この世界に「幸せ」になるための何かがある!と希望を持って生きていたのに、
「奇跡講座」は、それらをことごとく「訂正」するように、と促してくる。
この世界は狂っていると述べられている。
この世界は地獄で、あなたはこの世界では迷子であり、異邦人なのだと述べてある。
そして、そんなこの世界を嘆いても無駄だと述べてある。
こんなことがつらつらと書いていると、
どんどんこの世界に対してやる気や面白さがなくなっていく。
そして、その感覚が怖くなって「奇跡講座」を閉じてしまう。
この反応は当然なのだ。
「自我」にとっては脅威だ。
そもそも「自我」がガッカリするように書いてある。
「特別」「競争」「差異」「個人」に幸せがあり、その「正解」を見つけ、「獲得」していかないといけない、と信じている世界にとっては、宝探しを邪魔されているような不愉快さがある。
「自我」という「個別性」にとっては、たまったものじゃない。
だけど、ちゃんと、目を反らさずに、見ていけば、この世界が矛盾だらけなことがわかってくる。
この世界に感じていた違和感。
どこにも宝はない。
宝を見つけたと思っても、すぐに砂のように手からすり抜ける。
これこそが「自我」の作った世界なのだ。
私たちが「自我」ではないという知らせは恵の声だった。
私には、この真実、最高、最上の救いだった。
最初、完全に「自我」と同一化していたときは、かなり抵抗したけど、「そうだった」と認めるほどに安らかな気持ちになる。「自我」を脇に置くほど楽になる。
何も探さなくていい、どこにも行かなくていい、「宝」はもうすでに手にしていた!という安堵と確かさ。
すでに完成されているのに、それを認めない欠如の感覚が手放されていく。
幼子のように無邪気に手放しで、貴重で新鮮な今を歓べる。
これ以上、求める必要は、どこにもなかったのだった。
氣づけば、すべてがひとつ。
ひとつのリアリティそのものだったのだ。
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ワークブック レッスン71
神の救済計画だけがうまくいく。
あなたが救われるためには、あなた自身以外の何が変わらねばならないかを決めることだけである。この狂気の計画によれば、救済の源として知覚されるもので、実際には救済をもたらさないものなら何でも受け入れられる。これにより、実りのない探求が確実に続いていく。というのも、これまでこの望みはいつも叶わなかったが、ほかの場所、ほかのものになら、まだ希望を抱く根拠がある、という幻想が続いていくからである。別の人ならばもっとよくしてもらえるだろう、別の状況なら成功が得られるだろう、と。(3:1~4)
それが、自我によるあなたの救済計画である。
これが、「求めよ、されど、見つけることなかれ」という自我の基本的教義といかにうまく合致するものであるか、あなたにもわかることだろう。(4:1.2)
神の声を聞こうとするあなたの意欲に応じて、神はあなたに答えてくれるだろう。聞くことを拒んではならない。あなたがこの演習を行っているという事実そのものが、あなたには聞きたいという意欲があることを証明している。(9:7~9)
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