冒頭の言葉はぐさっときます。
自我意識はなんてさもしくてさみしい意識なんでしょう。
人の不幸が自分の喜びという感覚って、本当に狂ってました。
人を妬んだり羨ましがるのも、攻撃の一つの形であり、その感覚が自分をさらに攻撃するのでした。
生きとし生けるものから私たちは分離しておらす、だから神とひとつであるということだけに感謝する。
(6:1)
というように、私たちは分離なんかしていませんでした!
そして、そのことに感謝するのでした!
感謝が何か分かってませんでした。
感謝とは「全一」であることへの祝福の思いでした。
この一体感以外に平安などありませんでした。
感謝します!
レッスン195
愛は私が感謝の内に歩む道である。
・・・・・
世界を誤って見ている者にとって、感謝というレッスンを学ぶことは難しい。
彼らにできることは、せいぜい、自分自身が他人よりもましな状態にあると見なすことである。
そして、自分よりも他人の方がもっと苦しんでいるように見えることで、満足しょうと努力する。
何と哀れで、卑しい考え方だろう。
他人には感謝できることが少ないときに、自分だけ感謝などしていられるだろうか。
いったい誰が、他人がもっと苦しんでいるのを見て、自分はそれほど苦しまずにいられるというのだろう。
あなたの感謝は、すべての悲しみの原因を世界中から消滅させた神だけに捧げられなければならない。
(1:1-7)
苦しみを理由にして感謝するのは狂気である。
しかしまた、すべての苦痛が癒され、苦しみが笑いと幸福に入れ替わるための確かな手段を捧げる存在に感謝できないのも、同様に狂気である。
また、少しでも正直な者なら、神が指示する一歩一歩を踏み出すことを拒みはしないし、出口がないと思えた牢獄から抜け出して、今なら近くできる解放へと至るために、神が自分の前に用意してくれた道を進むことを拒否したりもしない。
(2:1-3)
兄弟があなたの「敵」となる理由は、あなたが兄弟の中に自分と平安の奪い合いをする者を見るからである。
彼は、あなたの喜びを奪って彼の喜びとし、何の希望も残らないほどにつらく容赦ない絶望の闇だけをあなたに残す略奪者である。
そうなると、望むべきは復讐だけとなる。
今やあなたにできることは、兄弟を自分と同じく無用の者とし、自分の手と同じように貪欲な彼の手の内に何も何も残さぬように、彼を倒して自分とともに死ぬ者とすることである。
(3:1~3)
兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。
また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。
愛は比較しない。
そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。
私たちは、自分たちの中で一切のものが自由を見出すということを、父なる神に感謝する。
ある者たちがまだ縛られたままでいるときに、ほかの者だけが解き放たれるということはない。
愛の名において駆け引きできる者などいないからである。
(4:1~6)
私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。
すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらす、だから神とひとつであるということだけに感謝する。
(6:1)
私たちが比較をやめるとき、憎悪は忘れられるからである。
(8:2)
あなたの赦しが完全になるとき、あなたの感謝が全的なものとなるだろう。
なぜなら、すべてのものがあなたの自己と同じように愛するものであることにより、愛を受け取る権利を獲得しているということが、あなたにわかるからである。
(8:6)
神はわが子であるあなたに対し、あるがままのあなたであることに感謝する。
すなわち、あなたが神ご自身を完成させるものであり、神とともに愛の源であることに感謝する。
(10:4)