一年前のこのレッスンの記録を振り返ると、「咎め」(裁き)をやめることに、かなり疑り深く、躊躇いを持っていたのがわかった。
そんな自分にびっくりしたし、逆に、そんな自分にびっくりできてることにも驚いている。
咎めることをやめると大変なことになる、と思っていたんだ。
見張って、赦さないでおかないと、損害を被ったり、困ったことが起こるって思っていたんだ。
この世界で生き残るために、この世界で価値を見出すために、頭を振り絞って、何でもいいから、人と差をつけないといけないって。
だから、そのためには、誰かや何かを「咎めた」。
人と差をつけるために必要だった。
これまでずっと、咎めをやめるつもりなどなかったことが今回しみじみと理解できた。
隅々にまで癒しと赦しが行き渡っていくまで、「楽」「平安」は抑圧されている。
だけど、もう分離はいやだ。
もう、嘘の気楽さで生きるなんて不可能。
身体の「緊張」として留めていた「咎め」をふんわりと解放し、
「咎め」そのものが真に意味のないものとして取り去られていく様を、優しく見ていこう。
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レッスン198
私の咎めだけが私を傷つける。
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傷つくということはありえないことである。
しかし、幻想は幻想を作り出す。
もしあなたが咎めることができるとすれば、傷つけられることもありえる。
それはあなたが、自分は傷つけることができると信じたからであり、あなたが自分に設定したその権利は、それが価値がなくほしくもない幻想として放棄されるまで、あなた自身に向かって行使されるからである。
(1:1-4)
今日は、あらゆる形の苦しみは、必ず、赦そうとしない想念を隠しているということを忘れてはいけない。
そしてまた、赦しが癒せないどんな苦痛もないということも、忘れてはいけない。
(9:5.6)
今、世界中に沈黙が広がっている。
それまで無意味な想念がめまぐるしく駆け回っていたところに、静けさが満ちる。
夢のない安らかな眠りの中で静かになった地上を、穏やかな光が覆う。
そして、そこには神の言葉だけが残っている。
(11:1.2.3.4)