「幸せ」が自分の心の中にあって、それをただ眠らせていただけで、その目覚めにだけ意識を向けていくことだけでいいのだと氣づくまでは、
なにかしら、「外」をキョロキョロと探したりして、氣を散らせてしまう。
「奇跡講座」は、ただ素直に取り組むだけで「意識」の在り方を高次へと運んでくれる。
それなのに、「奇跡講座」に取り組んでも、そうならないのは、まだ氣を「外」に散らせているよ~というお知らせなのだ。
「奇跡講座」を読むには、かなりの集中力を求められている。
「外」にかまけていると、内容が入ってこないし、理解できない。
この構造自体、「心」を静め、「スペース」をもたらしてくれるようになっている。
心へのコミット具合の羅針盤の役割も果たしてくれているのだ。
「奇跡講座」が読み辛い時、あとほんのちょっと、「意欲」を出してみるのだ。
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「奇跡講座」にとうとうと述べられている「自我」の構造。
「自我」という仕組みと働きを理解することがとても大事だなぁと思う。
「自我」の働きと、その恒常性を読み解き、知ることで、「自我」の働きを、じっくりと冷静に観察できていく。
そして、「自我」を観察するときに感じるさまざまな感情、感覚を避けずに感じる。
(聖霊に差し出す)
このように、じっくり観察できている、感じ切れている、ということは、「自我」から離れている、という状態が生じているのだ。
その離れている時に表れている「スペース」。
その「スペース」が「幸せ」の源泉。
その「スペース」こそが本来の私たちという至福、生命そのものなのだ。
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ワークブック レッスン104
私は真に属するものだけを求める。
しかし、神の贈り物を受け取る用意ができた場所がなければならない。
神の贈り物があるべき場所に、それらの代替として自分で作り出した贈り物を受け取ってしまっている心は、神の贈り物を歓迎しない。
(1:4.5)
私たちは今日、神の贈り物が置かれるべき聖なる祭壇の上に自分でおいてしまった、無意味な自作の贈り物をすべて、取り除こうとする。
神からの贈り物は、真に私たちのものである。
神からの贈り物こそが、時間が存在する以前に私たちが継承したものであり、それらは時間が永遠の中へと過ぎ去ったときも私たちのものであり続ける。
神からの贈り物に時間はないので、それらは今も私たちの中に存在する。
だから私たちは、それらを手に入れるために待つ必要はない。
それらは、今日、私たちのものである。
(2:1~5)
私たちは心の中にある神の祭壇の前の神聖な場所をきれいに片づける。
(4;2)
私は真に私に属するものだけを求める。
神からの贈り物である喜びと平安が、私の望むすべてである。
(5:4.5)
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