【奇跡のコース】Humming

ACIM lesson&diary

レッスン59 毎日が何者か?を思い出す機会

ワークブック レッスン59

 

復習

 

1・(41)私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

2・(42)神が私の強さである。心眼は神からの贈り物である。

3・(43)神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。

4・(44)神は光であり、その光の中で、私は見ている。

5・(45)神は心であり、その心とともに私は思考している。

 

自分についての幻想を大切にすることはやめよう。どこに行こうと神が私とともに行くのだから、私は完璧である。(1:6.7)

今日、私が、自分の目に頼って見ようとしませんように。私が「見ること」だと思っている哀れな幻想を、神から与えられている心眼に交換しようという意欲をもてますように。(2:3.4)

見るということは何なのかを、私は自分で定義しようとしてきたが、私の定義は間違っていた。神は光であり、私はその光の中で見るということが、今、理解できる。(4:5.6)私が心眼を歓迎し、それが私に見せてくれる幸せな世界を歓迎することができますように。(4:7)

 

・・・・・

「自我」「思考」「身体」は分離の夢だと述べられているし、

 

「あぁ、本当にそうだ・・・」と理解が進んでいる。

 

そして、今、矛盾と受け取られてしまうかもしれないけど、

 

「身体を整える」ための10回講座の学びに誘われて通っている。

 

目的は、

 

偏ってしまっている「知覚」が癒され、

 

心眼を思い出したいと願っていたから。

 

「自我」「思考」「身体」が夢ならば、

 

否定も肯定もする必要はないのに、

 

「身体」を重要視することを裁く傾向があったから、

 

その「反応」、その「知覚」、の訂正の機会としての聖霊の招待だと感じている。

 

身体に対し健康を求めることも、不健康を嘆くことも、

 

”愛を求める声”の、ひとつのカタチにすぎない。

 

すなわち「愛」以外のものは無い。

 

健康を求める行為も、

 

不健康を泣き叫ぶ行為も、

 

愛を求めているだけなのだ。

 

否定も肯定も必要ない。

 

そして、

 

「愛」は「中庸」「ニュートラル」だということ。

 

「愛」は否定もしない。

 

「愛」は肯定もしない。

 

「愛」は静か。

 

「愛」は絶対。

 

だから、

 

カタチの世界の夢にいる間、

 

私たちは「祈り」以外必要なものはない。

 

・・・・・

 

講座の2回目までは、

 

ものすごい「自我」の暴走に苛まれた。

 

「特別性」が大暴れした。

 

「私は何でも知っているのに。身体の事も散々やってきたのに。今は奇跡講座の導きで身体は幻想だと知っているのに。なのに、こうやって”身体”のことで何が正しいとか間違いとか、安全とか危険とかをやるなんて、愚かだ。色々知っていて、人に教えたりもしていたのに、なんで今更こんなことやってるのだろう・・・」

 

そんな裁きの声が湧き上がってきた。

 

「おおおおおお、自我ちゃん~~~~~~~、まだまだ隠れていたのねぇ@@」

 

抑圧してただけだった「自我」の炙り出しの機会だった。

 

祈った。

 

「私のこの知覚は、自分や兄弟が何者なのかを忘れたためのものです。全部、自我の信念を明らかにし、これらの反応を包み隠さず、差し出します。私は本当の反応を知りません。どうぞ思い出せますように」

 

・・・・・

悶々と湧きあがる自我の反応の中、 そう祈り続けた。

 

日が経つ中で、

 

「自我」には、何が起こったのかは、全然把握できないけど、

 

内側が一掃された心持ちが訪れた。

 

「BE」だけだよ。

 

「DO」は見過ごしていいよ。

 

全部「愛」だよ。

 

3回目からの講座は、

 

ただただ「愛」を見るようになり、ただただ楽しくなった。

 

光の中だった。

 

自我はすぐさまに、

 

何がなんでもジャッジしたがっているのを感じながらも、

 

その声は愛と光の中では消えていく。

 

聖霊の目的は、

 

自我の目的とは相容れない。

 

全く計り知れない。

 

何にもしなくていい。

 

何にもしないのに奇跡が起こる。

 

何にもしないから奇跡が起こる。

 

「愛」から離れたことなど一度もないのだという、

 

シンプルさに降参する喜びを嚙みしめている。