自分は何かの「犠牲」になるのが相応しいと思っていました。
ですが、その思考は自我だったのです。
そしてその自我を作ったのも私たちの力。
その力の源は愛。
だからもう見間違えない。
本当は「愛」だけが動機だったのです。
だから、もう迷いません。
迷ってもここに戻ってきます。
「愛」は私に相応しい。
「愛」は私たちに相応しいのです。
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レッスン131
真理に到達しょうとして、それに失敗する者はいない。
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達成できないゴールを追い求めているうちは、あなたには失敗ばかりがつきまとう。
あなたは永遠でないものの中に永遠を探している。
愛のないところに愛を、危険のただ中に安全を、死の夢という闇の中に不死性を探している。
探求の環境が矛盾しており、安定を見つけに行く場所も矛盾だらけだとしたら、いったい誰が望みを達せられるだろうか。
(1:1~3)
無意味なゴールは達成されない。
そうしたゴールを達成するためにあなたが用いる手段も、ゴールと同じように無意味なので、そこに到達する道はない。
そのように愚かな手段を用いながら、それを通して何かを得られる者などいるだろうか。
それがいったいどこへ導いてくれるだろうか。
そうした手段で、実在する見込みのある何を達成できるというのだろう。
想像の産物を追い求めることは無を探し求めることであり、行き着く先は死である。
だから生命を追求しているつもりで、あなたは死を求めている。
安全と保障と探しているつもりでも、心の中では危険を求め、自分が作り出した小さな夢が守られることを祈っている。
(2:1~7)
しかしこの世界では、何かを探し求めずにはいられない。
あなたは探すためにここに来たのだから、必ず探すことになる。
しかしあなたが世界にその力を与えない限り、どのゴールを追求すべきかを世界があなたに命じることはできない。
それをさせなければ、あなたは依然として自由に、世界やその中の一切の考えを超越したゴールを選ぶことができる。
それは、捨てたはずだが覚えている、古くて新しい想念から生じるゴールである。
そしてまたそれは、忘れ去られた遺産から響いてくるこだまでありながらも、あなたが真に望むすべてを含むものである。
(3:1~4)
あなたが探し求めずにはいられないことを喜びなさい。
そしてまた、あなたが探しているのは天国であり、真に望むゴールは必ず見つかると学べることを、喜びなさい。
このゴールを望まない者はいないので、それに到達せずに終わる者はいない。
その達成を遅らせようとしたり、自分を騙して、自分が求めているものは地獄であると思い込むことはできるが、神の子の探求が無駄に終わることはありえない。
間違っていれば、彼は訂正を見出す。
横道にそれたときは定められた任務へと導き戻される。
(4:1~6)
地獄にとどまり続ける者はいない。
誰も自分の創造主を捨てることはできず、時間を超越した不変にして完璧なその愛を変化させることもできないからである。
あなたは天国を見出すだろう。
あなたが追い求めるものでこれ以上は、すべて消えていく。
ただしそれは、そうしたものがあなたから取り上げられるからではない。
あなたがそれをほしいとは思わないから、去っていくだけのことである。
あなたは真に望むゴールに確実に到達する。
それは、神があなたを無罪性の中で創造したということと同じく、確かなことである。
(5:1~6)
なぜ天国を待つのだろう。
天国は、今日ここにある。
時間とは、天国が過去や未来にあるという巨大な幻想である。
だが神がわが子が天国にいることを意志するというなら、天国が過去や未来にあるということはありえない。
神の意志が過去にあったり、未来に生じたりするだろうか。
神が意志することは今ここにあり、そこにはまったく過去も未来もない。
それは、小さなろうそくの光が空の果ての星から遠く離れているのと同じくらい、時間からはるか遠くに隔たっている。
そして、あなたが選択したことも、同じように、あなた自身が真に望むことからはかけ離れている。
(6:1~7)
天国は、あなたのもう一つの選択肢として常に存在している。
それは、あなたが自分で作り出したこの奇妙な世界とそのすべての慣習や、次から次へと移り変わる様式や不確かなゴールや、その苦痛に満ちた楽しみや痛ましい喜びなどのかわりに、あなたがいつでも選ぶことができるものである。
神は対立するものは作り出さなかった。
自らの存在を否定して自らを攻撃するようなものは、神からのものではない。
神は二つの心を作りはしなかった。
だから、一つの心の喜ばしい結果として天国が生じ、もう一つの心の哀れな結果として天とは正反対の地が生じる、ということはないのである。
