身体のあちこちが不調だったり、痛かったり、スタイルが良くなかったり、歳を取ってきたり・・・。身体に関しての恨めしい感覚を長い間持っていた。
まさか、この根強い不満が、「心」を見直すことで、なくなっていくことが可能だなんて思っていなかった。
身体は身体のメンテナンスによってでしか、解決しないと思っていた。
だけど違った。
「奇跡講座」で「身体」は関心の外のものである、と述べられていて、最初は信じられなかったけど、信じるとか、信じないとかという問題ではなく、
シンプルにただそうだったのだ。
その氣づきが起きた。
そしたら、これまでの身体の不調や痛み、スタイル、老いなどに対する悩みがわかなくなった。本当に対象外だったのだ。
不確かなものに力を注いで、不確かさを強化しておいて、その不確かさを嘆き続けるという「罪悪感」の連鎖。
その連鎖にいる間は、「真実」を見ることができないままだった。
「身体」への注視をやめたら、逆に「身体」は軽くなり、健やかになりつつある。
何もかもが逆説だった。
本当の私たちは「不平」も「不満」も持つことは不可能。
持つ必要性が全くないのが、私たちなのだから。
・・・・・
ワークブック レッスン72
不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。
自我の根本的な願望は、神に取ってかわることである。
実のところ、自我とは、この願望が物理的な形になったものである。
この願望があるからこそ、心が肉体で包囲されているかに見えており、それによって、心は分離して孤独なものとなり、心を幽閉するために作り出した肉体を通してしか、ほかの心に到達できないものになっているからである。(2:1~3)
あなたはどういった種類の事柄について不満を抱きがちなのか、よく考えてみよう。
それらは常に、肉体が行う何かと関連してはいないだろうか。
たとえば、誰かがあなたの気に入らないことを言う。
あなたに不愉快なことをする。
彼の行動から敵意が「暴露」されてしまう、など。(3:2~6)
このような場合、あなたはその人の本性に応対しているのではない。
それどころか、あなたはただ、一個の肉体の中でその人が何をするかということだけに、関心を払っているのである。
あなたは、肉体がもつ制限の数々から彼を解放するための助けとなることに失敗しているだけでなく、それ以上のことをしている。
あなたは彼のまとっている肉体を彼と混同し、両者を一つのものと判断することで、積極的に彼を肉体につなぎとめておこうとしているのである。
ここで神が攻撃されている。
もし神の子がただの肉体にすぎないのなら、神もまた肉体とならざるをえないからである。(4:1~5)
ある者は肉体を憎み、それを痛めつけ、辱めようとする。
ほかの者は肉体を愛し、それを賛美し、誉めそやす。
しかし、肉体があなた自身についての概念の中核をなしている間は、あなたは神の救済計画を攻撃し、神と神の被造物に不満を抱いているのである。
そうすることで、真理の声を聞くことも、それを友として歓迎することも、しないですむようになる。
そのかわりにあなたが選んだ救済者が、神の代替となっている。
それがあなたの友となり、神があなたの敵となっている。(7:2~6)
今、私たちはこれを違った見方で見ることを試みる。(8:5)
真理の光は私たちの中にある。
そこは、神がそれを置いた場所である。
私たちの外にあるのは肉体のほうであり、肉体は私たちの関心の対象ではない。
肉体をもたないことが、私たちの自然な状態である。
私たちの中の真理の光を認識するということは、私たちをありのままに認識することである。
私たちの自己を肉体とは別のものとして見ることが、神の救済計画に対する攻撃を終わらせ、かわりにそれを受け入れることである。
そして、神の計画が受け入れられるところならどこにおいても、神の計画はすでに達成されているのである。(9:1~6)
神による救済の計画はすでに私たちの中で達成されていることに氣づくことである。
このゴールを達成するには、攻撃を受容へと入れ替えなければならない。
それを攻撃している間は、私たちのための神の計画とは何なのかを理解することはできない。つまり、私たちは自ら認識していないものを攻撃しているのである。
今、私たちは価値判断をひとまず脇に置き、何が私たちのための神の計画なのか、尋ねてみよう。
父よ、救済とは何でしょうか。
私にはわかりません。
私が理解できるように、私に教えてください。
そして、静かにして、神の答えを待とう。
これまで私たちは神の救済計画とは何なのかを聞くために待つこともせず、それを攻撃してきた。
あまりにも大きな声で不満を叫んできたために、神の声に耳を傾けることがなかった。自分の目を閉じ、耳を塞ぐために、私たちは不満を用いてきた。
(10:1~12)
あなたの自信が揺らぎ、成功の望みが明滅して消えてしまいそうな氣がするときはいつでも、あなたが尋ねている相手は、無限なるものを創造した無限なる創造主であり、ご自身と同じものとしてあなたを創造した存在だということを思い出しながら、あなたの質問と懇請を繰り返しなさい。
父よ、救済とは何でしょうか。
私にはわかりません。
私が理解できるように、私に教えてください。
神は答えてくれるだろう。
それを聞くのだと決意しなさい。
(11:1~5)
不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃です。
私がそれを攻撃しないで、受け入れられますように。
父よ、救済とは何なのでしょうか?
(13:3~5)