敗するということはないし、

瞬間的な成功も可能である。

(8:1~7)

 

一日を通して、今日の概念を何度も用いるが、

そのときできれば目を閉じてゆっくりとその概念を繰り返すようにする。

自分の言っていることと、その言葉が意味することについて考える。

これらの言葉が示唆しているあなたの聖性、

あなたを決して見捨てることのない仲間、

あなたを取り囲んでいる完全な保護などに、意識を集中させる。

(9:1~3)

 

あなたがどこへ行こうとも、神があなたとともに行くということを思い出すなら、

あなたは本当に、怖れの想念を笑い飛ばすこともできるのである。

(10)

 

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私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

 

これが一番、そして唯一の自然な私たちのあり方だと述べられています。

 

それ以外は実在していない「妄想」だということです。

 

ですが、私が私に立ちはだかり、

 

「きっと、これはこうだ」

 

「きっと、あれはこうなってしまう」

 

「きっと、こういうことだ」

 

こうして過去という要塞の中に閉じこもっていました。

 

始まっても終わってもいない世界に閉じこもっていたのです。

 

私が私を閉じ込めていたのです。

 

そんな「妄想」は愚かな遊びだったと軽く笑い飛ばしていいのだと述べられています。

 

軽く笑い飛ばすなんて私にとって難しいことだと思っていましたが、

 

素直にワークに従ううちに、

 

笑い飛ばすことができないほど「深刻」で「リアル」だと思ってきたことが、

 

ピンぼけの映像のように薄まっていきます。

 

それは、「私(自我)」の終焉でもありますが、

 

「私(自我)」の終焉は、怖い事でもなんでもなく、

 

恋い焦がれ駆けずり回って探し求めていた「平安」「祝福」だったのです。

 

「ただいま」と、

 

本当の我が家に帰って、


大の字で寝そべってくつろぎます。

 

そんな安堵感にじんわり満たされています。