(7:1~4)
神が葛藤で苦しむことはない。
神に創造されたものも二つに引き裂かれることはない。
神ご自身が天国に住まわせた神の子が、どうして地獄の中にいることができるだろう。
永遠なる意志がいつまでも住むべき家として神の子に与えたものを、彼が失うことがありえるだろうか。
神のただ一つの目的にこれ以上、異質の意志を押し付けるのはやめよう。
神がそれを意志するので、神の子はここにいる。
そして、神の意志するものは、時間の届かぬ今ここにある。
(8:1~6)
今日、私たちは真理のかわりに矛盾を選ぶことはしない。
神の子が時間を作り出して、神の意志を取り去ることなどできるだろうか。
そうすることで彼は自分自身を否定し、対極のないものに対立する。
自分で天国に対立する地獄を作ったと考え、自分が本来は存在しないものの中に住んでいると思い込み、天国は自分には見出せない場所だと信じることになる。
(9:1~4)
今日は、このような愚かな考えを忘れ去り、そのかわりに心を真実の概念に向けよう。
そのかわりに心を真実の概念に向けよう。
真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない。
私たちが今日、到達しょうとしているのはまさにその真理である。
このゴールのために今日は一〇分間の練習を三回行い、実相世界が現われるのを見たいと求めよう。
意味もなく結果もなく、真理の中には源も実体ももたない考えにかわって真実の想念が生起し、それに伴い、実相世界がこれまで大事にされてきた数々の愚かな形象にかわって立ち現れるよう、私たちは求める。
(10:1~3)
私は別の世界を見て、自分で作り出したものとは違う種類の考えを思考できるようになることを求める。
私が探し求める世界は、自分ひとりで作り出した世界ではなく、私が思考したい想念は、自分ひとりで思考する想念ではない。
目を閉じて、何分間か自分の心を見つめ、実在しているとあなたが思う無意味な世界を、閉じたままの目で見てみる。
そのような世界に対応している考えや、あなたが真実だと思っている考えについても、思い起こしてみる。
その後そうした考えを離れ、それらが入ってこられない心の奥深くの聖なるところへと沈んでいく。
心の中のそうした考えの奥には扉があり、あなたはその向こうにあるものを隠すためにその扉に鍵をかけようとしたが、完全にかけることはできなかった。
(11:3~8)
その扉を探し、見つけ出しなさい。
しかし、それを開けようとする前に、真理に到達しようとして、それに失敗する者はいないと思い出そう。
そして、今日あなたが願うのはこのことである。
今や、これ以上のことには何の意味もない。
あなたはほかのどんなゴールにも価値をおかず、追及もせず、この扉のこちら側にあるものは一切望まず、ただその向こうにあるものだけを求める。
(12:1~4)
扉に手を伸ばし、その向こう側へ進もうとするあなたの決意一つで、その扉がいかに簡単に開くかを見なさい。
天使たちが道を照らすのですべての闇は消え去り、あなたは明るく澄み切った光の中に立っているので、目にするすべてが理解できる。
おそらくあなたは、ほんの一瞬、驚いて立ち止まり、そのあとすぐに悟るだろう。
目の前の光の中に見えている世界が、あなたが以前から知っていた真理を映し出しているということを。
そして、夢の中でさまよっていた間も、あなたはその真理をすっかり忘れることはなかったということを。
(13:1~3)
今日あなたに失敗はありえない。
あなたがいつかこの扉に近づくときのために天国から送られた霊が傍らを歩んでおり、あなたはその助けによりそこを難なく通り抜けて光に至るだろう。
今日、ついにその日がやってきた。
今日、神の子が神との往古の約束を思い出すとき、神も聖なる神の子との往古の約束を守る。
今日は喜びの日である。
私たちは今、あなたがここで探し求めていたゴールと、世界がこれまで追い求めてきたゴールのすべてを、あなたが見つけ出す定めの時と場にきている。
あなたが扉を通り抜けるとき、その探求のすべてが一緒に終わるだろう。
(14:1~5)
今日が特別の喜びの時となることをたびたび思い出し、陰気な思いを抱いたり、無意味に嘆いたりすることは控えよう。
救済の時はきた。
天国そのものによって、今日という日があなたと世界にとって、恩寵の時となるように定められている。
もしあなたがこの嬉しい事実を忘れたときは、次のように自分に言ってそれを思い出そう。
今日、私は自分が望むすべてを探し求め、それを見つける。
私の単一の目的がそれを私にもたらす。
真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない。
(14:1~7)