【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

クレームは「今ここ」への誘い(レッスン212)

「赦し」とは、分離という「自我」を選ばないでいる、ということ。


「自我」を選ばないということは、「平安」を選ぶということ。


「平安」は自然で、happyで、当たり前で、おだやかだ、ということ。

 

すべての攻撃は自己攻撃である。それ以外のものではあり得ない。本来のあなたとは違った者であろうという、あなた自身による決断から生じているため、それはあなたの自己認識に対する攻撃である。したがって、攻撃とはあなたの自己認識が失われる方法である。なぜなら、攻撃しているときは、あなたは本来の自分を忘れているに違いないからである。(T-10.II.5:1-4)

 

最近、家族や知人から、ふいにクレームを出される。


それを「クレーム」と受け取る時点で、「自我」を選んでるけど・・。


だけど、「クレーム」として受け取ったとしても、それから、それを癒しの機会にする。

 

そこでいったん立ち止まり、外に言い訳したり、攻撃したりするのではなく、その感覚を感じ尽くす。

 

そしたら、これは「クレーム」ではなくて、「愛」を思い出す機会だとわかる。

 

分離という信念によって、「今ここ」におらず、ダイレクトな喜びを遠ざけているよっていうお知らせなんだなぁ。

 

自我は自分の喜びを知っていると言い張り、最後は「分離」を強化するための罪と罰で終わるようになっていて、「不満足」にとどまったままでいようとする。

 

その選択はやめる。

 

わたしはわたしの喜びを知らないし、知る必要はない。


すべて用意されているし、すでに満たされている。

だから、起こるままに任せる。

 

その起こるがままに没入する。

 

一見、クレームは、「満足」そのものに気づかせてくれる。

 

この機会に、心を開いたままでいよう。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン212

 

復習

 

1.(192) 私には、神が私に全うさせようとする機能がある。

この世界の空虚な幻想から私を自由にするための機能を、私は求める。

神から与えられた機能だけが私を自由にすることができる。

これだけを私は追及し、これだけを自分の機能として受け入れる。

(1:1~4)

 

・・・

創造とは、この世界にあっては思い描くことさえできないものである。

それは、ここでは意味をもたない。

それが地上に最も近づいたものが赦しである。

天国で生まれたものなので、それはまったく形をもたない。

しかし、神は、まったく形のないものを形あるものへと変換する力をもつ存在として聖霊を創造した。

聖霊が作り出すものも夢ではあるが、それは目覚めに非常に近い夢なので、その中には日の光がすでに輝き、すでに開きつつある目は、そうした夢がもたらすものの中に幸せな光景を見る。

(レッスン192 3:1~6)

 

赦しは、天国では知られざるものの一切を優しく眺め、それらが消えてゆくのを見る。

そして、世界を真っ白な空白とし、それまでそこに書かれていた無意味な象徴が、神の言葉に書き換えられるようにする。

赦しは死に対する恐れを克服する手段である。

もはや死は強烈な魅力をもたず、罪悪感はなくなるからである。

赦しは、肉体をありのままに知覚させる。

すなわち、肉体は、学びが完了すれな横たえられるだけの単なる学習手段であり、学ぶ者を変化させはしないということが、知覚されるようになる。

(4:1~3)

 

肉体がなければ、心が誤りを犯すことはありえない。

それは自分が死ぬとか、残酷な攻撃の餌食になるとは決して思わない。

怒りはありえないものとなる。

そうなれば、どこに恐怖が存在するだろう。

攻撃の源、苦痛の中核、恐れの居場所をなくした者をどんな恐怖が攻撃できるだろう。

肉体を自らの家だと考えている心を、そうした考えから解放できるのは、赦しだけである。

もう一度自らの聖性を見るようにと神の子を説得できるのは、赦しだけである。

(5:1~7)

 

自分が出会う人、思いを馳せる人、想像する人をひとり残らず赦した者でなくて、誰がキリストの内に再生できるだろう。

自ら他者を幽閉している者を、誰が自由にできるだろう。

牢の番人は囚人とともに束縛されているので、彼に自由はない。

彼は囚人が逃げ出さないよう確かめていなくてはならないので、囚人を見張ることに自分の時間を費やす。

囚人を押し込めている鉄格子が、囚人とともに牢番が住む世界となる。

そして、両者にとっての自由への道は、彼の自由にかかっている。

(8:1~6)

 

だから、誰も囚人にしてはならない。

束縛するかわりに解放しなさい。

それがあなたを自由にするからである。

この道は単純明快である。

突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。

そして、罪を宣言された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振り下ろされるか、回避されるかのどちらかである。

だから、あなたを怒らせるかに見える人々は、あなたを死の牢獄から助け出す救済者を象徴している。

だから、あなたが彼に返すべきものは、苦痛ではなく感謝である。

(9:1~7)

 

今日は、慈しみ深くありなさい。

神の子はあなたの慈しみを受けるに値する。

あなたに自由への道を今受け入れるように頼んでいるのは神の子である。

彼を拒否してはいけない。

彼を愛する父の一なる愛はあなたのものである。

ここにおけるあなたの機能は、彼をあなたのアイデンティティーとして再び受け入れられるように、彼を赦すことだけである。

彼は、神が創造したままの彼である。

そして彼の本性はすなわちあなたである。

今、彼の罪を赦しなさい。

そうすれば、あなたは自分が彼とひとつだとわかるだろう。

(10:1~9)