「心」の中に怒りを居座らせたままにしておくのは、この世界を間にうけてしまっていたから。
だけど、この世界は、私の心を映し出しているに過ぎない。
なので、心をただじっと見つめる。
「分離の世界にしがみつかないといけない、これを選んだのは私だから。
愛に生きる資格はもうないのだから。
私が選んだのだから。
今更、変えることなんてできない。」
なーんて感じで意固地になってました。
だけど、間違ってた。
間違ってたんだから、訂正します。
外に怒ってたんじゃなくて、自分に怒ってた。
不正直な自分に怒ってた。
そして、それを認めた。
神は怒ってもいなかった。
私が私を怒ってた。
優しくしよう。
私にもみんなにも世界にも。
自我は過ぎ去ったのだから、振り返らなくてもいいし、振り返っても、そこには何にも残っていない。
ただ愛が光ってるだけ。
・・・・・
ワークブック
レッスン192
私には、神が全うさせようとする機能(はたらき)がある。
怒りが消え去ったとき、あなたは知覚するだろう。
キリストの心眼や視覚の贈り物を得るのに何の犠牲も求められず、病んで苦悩していた心からの痛みが取り除かれたにすぎなかったということを。
(6:1)
だから、誰も囚人にしてはならない。
束縛するかわりに解放しなさい。
それがあなたを自由にするからである。
この道は単純明快である。
突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかしていることを理解しなさい。
そして、罪を宣告された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振り下ろされるか、回避されるかのどちからである。
だから、あなたを怒らせるかに見える人々は、あなたを死の牢獄から助け出す救世者を象徴している。
だから、あなたが彼に返すべきものは、苦痛ではなく感謝である。
(9:1~7)