「私はみんなと違うのよ」という特別意識。
そして「特別意識」とは「個人」ということ。
私は特に「精神世界」や「心理」の追求において、この気持ちが強かったです。
幼い頃から「なぜ生まれてきたのか?」という疑問が人一倍あって、だからこそ、誰よりも神秘的な追及をやってきたという自負がありました。
「精神世界」、「心」って、どうカテゴライズしたらいいかわからないほど、さまざまなものが入り混じったカオスな世界で、妖しい、怪しい、マヤカシ、魑魅魍魎の世界。
霊能、宇宙人、天使、超能力、神業、○○ワーカー、心霊、神秘現象、などなど、、、ほとんどが「人災的」な妄想の中で、そんな誘惑を掻き分け掻き分け、より抽象的で、より純粋で、より畏怖の念を感じる世界を追求してきたつもりでした。
そして「奇跡のコース」に出会ったとき、やっとやっと、「妄想」を卒業できる!と安堵しました。
ですが、この教えこそ、最後の難関でもありました。
「奇跡のコース」ですら、紙一重でカオスの中の「特別意識」を煽る材料にしてしまえます。
「私は誰よりも真実を知っている」という「特別意識」の最後の炙り出しとなりました。
「特別意識」「人と違う」「差異」「分離」「比較(優劣、正否、損得・・・)」「ラベル」「レッテル」「マイノリティ」などこそが、
ずっと心が”苦しみ続ける”という反応と動揺を終わらせないのでした。
だからこそ、苦しみの根源の「特別意識」を手放すために、これまでもたくさんの学びを進めてきましたが、
ほとんどの心理的なアプローチは「思考」を「思考」で丸め込み抑圧させているだけの、「自我」的な力技にとどまってしまいます。
また「個人の問題」を「問題視」させて、それを「解決」しょうとすればするほど、「個人」の「問題」を際立たせるだけなのでした。
また、「感情」を解放させたとしても、その「目的」がまだ「特別意識」の温存のためなのであれば、
「特別意識」=「個人」のままであれば、「特別意識」=「個人」ゆえの「苦しみ」はセットなので、一生終わらないのでした。
そして、「行動」に至っては、やはり、「目的」が「特別意識」「個人」の温存のためであれば、一時的な満足の連続であり、ずっと鼻先の人参を追いかけ続ける状態で、報酬系のドーパミンを幸せと思い込んでしまうだけになってしまいます。
私、たくさん「感情」解放のワークをやってきたのですが、その目的がまだまだ全然「個人」を温存させるためだったので、なので未完了な感覚が残り続けたのでした。
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「特別意識」=「個人」という「思い込み(信念)(思考)」が勘違いなのだという理解が本当にすすむことで、ようやっと、そのためには「特別意識」=「個人」を握りしめずに「ゆだねる」しかないんだという氣づきが促されていったのです。
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「特別意識」=「個人」が勘違い。
ほんとうは「ひとつ」。
「ひとつ」だから何からも離れていないので、すでに満ち満ちた光と愛そのもの。
だけど、「ゆだねて」しまって、そこから生じる「くつろぎ」があまりにも「くつろぎ」なので、緊張して生きてきた「特別意識」=「個人」という存在の私たちには恐怖でしかないのですね。
「くつろぐこと」に緊張してしまう・・・というオカシイことが起こってしまっているのです。
特別な自分
特別な家族
特別な世界
特別な関係
特別な仕事
特別な思い
特別な出来事
「なぜそれを”特別”だとしておきたいのか?」と自分に問うてみますと、
「特別」じゃないと、必要とされないのではと思ったり、仲間外れになるのではと思ったり、生きていけないのではと思ったり、自分だと思っているアイデンティティーが壊れる怖さだったり、欠乏意識が埋まらなかったり。
そんな「特別意識」=「個人」が信じ込んで握りしめていた幻想のストーリを見続けているだけなのでした。
『そっかそっか・・・・・、怖いと思い込んでいたんだね・・・、ひとりぼっちだと思い込んでいたんだね・・・、ゆだねられるはずがないって思い込んでいたんだね・・・・・・』
これまでの「特別意識」=「個人」の思い込みを、ただただそんな優しい気持ちで抱きしめるように見つめて傍にいてあげる。
『動揺が収まるまで、いつでも、いつまでも、待っててあげるよ~』
そうやって、ただただ純粋な真っ新な空間で包み込んであげる。
そうしているうちに、
「緊張」よりも「ゆだねる」ことの方が、
より自然だったのだと、
そしてそれが「特別意識」=「個人」から「ひとつ」へと引っくり返った世界なのだとわかりはじめると思います。