虐待のニュースを見るとはらわたが煮えくり返るほど怒りが噴出する。
子どもにもしものことがあったらと想像もしたくない絶望的な感覚を心の奥に押し込んでいる。
このまま世界が混乱してこれまでのような生活が出来なくって惨めに死んでいくことを想像すると心が拒否反応をする。
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これらの「死」にまつわる嫌な感覚、思考、信念。
そんな時、「思考」の中に住んでいるのだ。
「思考」は分離の産物だから、分離のストーリーを作り続ける。
過去や未来に飛んでいて、心は散り散りになっている。
私の外に罪悪を作ることで、自我は成り立っている。
「今」にいないのだ。
これが自我の働き。
神は今にしかいないことを思い出したい。
そして、"今"は生命そのもの。
その生命が神であり、私たちの本性なのだ。
いつも思い出せますように。
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ワークブック
レッスン163
死は存在しない。神の子は自由である。
死とは一つの想念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。
それは悲しみや恐れや不安や疑いのように見えるかもしれない。
あるいはまた、怒りや不信や信頼の欠如のように見えるかもしれない。
さらには、肉体にまつわる心配や羨望など、本来の自分ではないものでありたいという願望があなたを誘惑しょうとして纏うありとあらゆる形態も、ここに含まれる。
こうした想念のすべては、死が救済者かつ解放者として崇拝していることの反映にすぎない。
(1:1~3)
死の化身、罪ある者たちの神、すべての幻想と欺瞞の君主として、死という概念は強力なものに見える。
死はそのしなびた手ですべての生命あるものを掴み、あらゆる希望や願望を枯渇させるかに見える。
そしてまた、その何も見えない目で知覚したすべてのゴールをその掌中に収めているように見える。
脆弱な者たち、無力な者たち、病気の者たちはその姿の前に頭を垂れ、それのみが実在し、避けられないものであり、
信頼に値すると考える。
死だけが確実に訪れるからである。
(2:1~4)
神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。
なぜなら、それは神がかって生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、
おそらくは神の存続を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。
神の意志より強い彼らの意志が神の意志に勝利し、永遠の生命が死に譲歩した。
そして父とともに、子も死んだ、というわけである。
(7:1~4)
死を崇拝する者たちは恐れているかもしれない。
それでも、こうした考えは恐れるほどのものだろうか。
もし自分たちが信じているのは単にこれだけのことだとわかれば、彼らはたちまち解放されるだろう。
そしてあなたは今日、これらのことを彼らに実証する。
死は存在しない。
そして、彼らの救済のため、および私たち自身の救済のためにも、私たちは今、あらゆる形態の死を放棄する。
神は死を作らなかった。
だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。
これが、私たちが今日とる立場である。
そうすれば、私たちは死を看過ごして、その向こうにある生命を見ることになる。
(8:1~8)
父よ、今日、私たちの瞳を祝福してください。
私たちはあなたの使者です。
すべてのものの中で輝くあなたの愛の栄光ある反映を見たいと願っています。
私たちは、ただあなたの中でのみ生き、活動します。
私たちはあなたの永遠の生命から分離してはいません。
死は存在しません。
死はあなたの意志ではないからです。
そして私たちは、あなたが私を置いた場所、私たちがあなたや生命あるすべてのものと共有している生命の中に留まります。
そうすれば、私たちは常しえに、あなたと同質のものであり、あなたの一部です。
私たちはあなたの想念を私たちのものとして受け入れるので、私たちの意志はあなたの意志と永遠にひとつです。
アーメン。
(9:8)