【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

「私」を越えた所にある「ひとつ」

「ひとつ」であるという正気を取り戻すレッスン。

 

現実だと思っている「外側」の世界との関わりを、すべてすべて「赦し」の対象として受け取り、受け入れ、流していく。

 

通り過ぎるのは「愛を求める泣き叫び」であり、通り過ぎた後は「愛」だけが残る。

 

私へ差し出された赦しは、あの人へ差し出された赦しと全く同等のもの。

 

あの人への赦しと私の赦しは全く同じもの。

 

それが起きていることを受け取るには、静かにしているだけ。

 

静かにしているだけ。

 

・・・・・

レッスン126

 

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

 

あなたがこの概念のかわりに何を信じているかについて考えてみよう。

あなたにはほかの人々が自分から離れて存在しているように見えており、彼らがあなたの考えに何の影響も与えずに行動できているように思えている。

したがって、あなたの態度は彼らに何ら影響を与えず、助けを求める彼らの懇願も、あなた自身のそれとは何の関係もないかのようである。

さらには、彼らが罪を犯しても、それがあなた自身についてのあなたの知覚に影響することはなく、あなたが彼らの罪を裁いても、あなた自身はその咎めから離れて心安らかでいられると、あなたは考えている。

(2:1~4)

 

あなたがこのようなやり方で罪を「赦す」とき、あなた自身に直接の益になるものは何もない。

あなたはただ、自分が赦す相手よりも自分のほうが善良で、より高い位置にいることを示すために、慈悲に値しない相手に慈悲を与えるだけである。

彼の罪は、かれをあなたと真に対等な立場よりも低いところに引きずり下ろしたのだから、彼はあなたから授けられる情け深い寛容さという身にあまる贈り物を受けるに値する者ではない。

彼には、あなたの赦しを要求する権利はない。

このような赦しは、彼に贈り物を差し出すだけで、あなた自身には何も与えない。

(3:1~4)

 

そうなると、赦しはおおむね根拠の不確かなものとなる。

慈善的な気まぐれ、情け深いが相手には不相応なもの、ある時は与えられ、またある時は与えずにおかれる贈り物ということになる。

相手にとって分に過ぎた贈り物なのだから、あなたがそれを出し惜しむのは当然なことであり、出し惜しんだからといってあなたが苦しむのなどは、もってのほかである。

あなたが赦す罪は、あなた自身のものではない。

あなたではない別の誰かが犯したものである。

だから、もし、それでもあなたが彼に対して、彼の身にあまるものを授けることで恵身を垂れるというのなら、そのようにして与えられる贈り物は、彼の罪があなたのものでなかったのと同様に、あなた自身の贈り物でもない。

(4:1~5)

 

もしこうしたことが本当なら、赦しには頼みにできる確実な根拠はないということ確実な根拠はないということになる。

それは、時折あなたが寛大になり、刑の執行を不当に猶予してみることを選ぶ、という奇行である。

しかも、その罪人が罪に対する正当な償いを怠らないようにさせる権利を、あなたは持ち続ける。

天主がこのようなものを救済の拠り所にさせると、あなたは思うのだろうか。

もしあなたの救済が気まぐれを拠り所にしているとしたら、あなたに対する神の配慮はまことにお粗末なものということにならないだろうか。

(5:1~5)

 

あなたは赦しを理解していない。

あなたの捉えている赦しは、あからさまな攻撃を牽制することでしかなく、あなたの心の中における訂正は要求されていない。

あなたの知覚している赦しはあなたに平安を与えることはできない。

それは、あなた以外の誰かの中にあなたが見ているものだから、あなたを解放する手段とはならない。

それには、彼をあなたの一体性をあなたの自覚に取り戻す力はない。

それは神があなたのために意図したものとは違っている。

(6:1~6)

 

あなたは神が求める贈り物を神に与えなかったので、神の贈り物を認識できない。

そして、あなたは神が自分にそれを与えなかったと考える。

しかし神は、あなたのためのものでない贈り物を、あなたから求めようとするだろうか。

神が無意味な意思表示の行為だけで満足し、そのようなつまらない贈り物を神の子にふさわしいものと評価したりするだろうか。

救済はそうしたものよりずっとよい贈り物である。

そして与えることは受け取ることなので、救済が達成されるための手段である真の赦しは、与える心を必ず赦す。

受け取られずに残っているのはまだ与えられていないものであり、与えられたものはすでに受け取られたはずである。

(7:1~6)

 

今日、私たちは与える者と受け取る者が同一であることを理解しょうとする。

これはあなたが慣れている考えからするとあまりにも異質なので、これを意味あるものにするには、あなたの助けが必要である。

しかし、あなたが必要としている助けはここにある。

今日、聖霊に信を抱き、あなたが今日行う真理の練習を聖霊が共有してくれるよう求めなさい。

もしあなたが今日、私たちが練習する主題概念の中にある解放をかすかにでも垣間見るなら、この日は世界にとって栄光の日となる。

(8:1~5)

 

今日の概念を理解する試みとして、今日は十五分の練習を二回行う。

この主題概念により、あなたの優先項目において、赦しが正しい位置を占めるようになる。

この概念によって、あなたの心は、赦しの意味を見えなくしていたすべての妨げから解放され、あなたは自分にとって赦しがいかに価値のあるものかがわかるようになるだろう。

(9:1~3)

 

赦しを理解しない世界に対して、沈黙して、目を閉じなさい。

そして、考えが変わり、誤った信念が放棄される静かな場所にある聖域を探しなさい。

今日の概念を繰り返し、それが真に何を意味するかを理解するための助けを求めなさい。

教えてもらおうという気持ちをもちなさい。

真理と癒しの声があなたに語ることを喜んで聞くなら、あなたは聖霊が語る言葉を理解し、聖霊があなたの言葉をあなたに語っているということを認識するだろう。

(10:1~4)

 

今日は、自分には目標があるということ、そしてその目標により今日が自分とすべての兄弟にとって特別に貴重な日になるということを、できるだけたびたび、思い出しなさい。

あなたの心がこのゴールを長時間忘れることがないように、次のように自分に言う。

私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

これが真理であることを学ぶのに必要な助けは、今、私とともにある。

私は聖霊を信頼する。

それから聖霊による訂正と聖霊の愛に心を開き、静かなひとときを過ごす。

そうすれば聖霊が与えるものがあなたに受け取られるので、聖霊から聞くことを、あなたは信じるだろう。

(11:1~7)