自分の中の一部の何かだけでも癒し残っていたら、癒されていないのと同じように、
この世界の誰ひとりの赦し、癒しも残っているのなら、癒されていないのと同じ。
この世界はひとつなのだから。
この「ひとつ」という、性質の方に心を戻すのだ。
一見バラバラに見えていて、好き嫌いや趣味趣向がさまざまな部分をどうにか無理やり受け入れる、ということではない。
そこは問題ではないのだ。
そういう意味でも、癒しとゆるしは、「自我」には不可能なこと。
「自我」は特別性を主張し、「特別」を見続けているから。
その「自我」は脇に置き、
真のアイデンティティーが私たちの本性だと見抜き、真に理解し、お引越ししていくことなのだ。
もう自我でどうにかするこの機能を止めて、全部を聖霊の思考へと明け渡していく。
自我同士は分裂しており、つながることはできない。
本当に不可能なのだ。
自我の性質を見定めよう。
だから、自我の訴えは、全部、どうでもいいことなのだ。
抑圧ではなく、どうでもいいことだったと認めることなのだ。
そこに「力」を見ない。
そこに「力」があるとしている催眠から目覚める。
「形」は壊れる。
何の意味もないし、壊れたからといって、残念なことでもない。
そもそもそれは訂正される勘違いなのだから。
このことを認める決意。
自我が消えてしまうからこそ、取り組みたくなかったゆるし。
ゆるしたくなかった。
癒されたくなかった。
そんな自我の叫びの全部を見つめて、その消えていくさまを見つめる。
それと同時に入れ替わる喜びを認める。
「ひとつ」という性質、その「愛」に拡張していく。
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レッスン137
私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。
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病気とは孤立である。
それは、ひとつの自己がほかの自己たちの感じないものによって苦しむために、
その自己をほかのすべての自己から切り離しておくように見えるものだからである。
それは、分離を実在化し、心を独房に閉じ込めておける決定的な力を、肉体に与える。
そうして、心は小さく切り離されて、病んだ肉の塊という堅固な壁で隔てられた無数の断片と化す。
(2:1.2.3)
しかし癒しは、再びひとつになろうという彼自身の決断であり、自らのすべての部分を攻撃されることも損なわれることもなく保っている彼の真の自己を、受け入れようという決断である。
(3:4)
病気が強要しようとする分離は、本当は一度も生じてはいない。
(4:3)
だから癒しは、夢に対抗する夢と呼ぶことができる。
それは真理そのものにおいてではなく、真理の名において、病気という夢を無効にする。
なされたことのない罪を赦しが看過するのと同じように、生じたことのない幻想を、赦しが取り除く。
一度も存在したことのないものと入れ替わるために実相世界が現われるのと同じように、癒しは、夢が真理の写し絵として描き出す仮想状態と誤った想念を、本来あるべき状態に復元するだけである。
(5:1~3)
だからといって、癒しにはこの世でのあなたの機能としての値打ちがないと思ってはならない。
世界が実在するという夢を見ている者たちにとっては、反キリストのほうが、キリストよりも堅固で安定したもののように見える。
肉体のほうが心よりも堅固で安定したもののように見える。
そして、愛が夢となり、その一方で、怖れだけが、目に見え、正当化され、充分に理解される唯一の現実となる。
(6:1~4)
癒しは強さである。
優しいその手によって、弱さが克服され、肉体の壁に閉じこめられていた心が自由になり、ほかの心と合流して、永遠に強きものとなるからである。
(8:5.6)
癒すこと、赦すこと、そして、悲嘆の世界のすべてを、悲しみが侵入できない世界と喜んで交換することーーーこの三つが、聖霊に従うようにとあなたに促すための聖霊の手段である。
(9:1)
そして自分自身が癒されるままにするとき、周囲の人々も、心に思い浮かぶ人々も、あなたが接する人々も、何の接触もないように見える人々も、すべて自分とともに癒されることがわかるだろう。癒しの到来を受け入れるとき、あなたはそうした人々のすべてを認識することはないかもしれないし、自分が全世界にどれほど大きなものを差し出しているのか実感できないかもしれない。
しかし、あなたは決してひとりだけで癒されるのではない。
あなたが癒されるとき、あなたが受け取る贈り物を、数限りない人々が受け取るだろう。
(10:1.2.3.4)
癒された者は癒しの媒体となる。
(11:1)
起こらざるをえないことが起こるようにと求めなさい。
そうすれば、決して失敗することはない。
(12:4)
私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。
私の唯一の自己である神のひとり子の心から病気が追及されるように、私は自分の癒しを世界と共有したい。
(14:3.4)
私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。
私は兄弟たちを祝福したい。
彼らが私とともに癒されるとき、私も彼らとともに癒されたいのだから。
(15:5)