傷ついた、傷つけられたと言い合い、「個人」を主張しなければ、生き残れないと思い込む。
さらには、傷つき、傷つける、というアイデンティティーから離れないために、必死で「罪悪」の夢を紡ぎ続ける。
これまで、自分を「個人」と思い込んでいたため、ずっと、「個人」という分離のストーリーから目を離さなかっただけなのだ。
「自我」の目を、また別の「自我」の目に切り替え、違うストーリーを見たところで何も変わらない。
延々と「罪悪」を目撃するだけ。
「罪悪」を目撃し続けるのが「自我」の目的だからだ。
この「目的」に飽き飽きし、
この「目的」をしっかりと誤魔化さずに直視する。
「これが私がこれまで望んでいたものなのだ」とちゃんと理解する。
そして、その上で、
「もう、持っていたくありません」と、聖霊という正気の心にゆだねるのだ。
私たちにはただそれだけが求められている。
そうして、空になった両手には、溢れんばかりの至福の花束が受け取られていく。
眩しすぎるほどの喜び。
深い深い安らぎ。
宇宙の果てまでを、何一つ引いたり足したりせずにシンプルに祝福する心。
この不動の心が手に入る。
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レッスン133
私は無価値なものに価値を置かない。
あなたが人生に求めているものは、大きすぎるどころかあまりに小さい。
肉体に関する心配、購入すべきもの、世間が重んじる地位や名誉などに、自分の心が引き寄せられるままにするなら、あなたが求めているのは悲しみであって、幸福ではない。
このコースは、あなたがもっているそのわずかなものを取り去ろうとしているのではない。
世界の中で得られる満足感のかわりに、理想郷的な概念を提供しようとしているのでもない。
世界の中に、満足というものはないのである。
(2:1~5)
そうしたものは、より多くをもたらしてくれるものの代替にすぎないからである。
(3:2)
あなたが選択しているものが、どういう理由であなたにとって価値があるのか。
何があなたの心をそこに惹きつけるのか。
どのような目的にそれが役立つのか。
ここが、最も欺かれやすいところである。
というのも、自我は自分が何を欲しているのかを認識できないからである。
自我は自分が知覚しているままの真実を語ることさえしない。
なぜなら、自我は自分のゴールが汚れたり錆びたりしないように、周囲に光輪を保ち続ける必要があるからである。
そしてそれによって、あなたの目には自我が「無罪潔白」と映るようにしておく。
(8:2~7)
しかし、その偽装は薄っぺらなうわべだけのものであり、それが騙せるのは、騙されることに満足している者だけである。
(9:1)
罪が単なる間違いに過ぎないと信じることは誤謬だど、その導きは教える。
もし罪が間違いにすぎないなら、自分の罪のために苦しむものがいなくなってしまうからである。
(10:4)
複雑さとは、決断が難しくないという非常に単純な事実を隠す煙幕にすぎない。
(12:3)
天国そのものが、両手を空にして心を開いた者たちによって到達されるものである。
彼らは何も持たずにやってきて、すべてを発見し、すべてを自らのものと宣言する。
(13:1)
その後、天国の門に到達するすべての者を待っているものを、受け取りなさい。
重荷を担わずにそこに近づけば、門の扉は速やかに開く。
自分が不要な重荷を集め始めたり、何か困難な決断を求められていると信じそうになったら、すぐに以下の単純な考えをもってそれに対応しよう。
私は無価値なものに価値をおかない。
価値あるものが、私のものなのだから。
(14:1~3)