”私の中の欠如と哀れさと裁きの「私的な」考え”。
このような「五感」を使った「目」で見れば、
「欠如」「哀れさ」「裁き」を見るしかないのです。
そんな不確かさを世界に見るのはもうやめたいと決めるだけなのです。
危険だと思い込んでいる「それら」は”無”なのだから、
リアルな世界には何の影響もありません。
この「聖なる瞬間」の体験が奇跡です。
慣れ親しんできた不確かな、危険で不安定な世界という日々の「見方」「思考」、
その慣れ親しんできた不確かさを土台にした「見方」「思考」を、
完全に脇に退ける練習の場としてこの世界と関わります。
「神の子」という自覚は、
自我にとってはものすごく無謀で大それた恐ろしい自覚ですが、
そうやって「無謀さ」「誤った謙遜」「恐怖」を盾にして時間稼ぎをすることから、
自分を解放してあげます。
聖霊の働きにゆだねます。
「決めれば」(意欲をもてば)、
後は、優しい風に乗っかって運ばれていくだけなのです。
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ワークブック レッスン52
復習
1(6)・私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。
2(7)・私は過去だけを見ている。
3(8)・私の心は過去の考えにとらわれている。
4(9)・私は何も今あるままに見ていない。
5(10)・私の考えには何の意味もない。
私は常に無によって動揺しているのである。(1:8)
自分自身を赦し、自分が誰なのかを思い出したとき、私は自分が見るすべての人やものを祝福するだろう。過去はなくなり、したがって、敵もいなくなる。そして、以前には見ることができなかったすべてを、愛のまなざしで眺めるだろう。(2:5~7)
過去を手放してもただ無を手放すにすぎないと気づいて、過去を手放すことを学べますように(3:6)
私がこれまで見ようと選択してきたものが、私から心眼を取り上げた。(4:5)
真に私のものであるすべての想念を、私の哀れで無意味な「私的な」考えで覆い隠してしまうよりも、私が宇宙の思考につながるほうがよいのではないだろうか。(5:7)
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