レッスン181は前回は抵抗がありすぎて、嫌で仕方なかった。
「ゆるし」を差し出すのがイヤな人がいたから、曖昧にしてなんとなくわかったふりしてスルーした。
けど、今回は、なんて素晴らしいレッスンなんだと感激している。
よかった・・・・・。
楽になることを拒んでいたんだ。
兄弟とつながらないことで、苦しさを持続させたかった。
私たちは「心」だから、具体的な肉体的なつながりをどうこうする必要はない。
「心」だと受け入れ、「心」はひとつだと知っていることを受け入れる。
それだけなのだ。
一瞬前に見たことを忘れていい。
なんて清々しいことだろう。
"今"は愛で創られている。
それを何かで覆うなんてできるわけがない。
キリストの心眼に近づくことだけを求めていたのだから。
これ以上の幸せはない。
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ワークブック
レッスン181
私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。
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レッスン181~200への序文
しかし、自分が見るものをきびしく制限することをやめたときに訪れる自由と平安の体験が、おのずとそれを物語ってくれるだろう。
動機が強まるので、言葉はほとんど重要ではなくなる。
あなたは自分が何を欲しているか、何が無価値なのかを、確信するようになるだろう。
(2:4~6)
だから、まずはあなたの進歩をいまだに阻んでいるものに焦点を合わせることによって、言葉を越えていく旅を始める。
防衛を越えたところにあるものは、それが拒否されている間は体験されない。
それがそこにあっても、あなたはその存在を受け入れることができない。
だから私たちはこれから、毎日少しの間、すべての防衛を越えていこうと努める。
(3:1~4)
兄弟を攻撃するとき、あなたは、自分が彼の中に知覚したものによって彼が限定されていると宣言している。
彼の誤りを越えたところを見てはいない。
むしろ、それらの誤りが拡大されている。
そして、あなた自身の間違いを越え、彼やあなた自身の罪のごとくに見えたものをも超えたところにある自己を、あなたは自覚できなくなっている。
(1:2~4)
知覚には焦点がある。
これが、あなたが見るものに一貫性を与える。
この焦点を変えるだけで、それに応じて見えるものも変化する。
あなたの視覚は変化し、以前にもっていた意図と入れ替わった新しい意図を支えるようになる。
兄弟の罪に焦点をあてるのはやめなさい。
そうすれば、無罪性を信じることから生じる平安を、あなたは経験する。
こうした信を確かに支えるのは、人々の罪を越えたところであなたに見えるものだけである。
彼らの間違いに焦点が置かれるならば、それはあなたの中の罪の証言となる。
そうなると、あなたは罪が見える視界を越えて、その向こうにある無罪性をみることはない。
(2:1~8)
未来のゴールは気に欠けない。
一瞬前に見たことにも、関心をもたない。
私たちは自分の意図を変えるためのこの練習の時間枠の中にいる。
無垢性のみを追求し、それ以外の何も求めない。
今という時以外には関心をもたずに、それだけを追求する。
(3:3~6)
これまで上手くいかなかった主な要因は、過去や未来のゴールを気にかけていたことだった。
(4:1)
どんな形であれ怒りが私たちの道を塞ぐなら、自分がこのゴールを見失ったと認識する。
兄弟の罪が思い浮かぶなら、私たちの焦点は狭まっており、それにより視覚は制限され、目は自分自身の間違いに向けられ、私たちはそれを拡大して自分の「罪」と叫ぶことになる。
(6:1~2)
私が見たいのは、これではない。
私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。
(6:4.5)
私たちの無罪性を見る心眼を何らかの障害が妨げるように見えるたびに、罪に焦点を合わせたことでもたらされている不幸、そしてその罪が訂正されない間はとどまり続ける不幸から、ほんの一瞬の間、離れようとするだけでよい。
(7:3)
間違いを越えたところに焦点が移行するとき、私たちは完全に罪のない世界を見るようになる。
これを見ることだけが私たちの望むすべてとなるとき、また、真の知覚の名においてこれだけを求めるとき、キリストのまなざしが必ず私たちのものとなる。
そしてキリストが私たちに対して感じている愛も、私たちのものとなる。
私たちは世界と自分自身の中に、この愛の反映だけを見るようになる。
(8:3~6)
かって私たちの罪を宣言した世界が、私たちに罪がないことの証拠となる。
そして私たちが見るすべての人に感じる愛は、聖なる自己を私たちが思い出していることを証言する。
この自己は罪を知らず、その無罪性を共有していないものなど思いつくことすらできない。
(9:1~2)
私たちは未来も過去も見ることはしない。
ただまっすぐに現在を見つめる。
(9:4.5)
私たちの無罪性は、神の意志にほかならない。
(9:6)