2020.3.17
レッスン46
神は愛であり、その愛の中で私は赦す。
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神は一度も咎めたことはないので、赦すことはしない。
そして、赦しが必要になることがあるとすれば、その前に、咎めがあったはずである。
赦しはこの世界が大いに必要としているものであるが、
それはここが幻想の世界だからである。
だから、赦す者たちは、自らを幻想から解放しているのであり、
赦しを与えずにおく者たちは、自分自身を幻想に縛りつけているのである。
そしてあなたが咎める相手はあなた自身だけであり、
あなたが赦す相手もあなた自身だけである。
(1:1~5)
神は赦すことはしないとはいえ、赦しの土台は神の愛である。
怖れは咎め、愛は赦す。
そうして赦しは、怖れが生み出したものを取り消し、
心が再び神を自覚できるようにする。
だからこそ、赦しは真に救済だと言えるのである。
それは、幻想が消え去るための手段である。
(2:1~5)
それをしながら目を閉じて一~二分間、心の中を探し、
あなたがまだ赦していない相手を見つけ出す。
「どれくらい」赦していないかは問題ではない。
あなたはその人を完全に赦したか、まったく赦していないかのどちらかでしかない。
(3:3~5)
演習がうまく行っていれば、
赦していない人々を何人か見つけることは難しくないはずである。
あなたが嫌いな相手なら誰でも、適切な対象であると考えて間違いない。
それぞれの人について名前を呼び、次のように言う。
神は愛であり、その愛の中で○○さん、私はあなたを赦します。
(4:1~4)
今日の練習の第一段階の目的は、自分自身を赦す立場にあなたを置くことである。
心に浮かんでくるすべての人々に対して今日の概念をあてはめた後、
自分に向かって次のように言う。
神は愛であり、その愛の中で、私は私自身を赦す。
その後、残りの練習時間を用いて、関連した概念をたとえば次のようにつけ加える。
神は愛であり、その愛の中で、私は私自身を愛す。
神は愛であり、その愛の中で、私は祝福されている。
(5:1~6)
私は神の子なので、罪があるはずがない。
私はすでに赦されている。
神に愛されている心に恐れはありえない。
愛が私をすでに赦しているのだから、攻撃する必要はない。
(6:3~6)
一日のうちに、目の前にいる人でもいない人でも、
誰かに対してなんらかの否定的な反応を自覚したときにはいつでも、
それに具体的に適用することが必要である。
そうした場合には、その人に向かって、声を出さずに次のように言う。
神は愛であり、その愛の中で、私はあなたを赦します。
(7:3~5)
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このワークを随分はぐらかし、後回ししてきました。
どうしても赦せないと思う人や過去にトライする氣になれなかったからです。
なんとなく「赦したふり」だけしてきました。
やはりどうしても赦したら、
あの苦しい時間を体験した私は救われないんじゃないか?と考えているのです。
そうじゃないと理屈ではわかりますが、
どうしても「赦したくない」のです。
ですが、
これこそが「自分を赦したくない」「自分は赦されるはずがない」という信念です。
どうしても「自分を赦せない」のです。
ここにいて、ようやく、
「もう赦したいなぁ」という意欲が。
大切にされなかった、愛されなかった、無視された、奪われた、脅された、騙された・・・・・・。
それは、私が私にしてきたこと。
私が私への攻撃。
私は私を大切にするね。
私は私を愛するね。
私は私を無視しないよ。
私は私を脅かさないよ。
私は私を騙さないよ。
私は私をしないよ。
自分虐めはやめます。
赦したい
そして、
もう大切にしたい。
何もかもを。
愛したい。
すべてを。
それしかしたくないです。
それだけが生きる目的です。