看過すること、無関心であること、という意味を誤解していたことに改めて氣がつきました。
マザーテレサの「愛の反対は無関心」という言葉を鵜呑みにしていましたし、さらには、調べてみるとこれはマザーテレサの言葉ではなかったみたいです!!
(情報やイメージが作り上げる鵜呑み、歪曲、まさに幻想という構造ですね)
マザーテレサは、
・「すべての人が幸せになる。これを邪魔している最大の敵は、私達の心の中に住む隣人の苦しみ、痛みへの”無関心”ではないでしょうか」と言われたのが、違う様に伝わっているみたいです。
また、マザーテレサが言ってたのはこれらのことだと。
- 平和は微笑みから始まります。
- この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。
- 私たちは、成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです。
- ノーベル平和賞受賞のインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサは、「家に帰って家族を愛してあげてください。」と答えた。
こんな受け答えをしていたという記事を見つけました・・・。
だから、マザーテレサは「愛に無関心」になってるよ~って伝えていたのだなぁ~って。
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「コース」を理解するまでの私は、自我の鵜呑みで、「愛の反対は無関心」という言葉を使って、自分を責めるための材料にしていました。
自分と人の”自我”に関心がそもそもないことや、さらにどんどんなくなっていくことはダメなこと、冷酷なことで、自我に真剣に向き合う必要があるってどこかで思い込んでいたり、
他者の自我に取り合わないことで、他者から責められるという投影を作りだして、自分を責めたり。
特にセラピーの仕事での「受容」を取り間違えていて、自我に「関心」を持つ必要があるんだと思い込んでいて、頑張ってそうしなければと思い込み、本当にはそれが出来ていない自分を責めていました。
だけど、「自我」が「自我」を受容することは不可能なことだったし、これこそが「自我」をリアルに仕立てあげ、罪意識を永遠に続けさせるためのものだったのです。
逆に、「受容」や「信頼」とは、自我に「関心」を向けずに、優しく見過ごし、奥にある「真の私たち」を見ることなのです。
自我への関心は、幻への関心。
「愛の反対は無関心」は自我による勘違い。
自我へ向けた関心は不可能だったのです。
この間違いを認め、真実に心を向けることだったのです。
自我への「関心」という無謀な行為を手放し、愛への「無関心」という不自然さをやめること。
もっとも、「愛」は私たちが関心を向けていなくても、ずっと私たちに与えられていて、ずっと私たちを包んでくれているから、いつからでも氣づけばもうすでに愛に包まれる。
ただこの事実だけに関心を向け、心を開きます。
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ワークブック
レッスン172
防衛しないことの中に、私の安全がある。(153)
私は神の司牧者のひとりである。(154)
神は愛であり、だから私も愛である。