目が離せないほど澄み切った佇まいや、差し出された豊かな愛に出会うと、心の底から救われた気持ちになるし、拝みたいほどの感謝の気持ちで胸いっぱいになる。
そして、自分もそうありたいと思う。
だけど、これを願望にしてしまうと、「欠乏」からの願いとなってしまい、「欠乏」のストーリーを作り出し続け、「愛」にはたどり着かない。
あの澄み切った清々しさや溢れる愛は、こうした「願望」や「欠乏」という「分離」を見抜いて、それらを捨て去り、目が覚めたからこその在り様だから。
だから、今日も淡々と、日常の中で、心の中に湧いてくる、差異への動揺や反応を、「訂正」の機会として、全部残らず感じて、明け渡す。
それと同時に、内側に垣間見える清々しさの片鱗の中で休らい、その恩寵に感謝する。
そして、こうして与えられている恩寵を、私も一つ残らず与えられるように、心を開き続けたい。
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ワークブック
レッスン169
恩寵より、私は生きる。恩寵により、私は解放される。
しかし、開かれた心には目覚めを促す呼びかけが聞こえるという意味において、私たちは恩寵のための準備を整えてはいる。
そのような心は神の声に対して固く閉ざされてはいない。
自分の知らないことがいくつもあるということを自覚するようになっており、それによって、自分が慣れ親しんでいる体験とはまったく異なる状態を受け入れる用意ができている。
(3:4~6)
赦しが、救済を貫いている中心的主題であり、それにより、救済のすべての要素が有意義な関わりの中に保たれ、救済が進む経路が定まり、その成果が確かなものになる。
そして今、私たちは恩寵を求める。
それは救済が授けることのできる最後の贈り物である。
恩寵が提供する体験は時間の中で終わる。
なぜなら、恩寵は天国の前兆であるとはいえ、それが時間の想念と入れ替わるのは、ほんのわずかな間だけだからある。
(12:1~3)
そのわずかな間で充分である。
そこに奇跡が置かれる。
あなたは恩寵の体験を通して聖なる瞬間を受け取り、そこから、その奇跡をあなたの顔に残る光を見るすべての者たちへと与え返す。
キリストの顔とは、時間を超えたところにわずかに足を踏み入れ、そこで一瞬の間感じた一致の状態を鮮明に映し出すものを持ち帰り、世界を祝福した者の顔にほかならない。
あなたの一部が外側に残され、何も知らず、目覚めることなく、あなたが真理を証ししてくれるのを必要としている間は、どうしてあなたがついに永遠に達することなどできるだろう。
(13:1~4)
一瞬の間そこに行き、恩寵が与える贈り物を受け入れることを喜びとしたように、戻ってくることについても感謝しなさい。
あなたはそれらの贈り物を自分自身に持ち帰る。
そして啓示はもはや遠く離れたところにあるのではない。
それが訪れることは確実となっている。
私たちは恩寵を求め、恩寵からくる体験を求める。
私たちは、それがすべての者に差し出す解放を歓迎する。
私たちは求めること自体が不可能なものは求めない。
恩寵が授けることのできるものを越えたところを見ることはしない。
恩寵が授けるものであれば、私たち自身に与えられた恩寵の中で、私たちにも与えることができる。
(14:1~9)
今日の私たちの学びの目標は、以下の祈りを超えるものではない。
けれども、この世界の中に、今日私たちが求める以上のものがあるだろうか。
私たちは聖霊の恩寵を求め、聖霊は私たちの求めに応じて、聖霊が受け取った通りにそれを与えてくれる。
恩寵により、私は生きる。
恩寵により、私は解放される。
恩寵により、私は与える。
恩寵により、私は解放する。
(1:1~6)