この世界での「差異」において求められる喜びや幸せは、「癇癪」、「悲鳴」のようなものだったのだと氣がつきました。
「分離」の決断への「罪悪」、つながりをシャットアウトした瞬間の「孤独」の「悲鳴」。
それらを喜びや幸せだと取り違えていたのです。
静寂さを取り戻す時間を与えられていることに感謝しています。
今しばらく、「分離」時から続いていた「癇癪」「悲鳴」を聖霊と共に見守り、看過させていきます。
その副産物として起こる啓示を賛美します。
「分離」を選びません。
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ワークブック
レッスン177
(163) 死は存在しない。神の子は自由である。
(164) 私たちは今、私たちの源である神とひとつである。
神は愛であり、だから私も愛である。
父よ、今日、私たちの瞳を祝福してください。
私たちはあなたの使者です。
すべてのものの中で輝くあなたの愛の栄光ある反映を見たいと願っています。
私たちは、ただあなたの愛の栄光ある反映を見たいと願っています。
私たちは、ただあなたの中でのみ生き、活動します。
私たちはあなたの永遠の生命から分離してはいません。
死は存在しません。
死はあなたの意志ではないからです。
そして私たちは、あなたが私たちを置いた場所、私たちがあなたや生命あるすべてのものと共有している生命の中に留まります。
そうすれば、私たちは常しえに、あなたと同質のものであり、あなたの一部です。
私たちはあなたの想念を私たちのものとして受け入れるので、私たちの意志はあなたの意志と永遠にひとつです。
アーメン。
(lp 163 9)
兄弟よ、今日は世界にとって神聖な日である。
世界のあらゆるものごとをはるかに超えたところから与えられるあなたの心眼が、それらを新しい光の中で振り返り、見つめ直す。
そうしてあなたに見えるものは、この世界の癒しとなり、救済となる。
価値あるものも価値のないものもともに知覚され、ありのままに認識される。
そして、あなたの愛にふさわしいものはあなたの愛を受け取り、恐れを抱かせるようなものは何も残らない。
(lp 164 6)
私たちは今日、裁かない。
世界を越えたところで下された審判から私たちに与えられたものだけを受け取る。
私たちの今日の練習は、盲目と惨めさから自分たちが解放されたことへの感謝の贈り物となる。
私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びは増すばかりである。
私たちはキリストの視覚の中で赦されており、全世界は私たちの視覚の中で赦されている。
救い主は光の中で私たちを見ている。
それと同じ光の中で私たちが世界を見つめるとき、私たちは世界を祝福する。
そしてまた、私たちが自分の視覚ではなく救い主の赦しの心眼を通して自分に与えられている自由を世界に差し出すとき、私たちは世界を祝福する。
(pl 164 7)
練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。
あなたのとるに足らない宝物を片づけ、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。
そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。
キリストは、世界を救うために、あなたの至聖なる心を必要としている。
この目的には、あなたが自分のものとするだけの値打ちはないだろうか。
この世界の満たされることのないゴールよりも、キリストの心眼のほうが、はるかに追求すべき価値があるのではないだろうか。
(pl 164 8)
今日という日が差し出している贈り物を、あなたが承諾し受け入れないうちに、一日が過ぎてしまうことがないようにしよう。
あなたがそれらの贈り物を自らのものと認めるなら、私たちは世界を変えることができる。
あなたがそれらを受け入れることで、どれほど価値のあるものがこの世界にも与えられるか、あなたにはわからないかもしれない。
しかし、少なくとも、自分が今日この日に、すべての苦しみを喜びと交換できればいいということは、確かにのぞんでいるはずである。
真剣に練習しなさい。
そうすれば、これらの贈り物はあなたのものとなる。
神があなたを欺こうとするだろうか。
神の約束が果たされないということがあるだろうか。
神の手が完全な救済をわが子に差し出しているときに、あなたがそのように卑小なものを手放さずにいられるだろうか。
(pl 164 9)