私という「個人」があるということに、何の疑問も持たずに当たり前に過ごしている間は、
「個人」がある、ことに疑問を持つ方がおかしいと思いますし、
そもそもそんなこと考えていなかったですし、なんだか雲を掴むようなお話でした、。
そして、
生きていくことや、人間関係などで、色々あり、苦しかったり、心穏やかでいられない時、
「自分がどうなればいいのだろうか?」とか、「こんな自分だからダメなんだ」とか、「いっそ自分なんかいなくなりたい」とか、自分という「個人」を持て余し、模索し始め、
「個人」という重りがより一層重く重要なものになっていって・・・。
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「個人」を守れば守るほど、
主張を通す必要があったり、
他人をコントロールするために忖度しなければならなくなったり、
闘ったり攻撃したり攻撃されたり、
「個人」ゆえの「孤独」への対処にも必死です。
そして、守り固めることで、さらに、さらに、「個人」という状態がよりリアルに重くなっていきます。
・・・・・
私は相当、そして守備万端に「個人」を守ってきました。
自分の信念を疑うことなく、貫いてきました。
上手くいったら、優越感に浸り、
ダメだったら、自分や人を責める。
そうして、「個人」でいることに一生懸命になればなるほど、毎日がどうしたって穏やかにはならない。
心はいつも緊張して休まらない。
「個人」でいるって、なんて不自由なんだ!と。
ですが、「個人」を守るための手を休めるなんて出来ないと思っていました。
でも限界・・・・・。
本気で降参・・・・・。
自分(自我)という「個人」を守るのはもうやめたい・・・。
心の奥の本当の私の声を聴きたい・・・・。
そう本気で思うようになってから、「奇跡のコース」で述べられていることが、
ようやく心に響いてきました。
「個人」を温存させようとしたままだと、全く理解出来なかった言葉のニュアンスがスーーーっと、心に入ってくるようになりました。
【あなたは一なる自己であり、今ある一切のものと、これから生じる一切のものと完璧に調和している。あなたは一なる自己であり、その自己の内で兄弟と一体であり、父なる神の意志の内に父と一体の神聖な神の子である。この一なる自己を自分の内に感じ、その光にあなたのあらゆる幻想と疑いを消し去ってもらおう。(ワークブック編 レッスン95 13:1-3)】
「個人」を守る必要はないし、それは不可能なことだった、ということもわかってきました。
「個人」を守れば守るほど、安らかでいられないのがわかってきました。
「個人」が残らなければ残らないほど、深い安堵感や穏やかさ、静けさ、喜びが内側から湧いてくる体験をし始めました。
「個人」を守ることに使ってきたエネルギーをただ「一なる全て」と共有するために使えば使うほど、至福感が湧いてきました。
「個人」を守らなければ守らないほど、皮肉なことに「個人」がそのまんま心地よく自然にあふれるのも感じられてきました。
盲点です。
本当に盲点でした。
そして、やはりとてもシンプルです。
「個人」を守らないでいいことで、広がっていく心、自由、何とも言えない開放感がありました。
「個人」でいなくていいってなんて心地よいのでしょうか。
この完全な幸せが怖かったんだってって思います。
少しずつ、「個人」を置いた先にある「全体」を受け取っていきたい。
怖さの先の、怖さが怖さではなかったという体験の先の一なる喜びを受け取って、その広がりの中にいたいです。