自分への攻撃を、ただ外に転写していただけだということが、真にわかるまでは、自分ではなく、外の人や出来事を裁いていると思い込んいる。
この部分は本当に根強い欲求であり、根強い信念だなぁと思う。
苦しみに対して、苦しみが麻痺して感じられない間、苦しみを大目に見ている間、は真にわかることができない。
日々、微かなものであっても、正直になり、苦しみを見逃さないで、受け入れ、聖霊に渡す意欲が出てきて、ようやく、苦しみも攻撃も全部、自分が自分に向けていたものだったと自覚できた。
全部!自分の世界。
攻撃は自分への攻撃。
攻撃は分離を生み続ける。
愛は自分への愛。
愛は愛を延長し続ける。
本当にシンプル。
ただただシンプルでナチュラル。
真実は強さであり自由。
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レッスン196
私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。
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このことがしっかりと理解され、充分に自覚されるなら、あなたは自分自身を傷つけることも、自分の肉体を復讐の奴隷にすることもしなくなるだろう。
自分自身を攻撃しなくなり、他人への攻撃は自分への攻撃にすぎないと悟るだろう。
兄弟を攻撃することが自分を救うという狂った信念からも自由になるだろう。
そして彼の安全が自分の安全であり、彼が癒される時あなた自身が癒されると理解するようになる。
(1:1~4)
しかしあなたは、そうした愚かな真理の使い方を見て、そのような使い方の中に含まれているように見える意味を、否定することを学ぶことができる。
(2:4)
そのようにして、あなたは同時に、自分が自我ではないことを自分の心に教える。
自我が真理を歪めようとするやり方は、もはやあなたを助けなくなるからである。
あなたは、自分が十字架にかけられる一個の肉体であるとは信じなくなる。
そしてあなたのまなざしは、十字架刑や死の想念を看過して、自由や生命の想念へと達し、今日の主題概念の内に復活の光を見るだろう。
(3:1~4)
今日の概念は、束縛から完璧な自由に至るために私たちが踏み出す一歩である。
今日、この一歩を踏み出そう。
一歩一歩を定められた順序に従って踏み出すことで心は一つずつ、重荷を捨て去り、救済の示す道を速やかに進めるようになる。
このことに必要なのは時間ではない。
意欲だけである。
(4:1~4)
他人を攻撃することで自分自身を救い出せるというわびしく絶望的な考えが、あなたを十字架に釘づけにしてきたのである。
それは救済のように見えたかもしれない。
しかしそれは、神に対する恐れが実在するという信念を表していただけである。
そしてそれこそ、地獄以外の何だろう。
自分の父が自分とは分離した不俱戴天の敵であり、自分の生命を破壊して宇宙から消滅させようと待ちかまえていると信じながら、自分の胸の奥に地獄の恐怖を抱かせにいられるだろうか。
(5:1~5)
もしあなたが、他人を攻撃しておきながら自分自身は自由でいられるという恐ろしい考えを受け入れるなら、そうした形の狂気をあなたは信じているのである。
この形を変化させない限り、希望はない。
少なくとも、こんなことはまったくありえないはずだとわからない限り、どうして脱出が可能となるだろう。
この想念が真理だと思う誰にとっても、神に対する恐れは実在のものとなる。
彼はこの想念の愚かさを知覚せず、あるいはその想念がそこにあることすら見えず、したがってそれを疑問視することさえできない。
(6:1-5)
それに少しでも疑問を抱くには、まはじめに、少なくとも報復の恐怖がやわらぎ、その責任がある程度あなたのもとに戻されるところまで、その形が変化する必要がある。
そこからなら、あなたは少なくとも自分がこの苦痛の道を進みたいかどうかをよく考えることができる。
この変化が達成されるまでは、自分に恐れをもたらしているのは自分の想念であり、自分の解放は自分にかかっているということを、あなたは知覚することができない。
(7:1~3)
あなたが自分自身の想念以外の何かによって傷つけられることは不可能だと理解するとき、神に対する恐れは必ず消滅するからである。
そのときには恐怖が自分の外側で引き起こされるとは、信じられなくなる。
(8:3.4)
あなたが十字架にかける相手はあなた以外にないというのなら、あなたは世界を傷つけたことはなく、その復讐や追跡を恐れる必要もない。
さらには、投影の背後に隠されている神に対する死ぬほどの恐怖から、恐れおののいて逃げ隠れる必要もない。
あなたが最も恐れているのはあなたの救済である。
あなたは強き者であり、あなたが望んでいるのは強さである。
そしてあなたは自由であり、自由を喜んでいる。
あなたは自分の強さと自由を恐れたので、弱き者となって、束縛されることを求めてきた。
しかし救済は強さと自由の内にある。
(9:2~7)
恐怖があなたの心をあまりにも完全に締めつけるので、脱出の希望すらないように思える瞬間がある。
あなたが自分を恐れているのは自分だということを、迷いの余地なく完全に悟るとき、心は自分が二つに分裂していることを知覚する。
攻撃が外に向かって為され、外から自分の内側へ返されると信じていた間は、このことは隠されていた。
自分が恐れるべきものは外側の敵のように思えていた。
そうしてあなたの外の神があなたの宿敵となり、恐れの源となっていた。
(10:1~5)
あなたの心が十字架に掛ける対象とすることのできる相手は、あなたしかいない。
しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。
(12:5.6)
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私が私を恐れていた。
ただそれを外に投影していた。
外から攻撃がやってくると妄想していた。
だけど、本当に本当に間違っていた。
私が私を攻撃していただけだった。
私が私の自由や強さを怖がっていた。
卑小な自我のままでいる事の方が利益があると思い込んでいた。
完全な忘却だった。
ビックリしている。
そしてあっけない感じもする。
だけど、
ここまでの真理に対する抑圧を、
今日、
静かに静かに見つめたい。
このレッスンには、言葉では尽くしがたい感謝です。
この学びに出会えたこと。
私たちの真我の叫びに届きそうな喜び。
さらにさらにサイレント。
静かに静かに見つめた