【奇跡のコース】で述べられている、
「自我の見方」から、「聖霊の見方」へ変えるということを、
「思考」で捉えようとすると、わけがわからなくなってしまいます。
「思考」って、自我の働きだから。
自我は自我を温存させたいから、「思考」を働かせて、「混乱」させて、「問題視」させて、「決めつけて」「分別」して「わかったことにして」、結局は「自分を責める」「何かや誰かを批判する」のどちらかに陥らせていくように働きます。
そうやって、「分離」という状態を強化させていきます。
何かと何かに違いを見つけたり、「カテゴライズ」したり・・・。
自我は自我を手放す気はないのでした。
ですが、私たちは「思考」を使わないことは不可能。
「聖霊の見方」へ移行することも、まずは「思考」の向きを変えるわけですから、そこに「思考」を使わないのは不可能ですもんね・・・。
なので、じゃあ、どのように「思考」を使えばいいかということですが・・・。
私の場合はですが、
まずは、【奇跡のコース】を読んで、「思考」を使って、自我と聖霊の「見方」と、その"目的"を理解することから始めました。
「自我」の目的は「分離」という比較と闘いの世界で、その世界を見るための「見方」。
「聖霊」の目的は「全て」という愛と平安の世界で、その世界を見るための「見方」。
どちらの「見方」と「目的」がいいか?と自分に問いました。
最初、コースの学習を始めた8年前の頃は、とてもじゃないけど、「自我」の世界の見方と目的から抜けられる気はしませんでした。
この「個人(自我)」の世界で、頑張って、時には闘って、自立して、または誰かや何かに”依存”することを頑張って、「個人(自我)」の幸せを獲得しなきゃいけないって思っていました。
そのように、自分は「個人(自我)」で、だからこそ、「個人(自我)」という状態を守るために、外側の何かを「獲得」する必要があると思っていましたし、「獲得」できた時は束の間の安心や幸せを感じます。
そして、今度はその安心や幸せを持続させるために、追いかけるのをやめられません。
なぜやめられないかというと、決してその喜びは満足できない「不確か」なものだからです。
身体も、関係性も、物も、立場も、危ういもので、変わっていくものです。
だから「もっともっと、どこかに変わらない”確かな”幸せがあるはず!」と。
そうやって、一生掴むことのできない鼻先の人参を追い掛け回し、不満足とわずかな喜びを得るという習慣とその「思考」から離れられないと思っていました。
私はこの世界から抜ける「勇気」はありませんでした・・・。
【奇跡のコース】には、これらの自我による「分離の構造」について、丁寧に微細な部分に至るまで説明があり、
今、私たちが必死になってやっている「終わらない幸せへの追求」は、この地球全体の"物質"的な状態という幻想による「分離」の強化であり、
その「分離」状態から起こる「罪意識」であり、「罪意識」をエンドレスで味わうための自我のストーリーだよ・・・と。
これに真から氣づいたときに、「自我」の「見方」で生きるのはヤバイぞぉー!、もう限界だぞーー!、「罪意識」は不自然だぞー!と”マジ”で自覚できていったのです。
そして、「聖霊」の目的の「全て」という愛と平安の世界の、その世界を見るための「見方」の方を選びたい!と思えるようになりました。
そして、
そのためには、これまで、自分は「分離」のストーリーを選んでいたんだ!という自覚が必要だと悟りました!(思考で捉える)
その自覚をし始めると、もれなく「これまでの自我の生き方に、ちゃんとガッカリする」ということが必然になっていきます。
この落胆が何よりも怖かったりします。
「え、これまでの私はなんだったの・・・これまでの私は消えるの?」って。
やはりしんどかったのですが、なぜ落胆することを受け入れ、その期間が乗り越えられていくかというと、その方法と目的がちゃんと【奇跡のコース】にて保証されていたからです。
徐々に、「勇気」と「意欲」が育まれていきました。
それで、具体的には、「落胆」を「思考」で何とかするのではなく、「聖霊」という”本当の自己”と一緒に見る、、、すなわち「感じる」だけなんだと氣づいていきました。
「感じる」を、もっと具体的に言葉で描写すると、
「全部を全体にゆだねる」➡「なんにもない空間の中」に溶け込んで包まれていくような感じです。
または、何にもしないことの中にゆだねていく感じ。
「なんだかわからないけど、ありがとうございます〜」という感じ。
そうすると、「落胆」の世界から抜けていき、「愛」の中へと溶けていきます。
「思考」が入口でそこから「感じる」へと橋渡ししていく感じです。
「感じる」の中にゆるぎない確かさがあります。
ここら辺になると、
もうそれぞれの経験にゆだねられていきますが・・・。
自我がすぐに文句言うかもしれません、「え、こんなもんなの?普通じゃん、つまんない」って(笑)。
そうして、これまでの「楽しみ」を奪われたような絶望感に陥ったりしますが、これこそトラップです。
これまでの「不確か」な楽しみを遥かに凌駕する「確かさ」「愛」が怖いだけなのです。
なので、その誘惑に氣づいたら、
すかさず、思考➡感じるへと移行する練習をしていきます。
そうするうちに、
本当はどちらの世界がリアルで自然なのかが表れていきます。
と、同時に「物質世界」への対応に焦りがなくなり、整っていき、結果的に、パートナーとの関係が良好になったり、生活に豊かさを感じたり、心身が整ったりしていくのです。