イエスや観音様の優しいまなざし。
どうしたらあのような慈愛に満ちたまなざしになれるのだろうかと密かな目標として思っていた。
そして、その反面、とうていそんな器じゃないし、犠牲心で生きていかなきゃいけない気がして拒否していた。
長い間、大きな勘違いの中を生きてきた。
私の心は卑小さでささくれ立っていて、「愛」なんかちっとも湧かった。
湧いたら湧いたで、人より優位に立つのに利用していたのだ。
自我ってなんて恥ずかしいの・・・トホホ。
真の「ゆるし」を教えてもらわなければ、イエスの心眼にたどり着くのは不可能だった。
「何も起こっていません」という「ゆるし」。
完全なサレンダーの姿勢。
沈黙と光。
私は赤ちゃんのように、甘え、手を引いてもらい、光の中を歩きます。
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ワークブック
レッスン164
私たちは今、私たちの源である神とひとつである。
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今でなくいつ、真理が認識されるのだろう。
現在だけが、存在する唯一の時間である。
そして今日、この瞬間に、永遠に存在するものを私たちは眺める。
ただしそれは私たちの視覚ではなく、キリストのまなざしにおいて永遠のものである。
キリストは時間を超えたところを眺め、そこに表現されている永遠を見る。
無意味でせわしい世界が生み出すいろいろな物音も聞いてはいるが、かすかに聞こえるだけである。
それらすべてを越えて、天国の歌だけが聞こえており、この世界の物音よりもずっと明瞭で有意義で身近なものとして、神を代弁する声が耳に響いているからである。
(1:1~6)
キリストがあなたに自らの視覚を与え、あなたにかわって聞き、彼が聞いている一なる呼びかけにあなたの名で応えるのだから、あなたの今日の練習は、何と神聖なものだろう!
この世界を越えて、キリストとともに過ごすためにあなたが差し出す時間は、限りない静けさで満たされる。
(3:1~2)
世界が侵入することのできないような静寂というものがある。
あなたの胸に抱かれて、今も失われていない古くからの平安がある。
あなたの中には、罪の想念が一度も振れたことのない聖性の感覚がある。
このすべてを、あなたは今日、思い出す。
今日の練習を忠実に行うことにより、これまでにあなたが追及したどんなものともまったく異なった、非常に大きな報酬がもたらされるので、あなたがここに自分の宝があることや、ここが自分の安息の場であることを知るだろう。
(4:1~5)
私たちは今日、裁かない。
世界を越えたところで下された審判から私たちに与えられたものだけを受け取る。
(5:1.2)
私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びは増すばかりである。
私たちはキリストの視覚の中で赦されており、全世界は私たちの視覚の中で赦されている。
救い主は光の中で私たちを見ている。
それと同じ光の中で私たちが見つめるとき、私たちは世界を祝福する。
そしてまた、私たちが自分の視覚ではなく救い主の赦しの心眼を通して自分に与えられている自由を世界に差し出すとき、私たちは世界を祝福する。
(7:4~6)
練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。
あなたのとるに足らない宝物を片付け、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。
そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。
(8:1.2)
真剣に練習しなさい。
そうすれば、これらの贈り物はあなたのものとなる。
神があなたを欺こうとするだろうか。
神の約束が果たされないということがあるだろうか。
神の手が完全な救済をわが子に差し出しているときに、あなたがそのように卑小なものを手放さずにいられるだろうか。
(9:5~8)