個人単位や自分の家族単位という「特別性」で物事を考えることは「防衛」を繰り返しているだけになる。
個人や身内単位という「特別性」を「守り続けている」ということは、延々と「恐れ」への対処をしていることになり、その「想念」の強さゆえに、その「想念」どおりの「恐れ」をこの世界に延々と見続けることになる。
また、一見、「全体」のためだとしても、その「全体」が「個人」として存在していると思い込んでいる「形(物質)」の世界に向けてだとすれば、「個人」「形(物質)」という危うさに投資しているということなので、やっぱり、延々と「不安定さ」=「恐れ」を見続ける。
このように、意識とその思考が「個人」のままの間は、「恐れ」の夢をエンドレスで見続ける。
「コース」は、私たちの"本性"に心を開きましょう、と優しく提案してくれる。
また、真実っていうのは、私たちの”自由意志”を尊重しているから、無理強いしない。
私たちが自分でそちらを見るまでは、見えない。
だけど、「コース」が私たちの前に現れてくれた。
あくまで自由意志。
この世界のどこを探しても、混乱と疲弊と落胆と一時的なマヤカシの喜びしかないことに氣づいた時、私はようやく「本性」に目を向けた。
そして、そのわずかな「意欲」だけが求められていた。
その「意欲」とは、「個人」から「全一」に心を開くこと。
闇に光をもってくるのではなく、
光に闇を引き上げる。
この世界に天国を持ってくるのではなく、
天国に世界を引き上げる。
「個人」が消滅してしまうような怖さに足がすくむけど、この杞憂こそが大きな勘違いだった。
「個人」ではなかったとわかると、逆に「恐れ」から解放されていく。
「個人」を握りしめているための「緊張」から解き放たれるほどに、確かという懐に抱かれて、気楽さに笑い転げ、形容し難い安らぎと幸せを感じるようになる。
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ワークブック
復習
レッスン179
(167) 一なる生命があり、それを私は神と共有している。
(168) あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものをします。
神は愛であり、だから私も愛である。
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さまざまな種類の生命というものはない。
生命は真理と同質のものだからである。
(167 1)
死とは、自分が自分の創造主から分離しているという考えである。
それは、自分に制御できない原因や、自分が作ったわけでもなく自分では絶対に変えられないような原因によって、状態は変化するし、感情は移り変わるという信念である。
それは、想念はその源を離れることができるし、その源に含まれていない資質をもつようになり、その種類や距離や時間や形態において、もとのあり方とは違った別のものになれるという凝り固まった信念である。
(レッスン167 4:1-3)
一見、生命の反対の状態のごとくに見えるものは、ただ眠っているだけである。
心が心でないものになることを選び、自分がもっていない異質の力を身につけようとしたり、自分が入っていくことのできない異質の状態や、自分の源の内にはない偽りの状態を装おうとするとき、心は少しの間、眠りにつくように見える。
その心は時間という夢を見る。
すなわち、一度も生じたことのないものが生じ、実体のない変化がもたらされ、どこにも存在していない出来事が存在するかに見える間隔を、夢見るのである。
(167 9:1-3)
私たちはひとつの生命を共有している。
(167 12:1)
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