私は、何が何のためにあるのかを知らない。
その無防備さを練習したい。
すぐに「あ、それ知ってる」「あ、それはこうだよ~!」などと言い張るのではなく、
「知らない」のまま、「わからない」まま、を楽しみたい。
純粋な空間に甘えたまんま、ゆだねたまんまでいたい。
私は、何が何のためにあるのかを知らない。
この無防備さ、くつろぎにある「愛」のフィーリングに抱かれていよう。
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ワークブック レッスン55
復習
1・(21)私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。
2・(22)私が見ているのは、復讐の一形態である。
3・(23)攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。
4・(24)私は自分の最善の利益を知覚していない。
5・(25)私は、何が何のためにあるのかを知らない。
今、私が見ているものは病気や災害や死のしるしばかりである。これが、神が愛するわが子のために創造したものであるはずがない。
このようなものを見ているという事実こそが、私が神を理解していないという証拠である。
したがって、私は神の子も理解していない。
私の見ているものが、私は誰なのかを知らないと告げている。
幻想の私を見せるものではなく、私の中の真理を証しするものを、ぜひとも見るつもりだ。(1:2~7)
私の見ている世界は、およそ愛ある考えの表象と言えるようなものではない。(2:2)
こうした映像を生じさせているのは、私自身の攻撃的考えである。(2:5)
自分が誰であるかを知らないというのに、どうして自分の最善の利益が認識できるだろう。(4:2)
私は自分ひとりでは自分の最善の利益を知覚できないと認識し、それを見つけられるように神が私に与えてくれた導き手に喜んで従いたい。(4:4)
自分が世界に与えた目的を撤回し、世界についての真理を学ぶことによって、私の心を世界の真の目的に対して開くことができますように。(5:7)