この世界は赦しを練習する場所。
その赦しとは、訂正ということ。
間違っていたことをただ間違っていたと認めるだけ。
そして実在そのものは全く穢されてはいない。
ただ忘れ去られていただけ。
犠牲と期待という自我の泣き叫びをただ見よう。
そして、実在の中で寛ごう。
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レッスン122
赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。
赦しは、赦そうとしないまなざしで世界を見ている者たちからキリストの顔を隠しているベールを取り除く。
それはあなたに神の子を認識させ、生命なき想念のすべてをあなたの記憶から消し去り、父の記憶があなたの心の識域を超えてよみがえることを可能にする。
赦しがもたらせないような何を、あなたは望むだろうか。
これらの贈り物以外に、探し求める価値のあるものがあるだろうか。
想像された価値や、取るに足らない結果や、決して守られない一時の約束の中に、赦しが運んでくる以上のどんな希望がありえるだろうか。
(3:1~5)
すべての問いに答える解答があるというのに、なぜあなたはそれ以外の答えを探そうとするのだろう。
不完全や質問や無意味な要請、中途半端な傾聴や、いい加減な勤勉さと生半可な信頼、そうしたものに対する完璧な答えがここにある。
答えはここにある!
これ以上、答えを探すのはやめなさい。
この答えのかわりになるほかの答えを、あなたが見つけることはない。
(4:1~5)
蜘蛛の巣のように脆いが交錯した世界の複雑さはすべて、この極めて簡明な真理の声明の力と威厳の前で消滅する。
(6:7)