個人の尊厳。
これに尽きる。
「個人」としての尊厳、名誉、利得、称賛、保証。
これを損なうことが「問題」。
なので常に「個人」のこれらを守るために時間を費やしてきた。
そのために「心」を学び、セラピーを受け、セラピーを提供してきた。
そして、だからこそ、「個人」というアイデンティティは強化されて、
ますます「防衛」を重ね、厚く塗られ、「個人」という重力が重くなる。
「個人」という重さが、人生をますます生きづらく、苦しく、深刻なものにしていく。
自分という「個人」だけや、その「家族」だけや、「同胞」だけを守れば、その対極の「他者」は不都合なものになったり、コントロールしなければならなかったり、敵になったりする。
「個人」の「防衛」は苦しみを作り続けるシステムでしかなかったと氣づき、立ち止まった。
立ち止まる以外、もう選択はなかった。
そこに「コース」が現われた。
「私」は「個人」ではなかった!
驚いたし、動揺したし、抵抗した。
だけど、「私」は「すべて」なのだという理解が起こっていくにつれ、
心は静かで軽く穏やかになる。
問題は「私」を「個人」として勘違いしていたこと。
今ここは、この厖大な誤解の吐露の空間なのだ。
・・・・・
ワークブック レッスン79
問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。
何が問題なのかを知らなければ、それが解決されることはない。
それが本当はすでに解決されていても、あなたがそのことを認識しなければ、あなたにとってはその問題は存続していることになる。
これがこの世界の状態である。
分離という問題がただ一つの問題であり、それはすでに解決されている。
しかし、その問題が認識されていないので、解決法は認識されていない。
(1:1~5)
問題が数多くあると見なしたい誘惑は、分離という問題を未解決のままにしておきたいという誘惑である。(4:1)
この複雑さはすべて、問題を認識しないことによって、それが解決されないようにするための必死の試みにほかならない。
問題がどのような形で現れようと、自分には分離という問題しかないということが認識できたなら、その答えの妥当性がわかるので、それを受け入れることができる。
(6:1.2)
必要なことは、あなたが自分の問題だと思っているものの実在性について、いくらかでも疑ってみることだけである。(8:3)
・・・・・