自我の解釈は、”愛は犠牲を伴うもの”だと信じられている。
自我は、愛を「犠牲」だと思い込んでいるから、自分の中の愛を自覚し、その愛を出すことは疲弊することであり、自分の愛は減ってしまうのだと思い込んでいる。
そして犠牲になりたくないから、愛を閉ざし、出し惜しみしてしまう。
愛を犠牲と思い込んでいるということは、愛は有限のもので、与えたらなくなるものなんだ、と思い込んでいることになる。
そう思い込んでいるから、「愛はなくなるものだ」という信念を体験するために、そういう出来事を作り、そういう出来事を目撃し、自分の信念通りの体験をする。
私も「奇跡講座」「非二元」が本当に腑に落ちるまでは、「愛」は人からもらわないと不利なんだと思っていた。
そして、愛を人から引き出すために、まわりの気を引いたり、駆け引きやコントロールにエネルギーを使って、疲弊していた。
さらには、自分で自分を疲弊させているのに、それを相手のせいにして、結果、人を遠ざけてきた。
この信念の中では、自分にも周りにも世界にも怒りや恨み、罪悪感が湧いてくる。
犠牲は美徳なんかではないし、ただの取引き。
愛を覆い、愛の要素にまでたどり着かないようにするための自我の信念。
分離を強化し続けるための信念。
この世界が愛の奪い合いでうず巻いているように見えるのは、私が世界を「自我」の目で見ていたからだった。
自我は「犠牲心」を感じることで予防線を張り、「愛」の中でひとつになるのを避け続ける。
だけど、私たちの本質は「愛」なのだ。
だから、「愛」を閉ざすことは、私たち自身を閉ざしてしまうことになっている。
閉ざした生き方は苦しいし不自然。
喜びが失われる。
幸せが薄らぐ。
疲弊しているのは、
幸せを感じられないのは、
誰かや何かから愛されていないからでも、誰かから奪われているからでもなくて、
「愛」の本質を誤解して、「犠牲」という世界に留まり続け、「愛」という本質そのものに心を開かずにいたからなのだ。
”分断されていない”「心」が私たちなのだから、
このスケールの違う圧倒的な勘違いを訂正していくだけなのだ。
この勘違いに気づき、
受け入れ、
「犠牲」を通り越して、
「愛」の中へとダイブする。
そこはどこまでも区切りがなくて、どこまでも安らいでいて、どこまでも光り輝いている。
それが何よりも自然なことなので、そこが私たちの本当の居場所なのだと理解して、そのなかでくつろぐ。
そうして、自分への、他者への、世界へのまなざしは一変していく。
「肉体」の夢を通り過ぎ、
「愛」そのものに融合していく。
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ワークブック
レッスン207
復習
1.(187) 私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。
神の祝福が、神が宿る私の胸の中から私を照らしている。
私に必要なのは神の方を向くことだけである。
そうして、私が神の無限の愛を自分に受け入れるとき、すべての哀しみは解け去る。
(1:1~3)
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しかしその形に価値を置いてはならない。
なぜなら、安全に確保しょうといくら努力しても、その形は時間の中で変化して認識できなくなるからである。
どんな形も永続しない。
不変なるまま生き続けるのは、ものごとの形態の背後にある想念である。
(T.187 .4:3-6)
苦しみが表現されているように見えるあらゆる形を生起させるのは、犠牲という概念である。
そして犠牲というのはあまりにも狂った概念なので、正気の心はすぐさまそれを退去させる。
(T.187.7:4-5)
自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。
少しでも価値のあるものには犠牲が存在する余地はない。
もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。
あなたの祝福がそれを訂正するだろう。
(T.187.8:1-4)