「恐怖」で動く。
例えば、
「死なないように」
「食べていかないといけないから」
「何もしないって無価値だと思うから」
「認められないと存在してはいけない」
「〇〇がないと、無能だから」
無数にある「恐怖」から波及した信念。
この「恐怖」で動いている間は、私は私を生きていない。
私ではない「異邦人」、あるいは「亡霊」だ。
「恐怖」の支配下のもと、亡霊となっていた。
「恐怖」は幻ゆえに、「恐怖」の支配下の間は私たちも幻。
真に生きるとは、「神の子」「実相」を生きること。
それは高尚なことでも、難解なことでも、敷居の高いことでもなんでもない。
「恐怖」を見抜くだけだ。
「恐怖」の見抜き方は、「恐怖」を思った時の身体感覚を全部感じ切ることだ。
そして聖霊に渡してしまうことだ。
それこそ、長年、「恐怖」をもとに生きてきたので、この感情感覚を感じ切っていく状態はしばらくは続く。
そう簡単に消えない。
だけど、感じ切った分だけ、「恐怖」は過ぎ去っていく。
どんどん「恐怖」の正体が暴かれていく。
そして「恐怖」の力はなくなり、透明になっていく。
その透明な先に、「神の子」「実相」が笑って待っていてくれている。
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ワークブック
レッスン160
私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。
もしあなたが実在するなら、恐れは幻想に違いない。
そしてもし恐れが実在するなら、あなたはまったく存在しないということになる。
(4:7.8)
彼は道に迷っている。
しかし今、奇跡が彼を探し出して、彼は異邦人などではないと教えるだろう。
その奇跡は訪れる。
彼の家には、彼の真の自己が今もとどまっているからである。
自己は異邦人を家の中に招き入れたことはなく、異質な想念を自分自身と取り違えることもしなかった。
そして自己は自分に属するものを認識して、それを自分自身へと呼び戻すだろう。
(6:4~8)
神が合一させたものは永遠にひとつであり続け、神の家でくつろいでおり、神ご自身にとって異邦人ではない。
(8:5)
彼らはキリストを異邦人と見なしているが、それは彼らが自分自身を認識していないからである。
しかしキリストを歓迎するとき、彼らは思い出す。
そしてキリストは彼らを再び、彼らの家へと優しく連れ帰る。
(9:3~5)
キリストは誰も忘れてはいない。
あなたが思い出すべき相手をひとり残らず、キリストがあなたに与えてくれる。
それによって、あなたの家はそれが建てられたときと同じように、完全で完璧なものとなるだろう。
キリストはあなたを忘れてはいない。
しかしあなたは、キリストが見ている通りにすべての者と見るようになるまでは、キリストを思い出すことはないだろう。
自分の兄弟を拒む者は、キリストを拒んでいる。
そうすることで、視覚の贈り物を受け入れるのを拒否している。
だがその視覚こそが、自分の真の自己をはっきりと認識し、わが家を思い出し、救済が訪れるための手段である。
(10:1~5)