昨日の「不機嫌さ」というピンポイントの心の隅のひだにたどり着いて感謝しかない。
これまでも、「犠牲心」や、「拗ねている心」とか、「愛の欠如」という言葉で、どんどんと闇が暴かれていってたのだけど、
「不機嫌さ」が一番しっくりきました。
幼いころの最初の思い出として思い出されるのが、
「不機嫌そうな母と、それを不可解な感じで距離を取りながら座ってる幼い私」でした。
このストーリーに潜んでいた感情感覚をまるごと感じていくと、
今日のレッスンである「私は、神が創造したままの私である」という言葉が、そのまま心にスっと入ってきます。
疑いようのない真実として受け入れ、心はしっとりと喜んでいます。
本当にありがとうございます。
ありとあらゆる記憶にも感謝が湧きます。
これからも、ひたすら、出てきたものを「訂正」し、生命を喜びます。
ありがとうございます!
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ワークブック
レッスン162
私は、神が創造したままの私である。
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この言葉が消し去ることのできない夢はなく、その力を前にして、夢の中の罪の想念や幻想が一つ残らず消えていく。
この言葉は、世界中に鳴り響く覚醒のトランペットである。
その呼びかけに応えて、死者がよみがえる。
そして生きてこの音を聞く者たちは、決して死を見ることはない。
(2:3~6)
この言葉を自分のものにする者こそ、まさしく聖なる者である。
一日中それを思い出し、夜になればそれとともに眠りにつく。
彼の見る夢は幸せな夢であり、彼の休息は確保され、安全は確実であり、肉体は癒される。
なぜなら、眠るときも目覚めるときも、彼の前には常に真理があるからである。
彼は世界を救うだろう。
なぜなら、真理の言葉を練習するたびに、彼は自分が受け取る言葉を、世界に与えるからである。
(3:1~3)
私たちは今日、あなたを尊ぶ。
あなたには、今あなたが受け入れる完璧な聖性をもつ権利がある。
これを受け入れることによって、救済がすべての者にもたらされる。
このように完璧な聖性が世界を祝福したというのに、いったい誰が罪を大切にしていられるだろう。
完璧な喜びがあなたのものであり、すべての者がその喜びを用いて悲嘆や悲惨やあらゆる損失の感覚を癒し、罪や罪悪感から完全に脱出できるというときに、誰が絶望などしていられるだろうか。
(5:1~4)