【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものが私たちでした。

すべてが愛で出来ている(W レッスン172)

看過すること、無関心であること、という意味を誤解していたことに改めて氣がつきました。

 

マザーテレサの「愛の反対は無関心」という言葉を鵜呑みにしていましたし、さらには、調べてみるとこれはマザーテレサの言葉ではなかったみたいです!!

(情報やイメージが作り上げる鵜呑み、歪曲、まさに幻想という構造ですね)

 

マザーテレサは、

「すべての人が幸せになる。これを邪魔している最大の敵は、私達の心の中に住む隣人の苦しみ、痛みへの”無関心”ではないでしょうか」と言われたのが、違う様に伝わっているみたいです。

 

また、マザーテレサが言ってたのはこれらのことだと。

  • 平和は微笑みから始まります。
  • この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。
  • 私たちは、成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです。
  • ノーベル平和賞受賞のインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサは、「家に帰って家族を愛してあげてください。」と答えた。

こんな受け答えをしていたという記事を見つけました・・・。

 

だから、マザーテレサは「愛に無関心」になってるよ~って伝えていたのだなぁ~って。

 

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「コース」を理解するまでの私は、自我の鵜呑みで、「愛の反対は無関心」という言葉を使って、自分を責めるための材料にしていました。

 

自分と人の”自我”に関心がそもそもないことや、さらにどんどんなくなっていくことはダメなこと、冷酷なことで、自我に真剣に向き合う必要があるってどこかで思い込んでいたり、

 

他者の自我に取り合わないことで、他者から責められるという投影を作りだして、自分を責めたり。

 

特にセラピーの仕事での「受容」を取り間違えていて、自我に「関心」を持つ必要があるんだと思い込んでいて、頑張ってそうしなければと思い込み、本当にはそれが出来ていない自分を責めていました。

 

だけど、「自我」が「自我」を受容することは不可能なことだったし、これこそが「自我」をリアルに仕立てあげ、罪意識を永遠に続けさせるためのものだったのです。

 

逆に、「受容」や「信頼」とは、自我に「関心」を向けずに、優しく見過ごし、奥にある「真の私たち」を見ることなのです。

 

自我への関心は、幻への関心。

「愛の反対は無関心」は自我による勘違い。

自我へ向けた関心は不可能だったのです。

 

この間違いを認め、真実に心を向けることだったのです。

 

自我への「関心」という無謀な行為を手放し、愛への「無関心」という不自然さをやめること。

 

もっとも、「愛」は私たちが関心を向けていなくても、ずっと私たちに与えられていて、ずっと私たちを包んでくれているから、いつからでも氣づけばもうすでに愛に包まれる。

 

ただこの事実だけに関心を向け、心を開きます。

 

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ワークブック

レッスン172

 

防衛しないことの中に、私の安全がある。(153)

 

私は神の司牧者のひとりである。(154)

 

神は愛であり、だから私も愛である。