肉体に依存する。
誰かに依存する。
役割に依存する。
何か形や所属に依存する。
その時、自分の本性から遠く離れて、正気を失っていたのだ。
肉体を生き永らえさせる計画が、攻撃だった。
じっくりと思い返せば、これらの計画は苦痛と焦燥感しかなかった。
間に合わなかったらどうしょう。
間違っていたらどうしょう。
ちゃんとできなかったらどうしょう。
これが全部、実相から、愛から遠退くための防衛だったとは・・・。
防衛すればするほど、
信頼が遠のくのだった。
防衛の計画を立てない。
実相と愛に心を開こう。
生命を生きよう。
生命に生きるとは、
「今」にあること。
「今」に必要なのは「今」という「愛」だけだ。
・・・・・・
レッスン135
自分を防衛するなら、私は攻撃される。
・・・・・
まずはじめに、あなたは防衛で何を守ろうとしているのか、よく考えてみよう。
それは非常に弱々しくて、簡単に攻撃されるものであるに違いない。
すぐに餌食となり、自分で自分を守ることができず、あなたに防衛してもらうことを必要としているものに違いない。
そのわずかな生命を守るために、絶え間なく氣にかけ、油断なく心配する必要があるほどに脆弱なものと言えば、肉体以外に何があるだろう。
いつかは衰えて、神の子が住むにふさわしい家として役に立たなくなるものと言えば、肉体以外に何があるだろう。
(4:1~5)
しかし、肉体そのものが恐れるわけでなく、恐ろしいものになれるわけでもない。
肉体は、あなたからあてがわれている必要以上には必要というものをもたない。
それは複雑な防衛の仕組みや、健康増進剤を必要とせず、世話も心配も必要としない。
肉体の生命を防衛したり、それを美しくするための贈り物や安全にするための防壁を肉体に与えるなら、あなたは自分の住む家が、時間という泥棒の出入りする、朽ちて崩れ落ちていく家だと言っていることになる。
あまりに安全性に欠けるので、命にかえても守らなければならないものだと言っているのである。
(5:1~4)
これこそ、恐ろしい映像ではないだろうか。
自分の住む家についてそのような考えを抱きながら、安らかでいられるだろうか。
しかし、このようなものとしてあなたに仕える権利を肉体に賦与したのは、ほかならぬあなたの信念である。
(6:1~3)
肉体に防衛は必要ない。
このことはいくら強調しても、強調しすぎることはない。
心が肉体を乱用しなければ、肉体は丈夫で健康なものとなる。
そして心による肉体の乱用とは、肉体が果たせないような役割や、その許容範囲を超えた目的や達成できないほど高い目標を、肉体にあてがうことによってなされる。
(7:1~3)
保護を必要とする「自己」は実在していない。
(8:1)
肉体を防衛するなら、あなたは自分の心を攻撃したことになる。
それは、あなたが心の中に欠陥や弱点や限界や不足を見たということであり、そうしたものから救われるべきものが肉体であると考えているということだからである。
(9:1.2)
こうした考えこそが、癒されるべきものである。
(10:1)
癒された心は計画を立てない。
自分のものではない叡智に耳を傾け、そこから受け取る計画を実行する。
何がなされるべきか教えられるまで待ち、その後それを実行に移す。
与えられた計画を成就できる状態でいようとする以外には、自分自身には頼らない。
癒された心は安全である。
すべての人のためのより大きな計画の一端を担うゴールを達成すべく前進しているとき、どんな障害もその道を阻むことはできない、という確信を抱いている。
(11:1~5)
癒された心は、自分で計画しなければならないという信念から解放されている。
それでも、その心には、最良の結果やそれを達成する手段は何なのか、より大きな計画が解決することになっている問題はどのようにして認識できるかを、知ることはできない。
このことが本当だと認識するまでは、心はどうしても自分の計画の中で肉体を誤用してしまう。
しかしこれを真理として受け入れたとき、心は癒され、肉体を解き放つ。
(12:1~3)
癒されていない心が自らを救うために作り出した計画に、肉体が隷属させられるなら、肉体は必ず病んだものとなる。
