まさか、当たり前に「見ている」と思っていたのに、
全部が「私的」な幻想だったなんて!
でも、本当にそうでした。
夫と関わるとき、子供と関わるとき、友達と関わるとき、お客様と関わるとき、
ありとあらゆる関係性の中で、
「自我の目」で見るときと、
「聖霊の目」で見るときの明らかな違いを体験します。
「聖霊の目」は羽が生えた様に軽くて優しくてあたたかい感覚。
「自我」はその軽さを「物足りなさ」と解釈するけど。
「物足りなさ」に動揺したとしても、
それはそれで、一度、受け入れて。
そうすると、すぐに、「正気」の目へと戻ります。
「重さ」を愛や重要感だという誤解が退くと、
「軽さ」「静けさ」の奥に確かさと平安があります。
・・・・・
ワークブック レッスン54
復習
1・(16)私に中庸な考えはない。
2・(17)私は中庸なものを見ていない。
3・(18)私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。
4・(19)私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。
5・(20)わたしはぜひとも真の見方でみたい。
中庸な考えというものがありえない理由は、すべての考えには力があるからである。それは虚為の世界を作り出すか、私を実相世界へ導くかのどちらかである。
それは虚偽の世界を作り出すか、私を実相世界へ導くかのどちらかである。
しかし、考えは結果をもたらさずにはいない。
私に見えている世界が私の思考の誤りから現れているのと同じように、私が自分の誤りを訂正してもらうときには、私の目前に実相世界が立ち現れる。(1:2~5)
もし私が思考することがなければ、私は存在していないだろう。なぜなら、生命とは想念だからである。自分に見える世界を、私は自分自身の心の状態の表れとして眺めることができますように。私は自分の心の状態が変わることが可能だと知っている。だから、私に見える世界も変わることが可能だと知っている。(2:2~6)
私に私的な考えというものがないとすれば、私が私的な世界を見ることもありえない。分離という狂った考えでさえも、それが私に見える世界の土台を形成するためには、その前に、共有されなければならなかった。
しかし、その共有は、無を共有することだった。(3:2~4)
私の分離の信念がほかの人々の分離の想念に呼びかけるのと同じように、私の真の想念も人々のうちに真の想念を目覚めさせる。(3:6)
私は何ごとにおいてもひとりではない。
私の考えていること、言うこと、行うことのすべてが、全宇宙に教えている。
神の子の考えること、語ること、行動することが、無駄になることはありえない。
神の子は何においても、ひとりではありえない。
だから私には自分自身の心とともにすべての心を変える力があるが、
それは私の力が神の力だからである。(4:2~6)
私は自分の考えは共有されているということを認識し、ぜひとも真の見方で見るつもりだ。世界の思考が変化したことを教えてくれる証拠を見たい。
私を通して行われたことにより、愛が恐れに、笑いが涙に、豊かさが損失に取って代わるのを可能にしたという証を、私は見たい。
実相世界を見て、その世界から、私の意志と神の意志はひとつであることを教えてもらおう。(5:2~5)
・・・・