自分を罪悪の根元だと信じていると、思う事も、やることなすことも、全部に「犠牲」という感覚を感じてしまう。
「私は悪い人間だから、だから犠牲を払わなければならない」
「どうして私ばっかり、犠牲にならなきゃいけないの」
「誰かの犠牲になるのは避けたい」
「犠牲者」であると言い張り、「犠牲」になるのをできれば避けたいので、損得勘定して、逃げ惑う。
「犠牲者」として生きるから誰かを恨んだり、不満や不足を感じてる。
「犠牲者」だから、いつも被害を被ってるから、何か見返りがほしい。
「犠牲者」だから、誰のことも祝福できない。
延々とこーーんなストーリーの中にいた。
だけど、「罪悪」は夢だった。
だから、「犠牲」も夢だった。
私も誰も「罪悪」の夢から覚めていいし、すでに覚めている。
私は愛されていたし、愛している。
私は誰かの犠牲にはなってないし、誰も私の犠牲にはなっていない。
「犠牲」が去れば、そこには「喜び」だけがあった。
祝福のシャワーだ。
もう躊躇わない。
喜びを受け入れる。
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ワークブック
レッスン187
私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。
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自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。
(4:1)
喜んで与えなさい。
それにより、あなたはただ得るのみである。
想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものとなる。
想念は失われることがないので、共有されるとき延長される。
この世界が考えるような意味での「与える者」と「受け取る者」は存在しない。
そのまま所有し続ける「与える者」と、いずれ自らも与えることになるもうひとりの「与える者」がいるだけである。
そしてこの交換では、必ず両者がともに得ることになる。
なぜなら、各自にとって最も役に立つ形でこの想念を所有するからである。
失うように見えるものは、いすれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。
(5:1~8)
ただあなたは自分自身に与えているのだということを、決して忘れてはいけない。
与えるということが何を意味するかを理解する者は、犠牲という概念を一笑に付す。
また彼が犠牲の概念がとるさまざまな形を認識できないということはありえない。
苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死なども、彼は笑って退ける。
彼は、常にこうしたもの全ての背後に犠牲という一つの概念が存在することを認識するので、彼の優しい笑い声の中でそれらは癒される。
(6:1~5)
認識された幻想は必ず消滅する。
苦しみを受け入れずにいなさい。
そうすれば、あなたは苦しみをいう想念を取り除くことになる。
すべての苦しみをありのままに見ることを選択するとき、あなたの祝福が苦しむ者たち皆の上に注がれている。
苦しみが表現されているように見えるあらゆる形を生起させるのは、犠牲という概念である。
そして犠牲というのはあまりにも狂った概念なので、正気の心はすぐさまそれを退去させる。
(7:1~5)
自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。
少しでも価値あるものには犠牲が存在する余地はない。
もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。
あなたの祝福がそれを訂正するだろう。
祝福はまずあなたに与えられているので、今や、あなたも祝福を与えることができる。
すでに自分自身を赦し祝福した者の前では、どんな形の犠牲や苦しみも長く存続することはできない。
(8:1~6)
兄弟があなたに差し出す百合の花は、あなたの祭壇の、あなたが彼に捧げる花の隣りに飾られる。
誰がこのように麗しい聖性を見ることを恐れるだろう。
あなたがここに見る清らかさの前で、神に対する恐れという大きな幻想が無に帰する。
見ることを恐れてはいけない。
あなたが見る祝福された状態は、形態についてのすべての想念を取り去り、そのかわりに、永遠に在り続け、増大し、永久に与え続けてもなおあなたのものである完璧な贈り物を残すだろう。
(9:1~5)
恐れが消え去り、今や私たちは重いにおいてひとつである。
だから一なる神、一なる父、一なる創造主、一なる想念に捧げられた祭壇を前にしたこの場に、私たちは一なる神の子としてともに存在している。
私たち全員が私たちの一なる自己の無垢性により一つに結ばれており、どの兄弟もこの自己の一部である。
そうして私たちは、源である神から分離することなく、兄弟の誰からも離れることなく、至福の中に立ち、自らが受け取った通りに与える。
私たちは神の名を口にする。
そして内側を見るとき、自らが父の愛を反映し天国の清らかさに輝いているのを見る。
(10:1~5)
今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは世界を祝福する。
私たちは自分が見たものを延長する。
それはあらゆるところに見たいからである。
私たちはすべての人の中に、それが神の恩寵とともに輝くところを見たい。
自分が見る何に対してもそれを与えずにおきたくはない。
そしてこの神聖な光景を自分たちのものとして確保するために、見るものすべてにそれを差し出す。
私たちがそれを見る場所で、それは私たちの祭壇に飾ることのできる百合の花の形で与え返され、そこが無垢性そのものの住む家となる。
その無垢なる存在は私たちの内側に宿り、彼の聖性を私たちのものとして私たちに与えてくれる。
(11:1~6)