癒されていない心は、その心だけの保護をはるかに超えることを目指している計画が、少しの間その心からの協力を必要としていても、そのために役立つ手段となれるほどに自由ではない。
心がその計画に仕えていれば、健康は保証される。
この計画のために心が用いるものはどれもみな、そこで授かっている力とも相俟って非の打ちどころなく機能し、失敗することはありえないからである。
(13:1~4)
おそらく、自分ひとりで立てる計画がどれも防衛にほかならないと知覚することは、容易ではないだろう。
(14:1)
自分のために計画する心は、未来の出来事を制御することに余念がない。
自分で自分自身の蓄えを作らない限り、どこからかそれが与えられるとは考えない。
時間は、未来に重点が置かれたものとなり、過去の出来事や以前に信じたことから得られる学びや経験によって制御されるべきものとなる。
そうした心は、未来の方向性を決めるのに必要なことを過去がすでに充分に教えてくれたという考えに基づいているため、現在を見落としてしまう。
(15:1~4)
だから計画する心は、変化を可能にすることを拒否している。
心が過去に学んだことが未来のゴールの土台となる。
過去の経験が、未来に起こることの選択を方向づける。
そうした心が理解していないのは、古い考え方や病んだ信念が継続することがないような、まったく過去とは異なる未来を保証するのに必要なすべては、今ここにあるということである。
現在の確信が道を決めるのだから、予想はいかなる役割も果たさない。
(16:1~5)
防衛とは、真理に対抗してあなたが作り上げようとする計画である。
(17:1)
だが、あなたが歩んできた一歩一歩に神の愛に満ちた祝福が輝いていたことを、あなたの防衛が、あなた自身から隠していた。
あなたは死のための計画を作り上げたが、神はあなたを優しく永遠の生命へと導いた。
(18:3.4)
神に対するあなたの現在の信頼もまた別の防衛であるが、それは一すじの悲しみの跡も残さず、喜びだけが絶え間なく増え続けるような、何ものにも乱されない未来を約束する防衛である。
それにより、この人生そのものが、時間の中におかれていてもただ不死性のみを注視する聖なる瞬間となるからである。
現在の信頼だけを防衛とし、それに未来の方向を決めさせなさい。
(19:1.2)
私たちは今日、現在の確信をもって、その時を待ち望む。
これが、私たちのために計画されていることの一部だからである。
今日これを達成するために、私たちに必要なものはすべて与えられていることを確信する。
どのようにしてそれがなされるかは計画しない。
そのかわり、真理が私たちの心に確実に明らかになるために必要なのは、私たちが防衛しないでいることだけだということを悟る。
(21:1~3)
今日は十五分ずつ二回、休息し、無意味な計画を立てるのをやめ、真理が心の中に入ってくるのを阻む思考のすべてから離れる。
今日、私たちは計画するかわりに、受け取ることを行う。
整えようとするかわりに、与えることができるようになるためである。
自分を防衛すれば、私は攻撃される。
しかし攻撃しないでいるとき私は強き者となり、自分の防衛が何を隠しているのかを学ぶだろう。
(22:1~5)
天国は何も要求しない。
とてつもない犠牲を要求するのは地獄である。
(24:3.4)
今日という日を、あなたが自分に最も有利になると信じるものに形作ろうとしてはならない。
なぜなら、自分で計画しないことでもたらされる幸福のすべては、あなたが思い描くことさえできないものだからである。
今日、学びなさい。
そうすれば、全世界がこの大きな一歩をあなたとともに踏み出し、ともにあなたの復活の時を祝うだろう。
一日を通し、愚かしい些細な事柄があなたの内に防衛を引き起こし、計画を立てるようにとあなたを誘うかに見えるときには、今日の学びのための特別の日であることを思い出し、それを次の言葉で確認しよう。
今日は私の復活の時である。
だから私は今日を神聖に保ちたい。
私は自分を防衛しない。
神の子は、自分の実相の真実から身を守る防衛を必要としてはいないのだから。
(26:1~8)