映画や漫画、世界が流しているニュースで出くわすグロさ、非常さ、最低さ。
それが自分の中のものだったとはとても受け入れられなかったけど、凄まじい「悪」を握りしめていた。
というか握りしめておくのを選択していた。
「分離」というストーリーのつじつまを合わせるために必要だったのだ。
この憎悪は全部私が作り出し外に投影したのだった。
レッスン170にあるように、このグロさ、憎悪は、「防衛」の最たる形。
これほどまでに、神が怖くて、逆恨みし、憎み、逃げ出そうと、追いかけてくると思い込んでいる神への「防衛」のために色んな凶器を捏造し、足元にばらまき、手に携えてきた。
そして、そのことを信じたくないために、外に投影し、遠巻きに様子を見ていた。
もう、こんな「狂気の沙汰」ごっこは終わり。
これらの捏造を認め、その「想念」と、リアル化を助けている感覚を、全部聖霊に差し出す。
全部、全部、差し出す。
「私が作り出したものを差し出します。どうぞ取り上げてください」
心を聖霊に向けると、もう瞬時に光がそれらを消し去ってくれる。
そうして、光とひとつになる。
ナチュラルな喜びが蘇る。
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ワークブック
復習
レッスン180
(169) 恩寵により、私は生きる。 恩寵により、私は解放される。
(170) 神に残酷さはなく、だから私にもない。
神は愛であり、だから私も愛である。
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心が恩寵を真に受け入れる準備ができるまでは、恩寵が訪れることはありえないからである。
(169 1-3)
恩寵とは、憎しみと怖れに満たされているかに見えるこの世界の中で、神の愛を受け入れることである。
ただ恩寵のみによって、憎しみと怖れは消え去る。
(169 2-1.2)
恩寵は学べるものではない。
(169 3-1)
自分の知らないことがいくつもあるということを自覚するようになっており、それによって、自分が慣れ親しんでいる体験とはまったく異なる状態を受け入れる用意ができている。
(169 3-6)
私たちは「神、在り」とだけ言って、その後は口をつぐむ。
なぜなら、その智識の中では言葉は無意味だからである。
(169 5-4)
それは心を、終わりなき現在の中に戻す。
そこでは過去や未来といったものを思い描くことさえできない。
それは救済を超えたところに横たわり、時間や赦しやキリストの聖なる顔といったものについてのすべての想念も超越している。
神の子は、ただ父の中へと消え去り、父は子の中へと消え去っている。
世界は一度も存在したことはなかった。
永遠が、恒常の状態であり続ける。
(169 6-3.4.5.6.7)
私たちはただ、遠い昔に割り当てられている役割につくだけであり、その役割は、創造主の名と創造主の子の名において救済の台本を書いた聖霊によって完全に認識され、完璧に成就されている。
(169 9-3)
そのわずかな間だけで充分である。
そこに、奇跡が置かれる。
あなたは恩寵の体験を通して聖なる瞬間を受け取り、そこから、その奇跡をあなたの顔に残る光を見るすべての者たちへと与え返す。
キリストの顔とは、時間を超えたところにわずかに足を踏み入れ、そこで一瞬の間感じた一致の状態を鮮明に映し出すものを持ち帰り、世界を祝福した者の顔にほかならない。
(169 13-1.2.3)
父よ、私たちはあなたと同質のものです。
私たちの中に残酷さはありません。
あなたの中にそれがないからです。
あなたの平安は私たちの平安です。
そして私たちは、ただあなたから授かったものだけで世界を祝福します。
私たちはもう一度選択します。
そして、兄弟全員が自分とひとつであることを知りつつ彼らのために選びます。
私たちは今、あなたから救済を受け取りました。
私たちは同じやり方で、それを兄弟たちもたらします。
また、私たちを完全にしてくれる兄弟たちについて、感謝いたします。
私たちは、彼らの中にあなたの栄光を見て、彼らの中に、平安を見出します。
あなたの聖性が私たちを自由にしてくださったので、私たちは神聖です。
そして私たちは感謝を捧げます。
アーメン。
(pl 170 13)