頭のおしゃべりは刺々しい。
刺々しいって言う自覚がなかったけど、冷静に観察すると、残酷だし、荒唐無稽だし、はちゃめちゃ、自分本位の巨大な妄想。
とても怖がりで防衛のための計算に余念がない。
トゲトゲ、自我自我、ジガジガ。
けど絶対頭のおしゃべりは止められないって思って諦めていたので、思考を抑圧して、気づかないふりをしてるしか出来なかった。
コースに出会わなかったら、止めどなく出てくる思考を責めつつも、新たな思考やセラピーなどで誤魔化し、抑圧し、外に投影して、被害者のフリして、表面では、良い人を演じて、裏では殺伐としながら過ごし続けていた。
だけど、コースに巡り合い、"訂正"という真の解決法を教えてもらった。
あなたが"罪"と思いこんでいる思考は罰せられるものではなく、訂正するものです、と。
あなたは「心」です、と。
「心」とは一つのものです、
全てが「心」であり、それは愛によって創造され、この真実を思い出すことで、愛を創造していると自覚していきます、と。
トゲトゲ思考の中に住んでいた私は、「心」を無視していたし、どうせ「心」には行き着かないと思い込み、自分で自分を制限し、「思考」の中に居座っていた。
「心」という"純粋な意識"には相応しくない。
「思考」の外には到底、出られそうにない、「思考」が止まることはないのだから、、。
ですが、「心」に留まる一瞬の積み重ねに時間を使うことによって、「思考」を中心に置かなくなっていく。
自分も周りの全ての人も「心」だったと認識できていくことで自覚が生じていく。
「思考」の世界を遥かに凌駕する至福感。
一度"啓示"に触れたならば、「思考」を無理に止める必要はなくなる。
「心」の圧倒的な安らぎを前に、「思考」はただ静かに退かれていく。
私たちは「心」の住人。
そして、その「心」とは“神の国"のもの。
神の国という永遠が私。
安定しフィットする。
本当の故郷。
「思考」をどうにかしたり、「思考」を嘆き裁かなくてもいい。
「思考」はただ優しく看過されていく。
「思考」は純粋な空間に溶けていく。
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レッスン174
(157) 今、私はキリストの臨在の中へと入っていく。
(158) 今日、私は受け取った通りに与えることを学ぶ。
神は愛であり、だから私も愛である。
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今日から、あなたの司牧の職務が真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へと伝わり、あなたが見る人々を祝福する。
心眼は、あなたが出会う誰にでも届き、あなたが思い浮かべる人やあなたを思う人の一人ひとりにも届く。
今日のあなたの体験はあまりに心を変容させるので、それが「神聖な神の想念」というものを識別するための目安となるからである。
(pl157 5:1~3)
こうした体験が増えていき、これ以外のどのゴールもほとんど無価値となるにつれ、あなたが戻ってくるこの世界は、時間の終わりに少しずつ近づいていく。
世界のあり方もわずかずつ天国に似たものとなり、解放の時が少しだけ近くなる。
そして、この世界に光をもたらすあなたは、その光を一層確かなものとして見るようになり、心眼は一層明確になっていく。
いつの日か、今のあなたがまとっている姿でこの世界に戻ることがなくなる時がくる。
そのとき、あなたはその姿を必要としないからである。
けれども今は、それには目的があり、それはその目的に役立つだろう。
(7:1~4)
私たちは今、キリストの臨在の中に入っていく。
(8:1)
あなたに与えられているものとは何だろうか。
それはあなたが心であるという智識である。
あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており、愛によって創造されたので永遠に罪はなく、まったく怖れを知らない。
そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。
これが、絶対に失いようのない智識として、あなたに与えられている。
それはまた、生きとし生ける一切のものにも与えられている。
この智識のみによって、生命あるものは生きているからである。
(pl158 1:1~5)
それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。
誤りや哀れな間違いや罪の夢から生じる罪悪感という恐ろしい考えによって曇らされることのない清らかさである。
それはいかなる分離を見ることもない。
そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光をみる。
(7:2-5)
これは教わることができるものであり、それを達成したい者は誰でも、それを教えなければならない。
そのために必要なのは、この世界はわずかでもこれに匹敵するような価値のあるものを与えることはできないと認識することであり、
この世界が掲げる目標はすべて、これが知覚されたときにはただ消えてしまうようなものばかりだと認識することである。
そして、今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体として見ない、ということである。
誰のことも神の子として認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。
(8:1-4)
こうしてその人は自分の罪を赦される。
キリストはすべての罪を看過する力のある心眼があるからである。
キリストによる赦しの中で罪は消え去っている。
この一なる存在の目に入らないので、罪はただ消えていく。
そうした罪を越えたところにある聖性の心眼が、それらと入れ替わるからである。
罪がどんな形をとっていたか、いかに巨大に見えていたか、それらのせいで誰が傷つけられているように見えていたかは、問題ではない。
それらはもはや存在していない。
そしてそれらがもたらした結果のように見えたものもそれらとともに去っていき取り消されるので、二度と生じることはない。
(9:4-6)
自分の兄弟の中に見えるものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。
もし彼が罪のうちに見失われるならば、あなたも同じように見失われる。
もし彼の中に光を見るなら、あなたの罪はあなた自身により赦されている。
今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。
(10:3-5)
今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する。
(11:3)